カレーパンマンが命を賭して開いた道は、一直線にバイキン・タワーの最上階へと続いていた。
陽動によって防衛システムの大半が沈黙し、アンパンたちの進撃を阻むものは、もはや何もなかった。だが、彼らが塔を駆け上がる間にも、スラムの運命を左右するもう一つの戦いが、天上で始まろうとしていた。
壁の内側《カミサリー》から、パナ・コープが誇る最新鋭の戦闘攻撃機部隊が、音もなくスラム上空へと飛来する。その動きは、まるで精密な機械仕掛けの鷲の群れ。パイロットたちの思考はシステムによって同期され、一個の巨大な殺意として機能していた。
その目的は、CEOが下した最終命令――スラムの完全浄化。生存者ごと全てを焼き尽くす、無慈悲な絨毯爆撃だ。
その編隊の前に、一機の純白の機体が立ちはだかった。
「ホワイトリリィ」。
操縦桿を握るしょくぱんまんの瞳に、もはや迷いはなかった。彼の心は、嵐の後の湖のように静まり返っていた。
『しょくぱんまん! 何をしている! 速やかに編隊に加わり、任務を遂行せよ! それは命令だ!』
かつての仲間からの、怒りと困惑に満ちた通信が、コクピットに響く。
しょくぱんまんは、静かに、しかし揺るぎない声で答えた。
「断る。私の正義は、私が決める!」
彼は、人生で初めて、組織に、そして自らが守ってきた「完璧な秩序」そのものに、反旗を翻したのだ。
自らの罪――見て見ぬふりをしてきた数多の犠牲――を清算するために。
そして、地上の名もなきヒーローに、この世界の未来を託すために。
「ホワイトリリィ」は、かつての仲間たちに銃口を向け、たった一機で、空の騎士としての最後の戦いを開始した。彼の操縦は、もはやルールに縛られた完璧なものではない。怒り、悲しみ、そして贖罪の祈り。全ての感情を乗せた、人間臭い、荒々しい舞だった。彼が時間を稼いでいる間に、アンパンは必ずやり遂げる。そう、信じて。
バイキン・タワー最上階。
全てが純白で統一された、広大な玉座の間。そこは、まるで神殿のように静まり返っていた。
その中央で、バイキンは静かにアンパンたちを待っていた。
「来たのね、不完全な希望の象徴。感情という名のウイルスに侵された、哀れな鉄屑が」
彼女の声と共に、玉座そのものが変形を始める。
無数のケーブルとアームが蛇のように彼女の身体に接続され、玉座は巨大なパワードスーツへと姿を変えていく。
旧文明の技術の粋を集めた、最終破壊兵器「ジャイアント・ダダン」。それは、巨大な甲虫を思わせる禍々しいフォルムを持ちながら、どこか神々しささえ感じさせる、歪んだ芸術品だった。
それは、まるで巨大な神の如き威容を誇っていた。
「不完全なお前が、この完璧な私を止められるものか!」
神と化したバイキンが、アンパンに襲いかかる。その一撃は、ビルを容易く粉砕するほどの質量と速度を持っていた。
凄まじい物理的な戦闘が始まった。タワー全体が揺れ、純白の壁が砕け散る。
アンパンは、スラムの人々の祈りを力に変え、神の一撃を受け止め、弾き返す。その拳は、もはや単なる鉄の塊ではない。人々の「生きたい」という願いそのものが、彼の拳となっていた。
その激しい戦闘の裏で、クリームパンダは必死にデータパッドを操作していた。
彼の目的はただ一つ。『プロジェクトM』の正体を暴くこと。それが、この狂った神を止める鍵になると、彼の直感が告げていた。飛び散る瓦礫から身を守りながら、彼の指は猛烈な速度でキーボードを踊る。
「くそっ、あと少し……あと少しでロックが……! この多重暗号化、正気の沙汰じゃない!」
一方、バタコは銃を構え、戦闘の余波からクリームパンダを守っていた。「小僧! 死ぬんじゃないよ!」と叫びながら、彼女は降り注ぐ瓦礫を撃ち落とし、クリームパンダのための安全な空間を必死に確保する。
そして、その混沌の中で、もう一つの魂が目覚めようとしていた。アンパンにダーツを撃ち込んだ後、ドキンに置き去りにされていた暗殺者、メロンパンナ。戦闘の衝撃と、アンパンの放つ純粋な「想い」の奔流が、彼女の脳を支配していた洗脳プログラムに、致命的なエラーを生じさせていたのだ。断片的な記憶が蘇る。病に苦しむ妹の顔、特効薬を求めてさまよった日々、そしてバイキンに「妹を救ってあげる」と囁かれたあの日の記憶。その瞳に、わずかに人間らしい光が戻りつつあった。
そして、ついにその時が来る。
「……開いた!」
クリームパンダが、叫んだ。
『プロジェクトM』のデータのロックが、ついに解除されたのだ。
モニターに映し出されたのは、生体データ。それは、メロンパンナの妹のものではなかった。
バイキンが失った、たった一人の娘のクローンデータだった。
「そうか……バイキンの目的は……! 妹を救うなんてのは、真っ赤な嘘だ!」
浄化された完璧な世界で、完璧な娘を再生させること。
それが、彼女の歪んだ理想の、全ての始まりだったのだ。
クリームパンダの報告が、通信機を通じてアンパンの耳に届く。
それを聞いたアンパンは、バイキンへの攻撃の手を、一瞬だけ緩めた。
彼女もまた、何かを失った痛みから逃れるために、世界そのものを否定しようとしていた、一人の人間に過ぎなかったのだ。その狂気は、かつて自分が陥りかけた虚無と、根は同じだった。
「終わりだ、バイキン!」
だが、感傷に浸っている時間はない。
アンパンは、自らの全生命エネルギー、そしてユニットに集まったスラムの人々の祈りの全てを、右の拳に集中させる。
それは、もはや単なる物理的な破壊力ではない。
分け与えられたパンの温もり。
子供たちの魂の歌声。
カレーパンマンが託した贖罪の炎。
しょくぱんまんが貫いた騎士の覚悟。
バタコやクリームパンダの、仲間を想う心。
そして、今まさに目覚めようとしている、メロンパンナの妹への愛。
託された全ての希望が、光の奔流となって拳に宿る。
「アンパーンチ!!」
放たれた一撃は、ジャイアント・ダダンの分厚い装甲を、まるで光がガラスを透過するように打ち破り、バイキンの歪んだ理想を、その心の奥底から、優しく浄化していく、概念的な一撃となった。
「ああ……」
光に包まれながら、バイキンは見た。
失ったはずの娘が、優しく微笑みかけてくる幻を。完璧なクローンではなく、そばかすだらけで、いつも膝を擦りむいていた、あの頃のままの娘が、「ありがとう、ママ」と言っているのを。
パワードスーツが、ガラガラと崩壊していく。
敗北を悟ったバイキンは、自らの理想が砕かれたことに絶望し、タワーごと自爆しようと、最後のスイッチに手を伸ばした。
「お前も、ただ誰かを失いたくなかっただけなんだろう」
その瞬間、アンパンは、崩れ落ちる瓦礫の中から、洗脳が完全に解け、涙を流すメロンパンナと、虚ろな表情のバイキン自身を抱え上げた。
そして、タワーに唯一残された抗体散布システムを起動。
間一髪で、爆発四散するタワーから脱出した。
眼下で、純白の塔が、自らの狂気と共に崩れ落ちていく。
それは、一つの時代の終わりを告げる、壮大な光景だった。