ノクスが部屋に現れたとき、エステアは正直、少し驚いていた。
何か問題があったのかと思ったが、彼は深々と頭を下げ、礼を述べた。「魔王様、今回はアリスとルカを助けてもらいありがとうございました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ノクスは――彼女が育てたその少年は――確かに成長していた。
礼儀正しく、慎み深く、そして何より――魔族だからといって偏見を持たない、まっすぐな瞳をしていた。
魔族に対する恐怖や嫌悪は、あの王国では当然のように植えつけられているはずだ。
だが彼は違った。助けられた相手が魔族であろうと、その行動に心から感謝を示した。
(ああ、本当に…立派になって…)
エステアは誇らしさを感じた。
この子を育ててよかった。そう、心から思った。
…だが。
その温かい感情は、次の一言で吹き飛んだ。
「それで魔王様、もう一つ聞きたいことがあるのですが――」
ノクスはまっすぐ彼女を見つめた。どこまでも純粋な目で。
「なぜ、あの……パーティで俺が粗相をしたとき、フォローしてくれた上に、その……頭を撫でてくれたんですか?」
エステアの顔は笑顔のまま、固まった。
(……終わったわ)
心の中で鐘が鳴った。彼女は顔では笑っていたが、思考は完全に凍りついていた。
(やばいやばいやばい!! え、そんなこと聞く!? なんで!? 今それ聞く!?)
もちろん、撫でた理由は明白だった。
日頃からノクスを育ててきた彼女にとって、それはごく自然な行為だったのだ。
彼が幼い頃は、落ち込んでいるときに何度も頭を撫でて励ましてきた。
あの時も、ふと身体が動いた。ただそれだけだった。
だが――
今のノクスはもう10歳。
しかも彼の前では“魔王”という立場である。
そんな存在が、パーティの場で少年の頭を撫でるなど、どう見ても不可解だった。
下手をすれば――いや、確実に親しすぎると思われる。
(今さら昔から撫でてた癖でついなんて言えるわけないわよ!)
焦ったエステアは、周囲に助けを求めた。
視線を右に向ければ、執事セスが固まっていた。顔は静かなのに、よく見れば右手の指先が細かく震えている。
左に目をやれば、モルテがうつむいている。たぶん、どう誤魔化すかを必死に考えて脳内でシミュレーションをしているのだろう。
アミーは珍しく無言だった。というより、頬を引きつらせながら目を逸らしていた。
関わりたくないというオーラが全身からにじみ出ている。
リュースに至っては、背中を向けてなぜか棚の上の壺をいじり始めていた。
お前等絶対聞こえてるだろ!? と言いたくなるようなタイミングだった。
(……全滅か!!)
このままではノクスに余計な疑念を抱かせてしまう。何か、何か言わなければ――!
エステアは震える声で、なんとか言葉を紡いだ。
「え、えっと……あれは、その、あなたの頭にゴミがついていたから……そう! それを払ってあげただけなのよ! べ、別に撫でたわけじゃないわよ!? 勘違いしないでね!?」
一気にまくし立てると、目を泳がせながら、なぜか語尾を強調してしまった。
(……これ、無理ある? いや、さすがに無理あるよね?)
そう思っていた矢先、ノクスがきょとんとした表情になった。
「……なるほど、そうだったんですね。すみません、変なことを聞いてしまって」
そして、素直に納得してしまった。
エステアは驚愕した。
(えっ!? 信じたの!? この言い訳で!?)
思わず目を見開いてしまったが、ノクスは全く疑っていないようで、椅子に座り直すと、
「いや、でもなんというか……自分にそこまで気を配ってくれたってだけで嬉しいです。魔王様は聞いていた話よりも優しい人ですね」
などと言って、にっこりと笑った。
(あああああああああああああああ!!!)
エステアは今にもテーブルに突っ伏したい気持ちだった。
まっすぐな目。まっすぐな心。
疑いを知らない少年の無垢な感謝が、逆に痛い。
凄いわノクス!魔王の私をこうまで追い詰めたのはあなたが初めてよ!
助けてセス! モルテ! アミーでもいい!
誰かこの場から私を連れ出して!!
だが彼らは見て見ぬふりをしていた。
セスは完全に無表情を決め込んで壁の一点を見つめており、モルテは下手な口笛を吹きながら目を逸らしていた。
アミーはいつの間にかお茶を飲み始めており、リュースはまだ壺をいじっている。
地獄だった。
(……でも、まぁいいわ)
そう、エステアは自分に言い聞かせるように、息をついた。
確かに気恥ずかしかった。撫でた理由も、完全に“保護者のクセ”だった。
だが――彼はそれを素直に受け入れてくれた。心から感謝してくれた。
(これで……いいのよね)
それにしても。
ノクスはなぜ、このタイミングでこんなことを聞いてきたのだろう?
