魔族と人間の間に微妙な均衡が築かれた時代。
魔王エステアは、己が魔王という身分と魔界の力を隠し、“人間”として新たな生活を始めようとしていた。
辺境の街《アルセナ》。
魔界にほど近いが、戦火を免れ、街の風情はどこか穏やかだった。
エステアはこの街で、“母親”としての生活を始めるため、一つの邸宅を購入した。
「──この家が、私たちの新居?」
街の西端、屋敷のように広いが古びた建物。看板すら剥がれかけており、通りすがりの子どもたちが「お化け屋敷」と囁くような有様だった。
「はい。元は没落した貴族の館で、長らく買い手がつかずに放置されていた物件です。価格交渉もあっさりまとまりました」
「さっすがセス! やるじゃない!」
「いえ、むしろ“これを買う人がいた”と街中で噂になっているようでして……」
「え、ちょっと待って、それ……どういう噂?」
エステアの問いに答えるより早く、通りすがりの住民同士の会話が耳に入った。
「……おい聞いたか? 最近、魔界の“ある魔王”がすごい秘宝を手に入れたらしいぜ」
「まさか、また人間界に攻め込むんじゃ……?」
「いや、今回はもっとヤバい。人間の中に潜入して、内側から……とか、どっかの占い師が言ってたらしいぞ……!」
エステアはすぐ隣のセスに視線を送る。
「いやぁ大変そうね、怖いわね~」
「……他人事のように言ってますが、それ、あなたの事ですよ」
「……えっ?」
「最近、魔界で“禁断の変身術”が発動されたという魔力反応が観測され、それがこの辺りに向かっているという噂が流れています。魔王様のせいですね」
「ちょっ、なんでそんな物騒な話に!? 私ただの育児してるだけよ!?」
「それが原因です」
エステアは頭を抱えた。思わぬところで“魔王の影”がついて回る。
屋敷の前に着くと、噂を聞きつけた野次馬たちが門前に集まっていた。
「なんかすげー屋敷に人入ったらしいぞ!」
「もう十年以上空き家だったのに!」
「どこの成金だよ、あんなボロ屋に金出す奴!」
そうした人波の中に、妙にガラの悪い冒険者風の男が一人。
エステアに目を止めると、にやりと口角を上げた。
「おーおー、引っ越しのお嬢さん方かぁ? こんな街に何の用だい?」
エステアは愛想よく笑った。
「こんにちは。ただの引っ越しですけど……」
男の手が伸びる。触れようとした、その瞬間──
「……わが主に、汚らしい手で触るな」
セスの声が氷のように冷たく響いた。周囲の空気が凍りつく。
セスの目が光る。魔力は抑えていても、迫力は隠しきれない。
「ひっ……な、なんだお前……!?」
「立ち去れ。それともここで人生を後悔してみるか?」
冒険者たちは顔を青くし、一目散に散っていった。野次馬も蜘蛛の子を散らすように消え、あたりは静かになった。
「セス、かっこいい……!」
「いえ、魔王様に何かあれば、私は……」
「ふふ、頼りにしてるわよ。もう一生そばにいて」
「それはそれで困りますね」
それから数時間後。屋敷で荷解きをしていたエステアたちのもとに、立派な服を纏った男性が現れた。
この街の領主である《アルヴァン侯》だった。
「──先ほど、屋敷の前でご迷惑をおかけしたと聞きまして。申し訳ありません。あの者たちには厳重に指導を──」
「いえ、お気になさらず。よくあることですわ」
エステアはにっこり笑った。貴族らしい所作もセス直伝でばっちりである。
「して、お嬢さん。なぜこのような辺境に?」
「えっと……その……」
エステアは慌ててセスに目配せした。
セスはすかさず割って入る。
「この度、我々は都の情勢から距離を置きたく、静かな環境で子育てをと……」
「ふむ、子育てですか。あの幼児を……」
領主の視線の先にいたのは、ぬいぐるみに埋もれていたノクス。目が合うと笑顔を見せた。
「可愛いお子さんだ。なるほど、確かに都では騒がしいでしょうな……」
「ええ、静かな暮らしを求めておりますので……もう本当に、誰にも見つからず、忘れられて、無関心でいてほしいくらいで……」
「アルヴァン侯爵様、エスティ様は長旅でお疲れのご様子なので、大変不躾ではございますが今日の所はお引き取りください」
そう言い深々とお辞儀をするセス。
「おぉ、私とした事が謝罪に来たというのに関係ない質問をしていまい申し訳ない」
「それでは私はお暇させてもらおう、何か困ったことなどあれば微力ながら協力させてもらおう。最後になるがアルセナへようこそ歓迎しよう」
「はぁ…ありがとうございます?」
「ふふ、立場上気軽に住人と話せないのでな、たまにはこうして息抜きしたいものなのさ、ではさらばだ」
アルヴァン侯も帰り少し空気が弛緩したタイミングで
死んだ目のエステアはぽろりと本音をこぼす。
「……もう帰りたい……魔界に……」
「はぁ!?」
「……人間って、思ったより大変で……しがらみとかさ…面倒…」
その時、ノクスがふらりと歩み寄って、エステアの手を握った。
「……らいじょーぶ?、まま」
エステアの目に、光が戻る
「……そうね。がんばらなきゃ……」
「もう気分で発言変えるのやめてください」
その夜。
屋敷に帰ってきたアルヴァン侯は、眉を寄せながら呟いた。
「どうにも、あの二人……いや、三人。只者とは思えん」
隣にいた黒装束の人物──侯に仕える密偵が一礼する。
「調べてみますか?」
「……ああ。身元を洗ってくれ。“街の平穏”のためにな」
侯の瞳に、冷たい鋭さが宿る。
──魔王の“潜入生活”。その一日目は、波乱とともに幕を閉じた。