洞窟の奥は、ただひたすらに暗かった。
外から差し込む光はとっくに届かず、天井から垂れる鍾乳石からぽたりぽたりと水が落ちる音だけが響く。
その冷たい音に、三人は自然と足を緊張させながら、一歩一歩を確かめるように進んでいた。
「……魔術を使った罠などは無さそうですね」
先頭を歩いていたアリスが、視線を左右に巡らせながら小さく言った。
彼女は杖を軽く前に突き出し、目に見えぬ感覚を張り巡らせているようだった。魔力の微細な流れや異質な干渉があれば、すぐに察知できるのだろう。
「なら安心か……」
ノクスは短く答え、背に背負っていた小さな革袋から松明を取り出した。火打石も準備してはいたが、この暗闇での作業はあまりに不便だ。ちらと視線を後ろへ向け、わざと軽い調子で声をかける。
「ほら、ルカ、火をつけてくれよ」
「ふふん、しょうがねえなぁ~」
呼ばれたルカは、待ってましたとばかりに一歩前へ出る。どこか舞台役者めいた仕草で肩を張り、片手を高々と掲げると――
「見てろよ」
パチン、と指を鳴らした。
瞬間、空気がわずかに熱を帯び、指先から小さな火花が弾けて松明の先端に移る。炎はあっという間に乾いた布に燃え移り、揺らめく橙色の光が洞窟を照らした。
「おぉ……」
ノクスは感心したように声を漏らしながら松明を受け取った。だがすぐに首をかしげる。
「なあ、毎回思うんだけどさ。なんでいつも指鳴らして火をつけるんだ? 普通に詠唱でやった方が早くないか?」
その問いに、ルカはにやりと笑った。
「そりゃあ、お前……こっちの方がかっこいいからに決まってんだろ」
炎の反射で銀髪をきらめかせながら、得意げに胸を張る。
「これを習得するのに結構修行したんだぜ? 見ろよ、この自然体。指一つで火が灯る……最高に決まってんだろ。なぁ、アリス?」
突然話を振られたアリスは少し驚いたように目を瞬かせたが、やがて穏やかに頷いた。
「そうですね。簡単そうに見えますが、これは詠唱を省略し、触媒を省き、それでいて火力を安定させるという高度な技術なんです。魔力の調整に失敗すれば、指先が焼けたり爆ぜたりする危険もありますし……」
「おいおい、そんな怖いこと言うなよ!」
ルカが慌てたように肩をすくめたが、すぐににやついた。
「けど、まあ聞いただろ? これぞ努力の結晶ってやつだ。どうだノクス、尊敬しろよ」
ノクスは松明を掲げて前方を照らしつつ、心の中で(なんか無駄に高度な努力を見た気がするな……)と小さくため息をついた。だがそれを表に出さず、素直に言葉を口にする。
「……すごいな、ルカ。かっこいいよ」
「だろう! だろう!!」
ルカは尻尾でも振りそうな勢いで満面の笑みを浮かべた。普段の豪快さとは違い、子供のように喜ぶ姿にノクスとアリスは思わず苦笑する。
そんなやり取りで一瞬和んだ空気も、洞窟の奥へ進むにつれて再び緊張を帯びていった。
壁は次第に狭まり、石の肌がごつごつと露出する。足元の小石が靴の下で転がり、コツンと響くたびに三人は無言で顔を見合わせる。
湿った空気に、どこか鉄のような匂いが混じってきた。
やがて――ノクスの胸に、ざらりとした嫌な感覚が広がる。
「……っ」
彼は無意識に立ち止まった。心臓を鷲掴みにされるような圧迫感。言葉にならない不快さ。それはただの気配ではない、確かな「禍々しさ」だった。
「感じるか?」
短く問いかけると、後ろの二人も険しい表情を浮かべていた。
「はい……。ただの魔物の瘴気ではありません」
アリスは杖を握る手に力を込め、眉を寄せた。
「もっと深く、濃い……人為的な、儀式の痕跡のような……」
「なるほどな」
ルカは口元を引き締めた。普段の軽口は消え、真剣そのものだ。
「どうやら、お楽しみはこれからってわけか」
「行くぞ」
ノクスは一言だけ呟くと、松明を高く掲げて足を早めた。
二人も無言で頷き、後に続く。
やがて通路はふいに広がり、三人は少し開けた空間へと踏み出した。
天井は高く、岩壁に赤黒い苔のようなものが張り付いている。
だが何よりも目を引いたのは、中央に描かれた巨大な魔法陣だった。
紅く淡い光を放ち、ゆっくりと脈打つように明滅している。
その異様な輝きが、洞窟全体を血の色に染め上げていた。
そして――魔法陣の傍らに、一人の男が立っていた。
フード付きの黒衣に身を包み、こちらを向くことなく魔法陣を見下ろしている。その周囲には、禍々しい瘴気が渦を巻き、息をするだけで喉が焼けるような圧迫感があった。
暗い洞窟の奥に響くのは、滴る水の音と、三人の足音のみだった。
だがその先に広がった光景は、あまりに異様だった。紅い光を放つ魔法陣が空気を焼き、ほのかに鉄の錆びたような匂いを漂わせている。その中心に、背筋を伸ばし優雅な身振りで佇む一人の男がいた。
男は魔法陣を見つめていたが、ノクスたちの気配にすぐ気づいたらしい。肩をすくめると、口角を吊り上げ、愉快そうに声を上げた。
