ヨトソラスの朝は、やはり今日も曇り空だった。
灰色の雲が低く垂れこめ、陽の光が差す気配は微塵もない。それでも、街のどこかから微かに鐘の音が聞こえ、確かに新しい一日が始まったのだと告げていた。
ノクスたちは古城の一室で帰り支度を進めていた。昨日までの騒がしい日々が嘘のように、部屋は静まり返っている。カバンに衣類を詰め、お土産を整え、リゼリアから受け取った契約書はノクスの大事なポーチの奥深くへしまわれた。
「いやー、なんだかんだで、楽しかったね」
荷物の蓋を閉めながら、ノクスがぽつりと呟いた。
「うん、まあね。いろいろあったけど……おいしいご飯も食べられたし、結果オーライって感じ?」
ジョーヌがベッドの端に腰かけながら、緩い笑みを浮かべた。長い赤髪のツインテールを揺らし、背中に隠された羽根を軽く伸ばすように背筋を反らす。
「私は……リゼリアさんに魅了されかけましたが、まあ……うん。ちゃんと話の通じる方でよかったです」
アリスは荷物を整えながら微妙な表情をしていたが、それでも最後はふっと微笑んだ。
「……俺はまだ怒ってるぞ」
不機嫌そうに口を尖らせていたのはルカだった。腕にはまだ注射の痕が赤く残っており、押さえるようにしながら隅の椅子で膝を抱えている。
「注射されて、拘束されて、おまけに泣いた姿まで見られて……これ裏切りだろ!? 完全に裏切りだろうが!!」
「ごめんごめん、ルカ。帰ったらなんか奢るからさ。な? 肉とかさ!」
ノクスが笑いながら声をかけると、ジョーヌも「今度、ルカの好きなヤツ作ってあげるからさ」となだめ、アリスも「ご機嫌をなおしてください」と微笑みかけた。
「ちっ……肉三倍な。絶対な」
ふてくされたままルカは折れた。
支度が済んだノクスは、部屋の中をもう一度ぐるりと見渡した。机の上、棚の隅、窓際……忘れ物がないかを丁寧に確認し、最後に深く息を吐くと扉の取っ手に手を掛けた。
「よし、行こうか」
古城の玄関ホールに降りると、先にリゼリアの姿があった。変わらぬ上品な微笑みを浮かべ、黒と金を基調にしたドレスの裾を揺らして佇んでいる。
「お見送りに来ましたわ」
こちらに気づくと、リゼリアは優雅に一礼して出迎えた。
「今回の件はありがとうございました。……いろいろと迷惑をおかけしたでしょ?」
「うん、まあね。いろいろと盛り沢山だったよ」
ノクスが苦笑しながら返すと、リゼリアは「ふふっ」と含み笑いを浮かべた。
「でも楽しかったよ。また呼んでくれるなら来るよ。ただし、今回みたいな騒動はごめんだけどね」
「ええ、さすがにこんなドタバタは一度きりですわ。次はもっと平和なヨトソラスをご案内いたします。ちなみに……もう皆様の事は通達してありますから、今後は自由に行き来できますのよ?」
「おお、それはいいねぇ!」
ジョーヌが目を輝かせ、アリスも「それはすごく助かりますね」と感心する。
「そして、最後にこれを」
リゼリアは懐から小さな黒い箱を取り出すと、そっとノクスに手渡した。
「これは?」
ノクスが箱を開けると、中には銀色に輝く指輪が一つ、柔らかい布の上に鎮座していた。宝石などの装飾はないが、細かい魔術の文様が浮かび上がっている。
「念話の魔道具ですわ。指に嵌めて話したい相手に意識を向ければ、離れていても会話ができますの。手紙よりずっと早いでしょう?」
「へえ……こんな便利なものもあるんだな」
ノクスは感心しながら指輪を手に取り、そっとポケットにしまった。
「緊急時や、大事な用件の時に使ってくださいな。遠慮せず、何かあったらすぐに連絡を。私、いつでも対応いたしますわ」
リゼリアのその言葉に、ノクスも真剣な表情で頷いた。
「ありがとう、リゼリア。ホント、いろいろ世話になったよ」
「ふふ、こう見えて世話焼きなんですのよ?」
いたずらっぽくウィンクするリゼリアに、ルカが「……リゼリアも変なとこでお節介だよな」とぼそりと呟いたが、誰も突っ込まなかった。
それぞれが短い別れの言葉を交わす中で、どこか寂しさと安堵が混じったような空気が流れていた。
ヨトソラスでの数日間は濃密で、波乱に満ちていて、それでも確かに――絆を深めた旅だった。
城門を抜け、少しずつ街が遠ざかる中、ノクスは背後の古城を振り返った。
