意識が、冷たい、どこまでも深い闇の底へと沈んでいく。
アンパンの世界は、もはや過去の悪夢だけだった。物理的な痛みは遠のき、代わりに魂を直接苛む幻聴が、その思考を支配する。
死んでいった仲間たちの亡霊が、彼を責め立てる。血と泥にまみれた親友カシの顔が、すぐ目の前で苦悶に歪んでいた。
『お前のせいだ』
『お前が優しすぎたから、みんな死んだんだ。無駄な希望を持たせたせいで、苦しみ抜いて死んだんだ』
『偽善者め。英雄気取りが、結局誰も救えなかったじゃないか』
違う。俺は、ただ……。
反論しようとしても、声にならない。言葉が、凍てついた喉に張り付いて出てこない。
そうだ、俺のせいだ。俺が弱かったから。
俺が、誰かを救うなどという、おこがましい考えを抱いたから。英雄になど、なろうとしたから。
もう、いい。
このまま、この冷たい闇に溶けてしまえたら、どれだけ楽だろうか。
全ての痛みから、全ての責任から、そして自分自身を責め続けるこの苦しみから、解放されるのだから。
アンパンは、ついに全ての希望を手放しかけた。彼の魂が、器である機械の身体から、完全に離れてしまおうとしていた。
その、時だった。
―――♪
どこからか、微かな歌声が聞こえてきた。
それは、ひどく拙く、音程も外れた、子供の歌だった。酸性雨の音とも、風の呻きとも違う、確かな意志を持った音。
最初は、死にゆく自分が見せる最後の幻聴かと思った。都合のいい、感傷的な夢。
だが、歌声は消えない。
それどころか、少しずつ、その輪郭をはっきりとさせていく。それは、シェルターでパンを与えた、あの子供たちの声だった。一番年上だった少年が、パンの温もりを思い出しながら、必死に紡ぎ出したメロディ。
『♪……こわれたヒーロー だけどやさしい』
『♪あったかいパンを くれたひと』
アンパンは、はっとする。
この歌は、知っている。
いや、違う。これは、初めて聞く歌だ。
だが、この温もりは、知っている。それは、彼が自らの指先で感じた、分け与えたパンの温もりそのものだった。
彼がパンを与えた、あの子供たちが、彼のために歌っているのだ。
子供たちの拙い歌声は、レジスタンスが必死に維持していた旧文明の通信網に、偶然乗った。それはノイズまじりで、今にも途切れそうだったが、確かにスラムの各地へと届けられていた。
『♪……まけないでヒーロー こころのヒーロー』
『♪わたしたちの アンパン』
その純粋な祈りのような歌声は、最初、暗闇の中の、ほんのささやかな灯火だった。
だが、その灯火は、絶望の闇に沈んでいた人々の心に、次々と伝播していく。
バイキンの勝利宣言に打ちのめされ、暴徒と化していた人々が、ふと足を止める。
食料を奪い合っていた男が、殴りかかった拳を宙で止め、壊れたスピーカーから流れるその歌声に耳を澄ませる。
物陰で泣いていた母親が、顔を上げる。そして、腕の中でぐったりとした我が子を抱きしめながら、そのメロディを口ずさみ始める。
一人、また一人と、その歌を口ずさみ始める。
それは、バイキンへの抵抗でも、パナ・コープへの反逆でもない。戦闘のための鬨の声ではない。
ただ、一人の壊れたヒーローの復活を願う、ささやかな、しかし力強い祈りの合唱だった。
歌声は、波となって、闇に沈んでいたアンパンの意識を、優しく、しかし力強く揺り起こす。
それは、彼を苛んでいた罪悪感の幻聴とは、全く違う周波数を持つ、魂の響きだった。
彼は気づく。
自分を苛んでいた亡霊の声は、仲間たちの声などではなかった。
それは、英雄になれなかった自分を、理想通りになれなかった自分を、自分で責め続けていた、自分自身の声だったのだ。
自分は、誰かに認められる「偶像(アイドル)」になりたかったわけじゃない。
見返りを求めていたわけでもない。
ただ、目の前の誰かの飢えを、悲しみを、少しでも満たしたかっただけだ。
分け与えること、それ自体が目的だった。
結果の責任を負うのではなく、分け与えるという行為そのものに、意味があったのだ。
それこそが、過去のトラウマという呪いを乗り越える、唯一の答えだった。
自分の戦いは、名もなき誰かのための、希望の「象徴(シンボル)」となるためのものなのだと。
アンパンの心に、光が灯る。
それは、外から与えられたものではない。彼が自らの内側で見つけ、生み出した、揺るぎない決意の光だった。
その瞬間、奇跡が起こる。
彼の頭部で沈黙していた、コアを失ったはずのユニットが、歌声に呼応するように、かすかな、しかし温かい光を放ち始めたのだ。
ジャムが語っていた「精神感応エネルギー変換システム」。それは、人々の祈りという、目に見えない感情の奔流をエネルギーに変換する、旧文明のオーパーツ。
スラムの人々の祈りが、希望が、歌声という波に乗ってエネルギーとなり、彼の元へと集まってきている。コアという受信機を失っても、アンパン自身が、ユニットそのものが、人々の想いと共鳴するアンテナとなっていた。
光は、ゆっくりと、しかし確実に彼の心と身体を満たしていく。冷たい闇を押しやり、罪悪感の亡霊を浄化していく。
冷たい闇の底で。
アンパンは、静かに、目を開いた。
その瞳には、もはや迷いも、過去への悔恨もなかった。そこにあったのは、全てを受け入れた者の、深く、穏やかな光だった。