「おやおやおや……これはこれは。招かれざる客人が三人も揃って現れるとは。まずは、この私の小さな舞台に辿り着いたことを称えてあげましょうか」
そう言いながら、ゆったりと振り向き、ノクスたちに向けて乾いた拍手を送ってきた。パチ、パチとその響きは洞窟の壁に反射し、不気味な残響を残した。
ノクスは槍を構えながら、男を鋭く睨みつける。
「……お前が悪魔召喚を企てている悪魔崇拝者か?」
問いに対し、男は喉を鳴らして笑った。
「ククク……悪魔崇拝者? 私が? あんな低能で下卑た連中と一緒にしないでいただきたい。実に心外ですねぇ」
言葉を区切りながら、男は両手を広げた。
「私は芸術家です。偉大なる芸術家! 巷では“滅びを見届ける者”などと、少々大げさに呼ばれているようですがね」
その言葉に、ノクスは眉をひそめるが、ピンと来ていない様子だった。
ルカもノクスと同じような感情で誰だ?という表情をしていた。
代わりに反応を示したのはアリスだった。彼女の顔色がみるみる青ざめ、唇が震える。
「“滅びを見届ける者”……。あなたは……『滅びのカリザード』なのですか!?」
洞窟に張り詰めた緊張感が一層濃くなった。
男――カリザードは大仰に両手を広げ、高らかに笑い声を上げる。
「ハハハハハハ!!! おやおや、まだ年端もいかぬ可憐な少女にまで私の名が届いているとは! いやはや、私もまだまだ捨てたものではありませんねぇ!!」
狂気を孕んだ笑い声が反響し、紅い魔法陣の輝きと混じり合って広間を不気味に染め上げる。
その狂気じみた興奮ぶりに、ルカが吐き捨てる。
「……何だコイツ、気色悪ぃな」
ノクスは苛立ちを隠せず、低く問い返した。
「……誰だ、そいつは」
アリスは怯えながらも、ノクスとルカに向き直り説明を始めた。
「カリザード……彼は昔はどこにでもいる、ごく普通の人間だったと記録に残っています。ですが、愛する者を病で失い……その亡骸を見た瞬間、彼は狂気的な“美”を見出してしまった。以来、滅びの瞬間にこそ芸術があると信じ、国や組織、人々を破滅させては喜ぶ……そんな行為を繰り返してきたのです。王国だけでなく、帝国でも一級犯罪者として指名手配されている人物……それが滅びのカリザードです」
ノクスはその言葉を聞き、槍を強く握りしめた。
「……つまり、お前はただの人殺しだな」
ルカも唸るように続けた。
「胸糞悪ぃ……自分の歪んだ趣味のために他人を巻き込んで、楽しんでやがるのか。ふざけんな」
カリザードは二人の憤りを心底楽しむように、口元を歪めた。
「怒り、憎しみ……いいですねぇ。そういう感情が人を突き動かす。ですが所詮、半人前の若造たち。あなた方に、この偉大な芸術家を捕らえることなどできますか?」
挑発的な声音に、ルカの怒りが爆発した。
「黙れっ!!」
彼女は地を蹴り、一直線にカリザードへと飛び掛かった。
しかし、その拳は見えない壁に阻まれた。バチンと弾かれるように火花が散り、ルカは驚いた顔で後ずさる。
「なっ……何だ、これ……!?」
カリザードは愉快そうに笑い声を響かせた。
「フフフ……まさか、私が無駄に饒舌を振るっているとでも思ったのですか? さきほどからの時間は、防御魔術を完成させるための“時間稼ぎ”に過ぎませんよ。これでもう、儀式を邪魔することはできないでしょう?」
カリザードは余裕たっぷりに背を向け、紅く輝く魔法陣へと歩み寄った。
その背中から漂う気配は、底知れぬ狂気と陶酔で満ちている。
「半人前の諸君は、そこで大人しく見物していなさい。今宵、私の舞台に降臨する大悪魔を!」
ノクスは槍を握り直し、アリスは詠唱に入った。だが、二人の攻撃も防御結界を揺るがすことさえできない。
「くっ……!」
「駄目です、ノクス君……! 高度な多重防御式です……!」
アリスが焦燥を滲ませる声で告げる。
ノクスは歯ぎしりをしながら、なおも壁に槍を突き立て続ける。ルカも拳の連打を放つが、壁はひび割れすらしない。
アリスが魔力を練りながら複雑な破壊術式を放つが、カリザードの結界には傷一つも揺らがない。
そんな中、カリザードが呟く。
「――さぁすべての準備ができましたよ」
その声は静かで、それでいて不気味な重さを帯びていた。ノクスたちは瞬時に身構える。ルカも奥歯を噛み、拳を握り締める。
カリザードは陶酔した声で叫んだ。
「さあ! 待ちに待った大悪魔の降臨だ!!」
紅い魔法陣が一気に輝きを増し、洞窟全体を揺るがす。熱と圧力が渦巻き、ノクスたちを包み込む。視界が紅蓮に染まり、空気が焼けるように震える。
三人は互いを庇うように背を寄せ合った。
「来るぞ!」
「絶対に、負けられません!」
「クソッタレ……どんな悪魔だろうが、ぶっ飛ばしてやる!!」
紅い光が爆ぜ、轟音とともにその場を呑み込んでいった――。