曇り空の下、灰色の石造りの塔が、まるでこの旅の記憶を静かに見送っているようだった。
さて、帰るか我が家に…
小さく呟いたその言葉に、ルカが「帰ったらまずメシな!」と返してきて、一行の笑い声がヨトソラスの石畳に響き渡った。
◆ ◆ ◆
ノクスたちの姿が城門の向こうへ消えたその瞬間、ヨトソラスに再び静寂が戻った。
誰もいなくなった玄関ホールの階段に、リゼリアはひとり佇んでいた。
白磁のような肌、黒と金のドレス、そして何事もなかったかのような微笑み――すべてが完璧に整えられた姿だったが、その背後の空気がわずかに揺らいだ。
「……出てこられるなら、早くお出ましになればよろしかったのに」
気配の変化に先んじて、リゼリアはそう呟いた。
重々しい靴音が静かに響く。
奥の回廊から、漆黒の外套を翻しながら現れたのは魔王エステア。
その後ろには竜人セス、ネクロマンサーのモルテ、戦鬼リュース、そしてドッペルゲンガーのアミーが続く。
「おや……魔王陛下も、お帰りですか?」
リゼリアは何食わぬ顔で微笑み、わざとらしく肩をすくめて見せた。
エステアは一言も発せず、そのままリゼリアに歩み寄る。そして。
ガシッ。
その手が、音を立ててリゼリアの首を掴んだ。
スラリとした体が容易く持ち上がり、宙に浮く。
微笑みを浮かべていたリゼリアの顔に、初めてわずかな驚きがよぎった。
「――お前は、何をした?」
魔王の声は静かだった。
だが、その静けさこそが恐怖を煽る。魔力が周囲の空気を軋ませ、重苦しい気圧となって城内を包み込んだ。
「仰っている意味が……よく分かりませんわ」
リゼリアは苦しげな様子も見せず、首を掴まれたまま涼しい顔で答える。
エステアの眉がぴくりと動く。
そして、力が込められる。
ミシ…ミシ……
骨が軋む嫌な音が広がり、リゼリアの白い首筋がわずかに歪んだ。
だがそれでも、彼女の瞳からは光が消えなかった。
「パーティ会場で、お前の企みは潰したはずだ。それなのに――なぜノクスたちは、お前への警戒を解いている?」
問いに含まれた怒気と疑念は、周囲の者たちにも共有されていた。
セスは冷ややかな目でリゼリアを見つめ、モルテは唇を噛みながら魔術の気配を探っていた。
リュースは口をへの字に引き結び、アミーは険しい目で見据えていた。
「……ほんとうに不思議ですわねぇ」
リゼリアは口角をゆっくりと持ち上げた。
「たかが人間の子供ひとりに、魔王陛下と幹部の皆様がこうして焦り、疑い、動揺しておられる……その事の方が、よほど興味深く感じられます」
その言葉に、エステアの表情が無言のまま硬くなった。
そして――。
「――黙れ」
バキィッ。
乾いた音が響き、リゼリアの首が折れた。
首が斜めに曲がり、頭部がだらりと垂れ下がる。
そのままエステアは彼女の身体を放り捨てた。
ズサッと音を立てて床に転がったリゼリアの身体。
完全に動きを止め、血の気の失せたその姿は、まさに死そのものであった。
「……流石にやりすぎです」
セスがエステアに近づきながら、冷静な声で窘める。そして無言でモルテの方を見る。
「はぁ……まったく、めんどくさいのう……」
肩をすくめながらモルテが治癒魔術の詠唱を始めようとした――そのとき。
「結構ですわ」
死んだはずのリゼリアが、床に手をつきながら自ら立ち上がった。
だらりと垂れていた頭部がぐいと持ち上げられ、バキバキと音を立てて骨が元に戻っていく。
「……ご満足いただけましたか?」
整えられた声と、完璧な微笑みがそこにあった。
その異様な回復力に、一同は言葉を失った。
「お主……まさか、ただの吸血鬼から一夜で“真祖”に至ったのか? どうやって……」
モルテが目を見開く。
「ふふ……少々、ノクス様たちに
リゼリアは余裕の笑顔で答える。
「まさか、また懲りずに魅了したんじゃないでしょうね?」
アミーが鋭い声で問いかける。
リゼリアは首を振る。
「いいえ。今回は正直にすべてを話しました。それだけです。ノクス様は、それでも私を信じ、助けてくださいましたの。それに……魅了していたなら、わざわざこの国から出すはずがありませんわ♪」
微笑むリゼリアは頬に手を添え、どこか陶酔したように目を細めた。
