鉛色の空が、世界の終焉を告げるように低く垂れ込めている。
その雲の隙間から途絶えることなく降り注ぐのは、慈愛の雨ではない。
旧文明が吐き散らした化学物質をその身に溶かし込み、触れるもの全てを静かに蝕んでいく酸の涙だ。
雨粒は、墓標のように林立する超高層ビルの残骸に当たり、無数のノイズを弾けさせる。
かつて希望や夢を映し出したであろう巨大なホログラム広告は、今や意味不明な記号と色彩を明滅させるだけの、巨大な化け物と成り果てていた。
色とりどりの光が歪み、流れ落ちる雨水の上で不気味に混ざり合う。
錆びついた金属の匂い。
鼻腔を刺す化学薬品の悪臭。
そして、その全てを覆い隠すように漂う、微かな腐臭。
ここは、巨大企業「パナ・コープ」が統治する壁の内側の都市国家《カミサリー》から見捨てられた無法地帯。
文明の瓦礫が広がる汚染された荒野――《スラム》。
その最も深い路地裏の一角で、一つの取引が行われていた。
「……ブツは、これだ」
フードを目深に被った男が、低く、感情の乗らない声で呟く。
差し出されたのは、旧文明の遺産である指先ほどのデータチップ。
男――アンパンは、それを受け取った依頼人の顔を一瞥だにしない。
相手の顔に浮かぶ、猜疑心とわずかな希望が入り混じった表情など、彼にとってはどうでもいいことだった。
関心があるのは、対価として差し出された数個の正規品バッテリーセルだけだ。
専用のチェッカーで電圧を確認し、懐にしまうまでの動作に一切の無駄がない。
まるで精密機械のようだ。
「……確かに」
依頼人が安堵の息を漏らす。
その声には、病んだ子供でもいるのか、あるいは一発逆転の情報を掴みたいという博打打ちの熱でもあるのか。
どちらにせよ、アンパンの知ったことではない。
このスラムでは、他者への過剰な関心は命取りのリスクでしかない。
情をかければ足元をすくわれる。信じれば裏切られる。
それが、この瓦礫の街で生きるための唯一のルールだった。
取引は終わった。
アンパンは踵を返し、音もなく闇に溶け込もうとする。
「待ってくれ!」
背後から、すがるような声が投げかけられた。
「あんた、”アンパン”だろ? どんなモンでも運ぶって……うちの娘が、バイキンのウイルスに……」
アンパンは足を止めない。振り返ることもしない。
ただ一言、冷たく言い放つ。
「俺は運び屋だ。希望は運べん。重すぎて、商売にならん」
その背中は、懇願の言葉を無慈悲に拒絶していた。
水たまりが、崩れたネオンサインの光を映して揺れている。
アンパンはそれを躊躇なく踏みつけ、複雑怪奇に入り組んだスラムの迷路へと消えていった。
二度と、誰も失わないために。
彼は、非情であることを自らに課していた。
スラムの地下深く。
廃線となった地下鉄の駅を改造したラボで、一人の老人が古い電子パッドに今日の出来事を記録していた。
賢者、ジャム。
アンパンの唯一無二の協力者であり、父親のような存在でもある彼は、ペンを走らせながら静かに夜空を思う。
ここからは見ることのできない、偽りの星空を。
『神はサイコロを振らない、か。なんと楽観的で、傲慢な、古き世界の言葉だろう』
記録される文字は、彼の思考そのものだ。
『この瓦礫の底では、神は毎夜、気まぐれにサイコロを振り続ける。飢え、病、そして暴力という名のサイコロを。我々はただ、その無慈悲な出目を待つだけの、か弱い存在だ』
だからこそ、人々は新たな神を、新たな救いを渇望した。
モニターの一つが、壁の内側《カミサリー》のプロパガンダ映像を映し出している。
純白のステルス戦闘攻撃機「ホワイトリリィ」から、清廉潔白な培養食パンを投下する完璧なヒーロー。
『壁の内で微笑む、冷たくも完璧な《鋼鉄の救世主》、しょくぱんまん』
別のモニターには、地下水道網を拠点とする過激派ゲリラの監視映像が映る。
全てを焼き尽くすことで浄化を説く、狂信者たちのリーダー。
『奈落の《炎の裁き》、カレーパンマン』
そして、スラムを実質的に支配し、不完全な生命の淘汰を口にする、狂気の科学者。
人々はそれぞれの「正義」に、それぞれの「神」に祈りを捧げる。
だが、とジャムは思う。
『だが、人々が心の底で忘れていない、最も原始的な祈りがあるはずだ。温もりを。分かち合う心を。ただ生きるための、温かいパンを……』
ラボのドックに、傷だらけの男が帰還する気配がした。
今日もまた、心を閉ざした証である無数の傷をその身に刻んで。
ジャムは、電子パッドの記録をそっと締めくくった。
『そのささやかな祈りの名を、私は希望を込めてこう呼んでいる』
『――アンパン、と』