エステアはふと気になって、彼に尋ねた。
「ねえ、あなた、どうしてそんなことを急に聞こうと思ったの?」
ノクスは少し照れたように笑った。
「……アリスのことがあって、少し空気が重くなっていたので。だから……少しでも自分が前に進むために、ちゃんと伝えたいことを伝えておこうと思ったんです」
「それに、俺――魔王様のこと、よく知らないですし一方的に怖がるのも失礼だと思ったので…」
その一言が、またエステアの胸を打った。
彼は本当に、自分が育てた子だった。
どこまでも真っ直ぐで、どこまでも優しい。
だからこそ、守ってあげたいと思える。
エステアはそっと微笑んだ。
「……あなたは、本当に立派な子ね」
「へ? なんですか、急に」
「なんでもないわ。ふふっ」
ノクスはきょとんとしながらも、その笑みに満足そうに納得していた。
ノクスは、長くなった対話に満足していた。
疑問は解けた。礼も伝えられた。
言葉にできない思いは胸の奥にまだ渦巻いていたが、それもまた、成長の一部なのだろう。
「それじゃあ、僕、そろそろ自分の部屋に戻ります」
そう言うと、ノクスは椅子を引いて立ち上がった。
だが、その瞬間だった。
「おや、もうお帰りですか?」
セスが静かに立ち上がり、礼儀正しく一礼を送る。
それに続き、モルテもゆるやかに頷きつつ手を振り、リュースは腕を組んで渋くうなずく。
「気をつけてな、坊」
そしてアミーは両手を振って笑顔を見せた。
「また話そうね、人間くん♪」
極めつけはエステアだった。
椅子に座ったまま、頬杖をついて、意味深に笑いながら言う。
「迷わず、まっすぐ帰りなさい。寄り道はだめよ?」
それはあまりに手厚く、過剰な見送りだった。
(……え、なんでこんなに見送られてるの?)
ノクスは困惑しながらも、一人で古城の長い石造りの廊下へと足を歩く。
――カツン、カツン、と響く靴音だけが、闇に沈んだ通路に残される。
天井は高く、外の月明かりがアーチ状の窓から差し込んで、床に薄く白い影を落としていた。
自室に向かって歩いていた彼は、その途中で違和感を覚える。
――窓辺に、人の気配。
視線を向けると、そこに立っていたのはリゼリアだった。
窓から差す月光を背に、金髪の髪が淡く光っている。
その瞳はどこか艶やかで、妖しく光を帯びていた。
「まぁ……お一人でこんな時間に廊下を歩くなんて。とても不用心ですわよ、ノクス様?」
ふと見せたその笑みは、まさしく『妖艶』という言葉そのものだった。
ノクスは自然と立ち止まり、表情を引き締めた。
「……リゼリアさん。何か用ですか?」
警戒心を隠さず、真正面から対峙する。
リゼリアはふふ、と口元に手を当てて笑う。
「その警戒心、正しいですわ。ええ、あなたの反応は間違ってません」
そう言い終えると同時に、彼女の身体がふわりと前へ。
ノクスの目では、彼女の動きが追えなかった。
気づけば、すでに至近距離――
柔らかな指先が彼の頬に触れていた。
「……でも、それでも無意味ですわね?」
月光の中、その顔は陶器のように美しく、そして無機質だった。
ノクスは身体が凍りついたように動けなかった。
急に間合いを詰められたことで反射的に目を閉じ、身構える。
(やられる!?)
一瞬、最悪の事態を覚悟した――が。
「……く、くくっ、ふふっ……」
聞こえてきたのは、抑えきれない笑い声だった。
驚いて目を開けると、目の前には、笑いを必死に堪えて肩を震わせるリゼリアの姿。
「ふふ……すみません。あまりにも怖がっていらっしゃったので、つい……少し揶揄ってしまいましたわ」
そう言って、軽く身を引くリゼリア。
彼女の笑みは、どこか悪戯好きな少女のようでもあった。
ノクスは困惑したまま眉をひそめる。
「……からかったんですか? こんな夜中にわざわざ?」
「いいえ、もちろん目的はありますわ」
リゼリアの声が急に落ち着き、トーンが変わった。
彼女は再び一歩、距離を詰めるが、今度はゆっくりとした動作だった。
「ノクス様。あなたが……私たち魔族に対しても偏見を持たず、等しく礼を言える方だとわかりました。だからこそ、お願いがありますの」
彼女はゆっくりと跪き、ドレスの裾を静かに揃えた。
「……私は吸血種。名をリゼリア
あなたに――ある協力をお願いしたいのです」
ノクスは目を見開いた。
リゼリアは、もう笑っていなかった。
その瞳は真剣で、誠実だった。
「私がなぜアリス様を狙ったのか……すべてをお話しいたします。
その上で――私の目的に、力を貸していただけませんか?」
頭を深く下げる彼女。
ノクスは混乱していた。
なぜ自分に? なぜこのタイミングで? そもそもリゼリアが何を考えているのか、自分にはまるで見当がつかない。
けれど――
その頭を下げる姿勢から伝わる覚悟と、言葉ににじむ真剣さに、ノクスは本能的に「嘘ではない」と感じ取った。
(……なんなんだ、この人)
彼女の本音と目的、その核心にはまだ触れていない。
それでも、ここで背を向けるのは――自分の在り方ではないと思った。
「……わかりました。話を、聞かせてください」
ノクスは静かにそう言った。
リゼリアは、ゆっくりと顔を上げ、月光の中でほほえんだ。
その笑みは、妖艶でも、からかうものでもなく――
どこか、安堵のようなものすら感じさせる、静かな微笑みだった。
こうして、月光に照らされた廊下での密やかな対話は、静かに幕を開けるのだった。