「ノクス様は、人の身でありながら、我ら魔族に対する偏見が一切ない――純粋な精神の持ち主ですわ。あれは……魔族にとっては“甘美な猛毒”です。一度触れれば、手放したくなくなるほどに。ふふ……魔王様も、その猛毒にやられたのではありませんか?」
問いかけに対する答えはなかった。
ただ、エステアの瞳に一瞬だけ揺れるものがあった――それは否定の言葉よりも雄弁に、彼女の動揺を物語っていた。
リゼリアの笑みが、さらに深まる。
「……ノクスたちに、危害を加える気はないんだな?」
苦虫を噛み潰したような表情で、エステアが問いを投げる。
その目には、まだ冷たい疑念と鋭い警戒が宿っていた。
彼女の問いかけは、ただの確認ではなかった。
リゼリアという存在が、今や真祖として新たな段階に至った以上、もし敵となるならば最優先で排除すべき対象だった。
リゼリアはそれに対し、少しだけ困ったように眉尻を下げ、肩をすくめて微笑んだ。
「そんな気はまったくありませんわ。ノクス様は私にとって、かけがえのない存在ですもの。危害を加える理由など、一欠片もありません」
言葉は柔らかく、声色も優雅だったが――そこに嘘偽りはなかった。
それを感じ取ったエステアは、しばしの沈黙のあと、ふっと視線を逸らす。
「……今は、その言葉を信じるとしましょう」
そう言って彼女は魔力を収束させ、転移術の詠唱を開始する。
銀の魔方陣が足元に広がり、淡く空間が歪む。
しかし――。
「魔王様、知ってますか?」
その背中に、リゼリアの声が飛ぶ。
「吸血鬼とは、元来
くすくすと喉を鳴らして笑いながら、リゼリアは続けた。
「もし魔王様が……ノクス様を害することをしたら……わかってますわね?」
その言葉と同時に、一匹の黒い蝙蝠がどこからともなく現れ、リゼリアの腕にふわりと留まる。
その様子は、まるで「常に監視している」と言わんばかりだった。
エステアは、蝙蝠を一瞥しただけで、その意味を正確に理解した。
リゼリアは、ノクスを中心とした新たな“絆”を築いている。
そして、それは彼女自身の魔王としての立場にすら干渉し得るものとなりつつある。
だが。
どうせ見られているなら、いっそ――と、エステアはわずかに口角を上げた。
「するわけないわ。だって――ノクスは、私の
転移術の光が彼女を包み込む寸前、最後に放たれたその言葉は、残された全員の思考を一瞬で止めた。
「……それは、予想外すぎますわ……」
リゼリアの声は、あまりに素っ頓狂で、そしてあまりに本音が漏れていた。
その呟きが、転移の魔力に包まれたエステアの耳に届いた時、彼女の唇にほんのわずかな勝ち誇った笑みが浮かぶ。
次の瞬間、彼女たちは光の中に消えた。
魔王と幹部たちが去ったあとのヨトソラス城のホールには、ただ静寂だけが残された。
外の空はいつもの様に変わらず灰色の雲が重く空を覆っていた。
その中で、リゼリアは一人、胸を押さえて震え始めた。
「……ぷ、ふふ……ふはっ、あははははははっ!!」
押し殺していた笑いが、とうとう堪えきれず溢れ出す。
荘厳なホールに響き渡る、高らかな笑い声。
「なるほど、だから……あんなに、心配していたのですね……ふふっ……!」
口を手で押さえ、肩を揺らしながら、リゼリアは何かに深く納得するように頷いた。
その笑いは、嘲笑でも、勝利の咆哮でもない――自らが“今は”負けたことを認めつつも、清々しい気持ちで受け入れるような、そんな笑みだった。
「ふふ……一杯食わされましたが――」
そう呟きながら、リゼリアはドレスの胸元に手を差し入れる。
そして、そっと取り出したのは――ノクスに渡したものと“瓜二つ”の指輪だった。
「私も、ノクス様と繋がっておりますのよ」
その指輪を、リゼリアはまるで宝物のように両手で包み込み、そして自分の左手薬指に静かに嵌めた。
指輪が指にぴたりと収まる瞬間、城の空気がわずかに脈動する。
まるで、彼女の意思を汲んで魔力が共鳴したかのようだった。
「……さて。少しだけ眠りましょうか。まだまだ、この先は長いですもの」
静かにそう言いながら、リゼリアは蝙蝠を連れて、城の奥へと消えていった。
その背中には、誇りと満足、そして確かな決意が宿っていた。
ノクスを守るために。
彼の“絆”のひとつとして。
――この手を決して離さないと、心に誓いながら。