盛大に幕を閉じた晩餐会の余韻を残しつつ、ノクスたちは静かに部屋へと戻ってきていた。煌びやかだった会場とは打って変わって、今いるこの部屋には落ち着いた静寂が漂っている。どこかしら、重たい空気も混じっていた。
アリスは椅子に腰掛けたまま、口を閉じて考え込んでいた。視線は手元にある空のティーカップをぼんやりと見つめているが、そこに意識があるようには到底思えない。
「……アリス、大丈夫?」
ジョーヌが声をかけた。普段は飄々としている彼女も、今日は表情を引き締め、アリスの様子を心配そうに見守っている。その隣ではルカも腕を組んで壁にもたれながら、気まずそうな顔で無言のまま立っていた。
「ありがとうございます……私は、大丈夫です。ちょっと考えたいだけで…」
アリスはそう言って微笑もうとするが、その表情には力がなかった。きっと、先ほどのやり取りが頭の中を渦巻いているのだろう。魔王エステアから聞かされた聖杯の真実。そして、リゼリアの術が自分に向けて放たれた事実。
「考えたいって言ってもさ、こっちは見てて心配になるっての」
ジョーヌが肩をすくめると、ルカも「ま、でも今無理に話しても仕方ないだろ」と小声で付け加えた。
ノクスはその様子を黙って見ていた。アリスが落ち込んでいるのは明らかだったし、自分なりに励まそうと何度か言葉をかけてみたが、うまく届かなかった。まるでアリスが自分の中に閉じこもって、鍵をかけてしまったような感覚だった。
(……俺、ここにいても意味ないかもしれないな)
そう思ったノクスは、そっと立ち上がる。まだ胸の奥はざわついていた。あの場で、あれだけの騒動があったにもかかわらず、魔王たちは冷静で、頼もしく――そして何より、自分たちを守ってくれた。だからこそ、ちゃんとお礼を言いたかった。
それに――
(気になること、あるしな……)
ノクスは心に浮かんだ想いを飲み込みながら、ジョーヌとルカに一言断りを入れる。
「ちょっと、行ってくるよ。二人はアリスをよろしく頼むよ」
ジョーヌは「わかった、気を付けてね」と肩を叩いて送り出し、ルカも「もし、リゼリアに出会ったらすぐ逃げろよ」と忠告しつつ見送った。
そしてノクスは、静かな廊下を歩いていく。
一方その頃――
魔王エステアの部屋では、先ほどのパーティの振り返りが行われていた。中心にいるのは、もちろん魔王エステア。そしてその周囲には、セス、モルテ、アミー、リュースの姿がある。全員が普段より真剣な表情をしていた。
「それで、リゼリアの狙いって結局なんだったのかしら?」
エステアがソファにもたれながら指先で髪を弄び、退屈そうに問いかける。
「聖杯を巡って、聖女と何らかの交渉をしようとしていた可能性はあるでしょうな」
セスが静かに答える。
「アリスを取り込んで、聖杯の返還を条件に王国と交渉するって路線か。でもその聖杯、持ってるのエステアじゃん」
アミーが笑いながら口を挟む。
「仮にうまくアリスを従えたとしても。聖杯の入手が無理過ぎるじゃろ」
モルテが腕を組んでうなずく。
「そうだよな。アリスだけじゃ足りない。肝心の聖杯が、今はエステアの手元にあるって時点で、成立しない取引だよな」
リュースも冷静に分析を加えるが、セスと目が合った瞬間に肩をすくめた。「……反論はない。正直、私もその点は疑問に思っていた」
「つまり、結局あのリゼリアは空振りだったってことね」
エステアはため息を吐きながら、紅茶を一口飲む。
「まぁ、ノクス達を守れたんだから結果オーライってことにしましょう?私たちにとっては、あれで充分意味があったわ」
その言葉に、全員が頷いた。
「確かに……ノクスが気づいてたかどうかはともかく、あいつもまた強くなってた」
リュースが呟き、どこか嬉しそうな顔をする。
その時だった。
コン、コン
部屋の扉がノックされる音が響いた。
「……今は来客を受ける気分じゃないわねぇ。セス、断ってちょうだい」
「承知いたしました」
セスは静かに立ち上がり、扉へと向かう。手を掛け扉を開けながら、軽く息を吸い、わざと威圧感を込めた声で告げた。
「どなたかは存じませんが、今は魔王様が――」
そこまで言ったところで、セスの目に飛び込んできた人物を見て、言葉が詰まった。
(……ノ、ノクス様!?)
瞬間、セスの顔から血の気が引く。
扉の前には、いつもと変わらない様子で立つノクスの姿があった。
(な……なぜ今……!?)
セスの脳内に警鐘が鳴り響く。よりにもよって、このタイミングでノクスが魔王の部屋に訪れるなんて――
セスが一瞬で緊張感を孕む中、ノクスはゆっくりと口を開いた。
「こんばんは。ちょっと、お話しとお礼をしたくて来たんです。ご迷惑じゃなければ……いいですか?」
その言葉で訪問者がノクスと気づいたエステアはしばし無言で考え込んで、ふっと笑みを浮かべて。
「……えぇ、構わないわ。入りなさい」
セスは呆然としながら扉を開け、ノクスを部屋へと通す。何も知らぬノクスの行動が、この夜に新たな波紋を生み出すとは――まだ誰も予想していなかった。
ノクスは静かにその部屋へと足を踏み入れた。空気はひんやりと澄んでいて、まるで異世界に迷い込んだかのような感覚に陥る。
「どうぞ、奥へ」
そう促され、ノクスは部屋の中央に設けられたテーブルの向かい、唯一空いている椅子へと腰を下ろした。その真正面――金髪の女性、魔王エステアが優雅に座している。
改めて部屋を見渡すと、彼らがどこか別格であることを改めて思い知る。
まず目を引くのは、冷ややかな蒼い瞳を持つ龍人。背中には蒼銀に輝く龍の羽が畳まれており、まるで神話から抜け出してきたかのような威圧感を放っている。口数は少なそうだが、視線は鋭く、ノクスを静かに観察していた。
隣には、鍛え上げられた巨躯の大男。額からは堂々とした双角が伸びており、姿勢を崩してもなお、その存在感は揺るがない。鬼人族だろうか。荒々しい印象とは裏腹に、今は静かに目を細めている。
そして、中性的な顔立ちの人物が一人。どこか人懐こい雰囲気を漂わせ、穏やかな微笑みをノクスに向けてくれている。外見の柔和さとは裏腹に、底知れぬ何かを感じさせた。
小さな少女の姿もあった。黒いローブに身を包み、髑髏の意匠が刻まれた杖を手にしている。歳相応のあどけなさを持ちながら、その眼光には年齢を超えた何かが宿っていた。
そして――
真正面に座るのは、紅いねじれた角が頭の後ろから伸びる、美しい金髪の女性。エステア、魔王である。瞳の奥には知性と狂気が混ざり合い、肌は月光のように白く輝いていた。優美な微笑を浮かべながらも、その威厳は部屋全体を支配している。
人間離れした五人の姿に囲まれ、ノクスは思わず息をのんだ。魔族だから当然といえば当然なのだが、改めて真正面から見ると、その「異質さ」と「力」の圧は否応なしに伝わってくる。
じっと観察してしまっていたからだろう。ふと、エステアが柔らかな笑みを浮かべて言った。
「そんなに見つめられたら……照れてしまうわ」
肩の力が抜けるような一言に、ノクスは「あっ」と短く声を漏らして視線を逸らした。
「す、すみません……つい」
「ふふ、いいのよ。あなたがまっすぐな子だって、知ってるもの」
エステアは楽しげに笑いながらティーカップを揺らす。
ノクスは一つ深呼吸をし、気を取り直して椅子から立ち上がった。そして真っ直ぐに魔王の姿を見据えると、姿勢を正して深々と頭を下げる。
「……魔王様、今回はアリスとルカを助けていただき、本当にありがとうございました」
その真摯な言葉に、部屋の空気がわずかに動いた。少し驚いたように、エステア達の視線がノクスに集まる。
エステアは一瞬、目を見開いた。
「まさか……魔王の部屋に一人で来たかと思えば、御礼を言われるなんて思わなかったわ。それに――私たちは何もしていないわよ?」
言いながら視線を横に向ける。
「……術を破ったのは、あのルカって子じゃなかったかしら?」
「それは……そうかもしれません。でも」
ノクスは顔を上げ、迷いのない声で答えた。
「リゼリアさんの言い訳を見抜いて、その場の流れを変えてくれたのは、魔王様でした。だから、感謝の気持ちは変わりません」
素直で、まっすぐな瞳。
その返答に、エステアは小さく目を細め、ふふっと微笑んだ。
「あなたのその礼儀正しさと、一人で魔王の部屋まで来た勇気を讃えて……礼は、ありがたく受け取りましょう」
それに呼応するように、他の魔族たちもそれぞれ微かに頷いていた。どこか誇らしげに、そして嬉しそうに。
再び着席したノクスは、ふと違和感を覚える。
(……なんか、みんな微妙にドヤ顔してないか?)
どこか誇らしげな表情の魔族たち。なぜかルカとジョーヌに似たような顔をしている気がして、ノクスは目を瞬かせたが――まあいいか、と気にしないことにした。
「それと、魔王様……もう一つ聞きたいことがあるのですが」
「なにかしら?」
エステアが紅茶を口に運びながら、柔らかく尋ね返す。
ノクスは真面目な顔で問いかけた。
「なぜ、あの……パーティで俺が粗相をしたとき、フォローしてくれた上に、その……頭を撫でてくれたんですか?」
一瞬で、エステアの動きが止まった。
ティーカップを持った手が宙で静止し、そのまま凍りついたように笑顔のまま固まっている。
(……あれ? 何かまずいこと聞いたか?)
ノクスは少し首を傾げつつも、ただ純粋な疑問をぶつけただけだったが、突如として固まってしまったエステアに困惑するノクスなのだった。