壁の内側《カミサリー》は、夜もなお光に満ちていた。空を覆うスモッグさえも、地上から放たれる無数の光が照らし出し、不気味なオレンジ色に染め上げている。 清潔な官舎の一室。しょくぱんまんは、パナ・コープ役員との会食を終え、完璧な笑みを張り付けたまま帰宅した。会食の席で交わされたのは、スラムの「安定化」という名の搾取計画と、自身のプロパガンダ効果がいかに素晴らしいかという賞賛の言葉だけ。彼の心は、一口もつけなかった高級培養食のように冷え切っていた。
バタン、と重々しい防音扉が閉まった瞬間、彼はその仮面を剥ぎ取る。
華やかな軍服を、まるでそれが呪いの装備であるかのように荒々しく脱ぎ捨て、床に投げつけた。完璧なヒーローの衣装は、彼の肌に食い込む枷に他ならなかった。 部屋は無機質で、生活の匂いがしない。ただ、完璧に管理された空調と、塵一つない白い壁が広がるだけだ。孤独を際立たせるためだけに用意されたような、空虚な空間だった。
しょくぱんまんは壁際のコンソールを操作する。指紋認証と網膜スキャンをクリアした先に起動したのは、正規の回線ではない。壁の外のノイズを拾うために、彼が軍の機密パーツを流用して密かに組み上げた、違法な広域受信機だ。
『……助け……て……熱が、下がらないんだ……』 『やめろ、来るな! それは俺の食料だ! ギャアァ!』 『……誰か……水……一口でいい……誰かいませんか……』
スピーカーから漏れ聞こえてくるのは、スラムから発信される断片的な通信。 悲鳴、助けを求める声、うめき声、そして、時折混じる銃声。それは、壁一枚隔てた場所で今まさに起きている、紛れもない現実の音だった。
彼は、自らの「正義」がこの壁の内側だけでしか通用しない、巧妙に作られた欺瞞であることを、誰よりも理解していた。 そして自分は、その欺瞞を糊塗するための、輝かしい象徴に過ぎないのだと。民衆の不満を逸らし、体制の正当性を担保するための、完璧な偶像。
壁に飾られた一枚の写真。 かつて、同じ理想を語り合った戦友達が、誇らしげに笑っている。彼らは皆、こんな世界を望んではいなかった。誰もが飢えることのない、真に平等な世界を夢見ていた。 そのほとんどは、この「完璧な秩序」を築くための戦いで、あるいは都合の悪い真実を知りすぎたがゆえに、「事故」として命を落としていった。
「……すまない」
誰にともなく呟かれた謝罪は、死んだ仲間たちにか、あるいは壁の外で助けを求める声にか。静かな部屋に虚しく響き、完璧なヒーローは、今日も深い無力感に苛まれていた。
その頃、スラムの地下深く。酸性雨の雫が天井の亀裂から滴り落ち、不規則な音を立てる。 迷路のように広がる地下水道網に築かれたアジトでは、一つの儀式が行われていた。
「聞け、同胞たちよ!」
壇上に立つ男が、松明の炎に照らされて叫ぶ。 過激派ゲリラのリーダー、カレーパンマンだ。その声は、長い憎悪によって研ぎ澄まされ、集まった者たちの心を鋭く抉る。
「パナ・コープが掲げる偽りの秩序も! バイキンが振りかざす狂気の理想も! 等しくこの世界を腐らせる膿だ! 奴らは甘言を弄し、施しを与え、我々から牙を抜こうとする! だが、我らは家畜ではない!」
彼の声は、怒りと憎しみに満ちている。集まった信奉者たちは、その言葉に熱狂し、錆びついた武器を天に掲げた。彼らもまた、この腐った世界に全てを奪われた者たちだった。
「小手先の治療では、もう手遅れだ! 全てを焼き尽くし、更地に戻す! 痛みも、悲しみも、思い出さえも、全て灰燼に帰した時、我らは初めて解放されるのだ! それだけが、唯一の救いだ!」
彼の脳裏に、決して消えない光景が焼き付いている。 赤い炎に舐められるように崩れ落ちる我が家。炎の中から必死に伸ばされた、幼い娘の小さな手。そして、何もできずに立ち尽くしていた、無力な自分。伸ばされた手を掴むことさえできず、ただ熱風に顔を背けることしかできなかったあの日の絶望。
守れなかった家族の幻影が、彼の見る夢を、彼の行動を、今もなお苛み続ける。
ゴウ、と彼の口元に装着された火炎放射デバイスが、抑えきれない怒りと悲しみに呼応するように、不気味な赤い光を明滅させた。彼の正義は、虚無。その炎は、かつての世界の全てを奪った理不尽への、そして何より、無力だった自分自身への、終わることのない復讐を望んでいた。
バイキン・タワーの最上階。全てが純白で統一された無菌ラボで、狂気の科学者バイキンは、非人道的な実験を繰り返していた。彼女にとって、それは呼吸をするのと同義だった。
「素晴らしい……実に素晴らしいデータが取れたわ。このウイルスは、不完全な細胞のみを選択的に攻撃する。完璧な芸術品よ」
彼女の前には、透明なカプセルに拘束されたスラムの住人が、新型ウイルスの実験台として青黒い顔で苦悶の表情を浮かべている。その隣には、不気味な骨格だけのサイボーグ拷問官、ホラーマンが、感情の見えない眼窩でその様子を観察していた。「閣下、被検体No.43の生命活動が、予測より早く低下しています」
「構わないわ、ホラーマン。失敗もまた、完璧に至るための貴重なデータよ。廃棄なさい」
バイキンは、実験結果に満足げに頷くと、ふと手元のホログラムフレームに触れた。そこに映し出されたのは、花畑の中で無邪気に笑う、愛らしい少女の笑顔。かつて、「不完全な」遺伝子の病で失った、彼女のたった一人の娘だった。
『見なさい、ホラーマン』
バイキンの声は、氷のように冷たい。だが、その瞳の奥には、常人には理解できないほどの、底なしの悲しみが湛えられていた。
『不完全さとは、喪失、痛み、悲しみと同義なのよ。病も、争いも、人の心に巣食う弱さも、全ては不完全さから生まれる汚染。この世界から全ての不完全さを取り除き、二度と誰も失うことのない、永遠に清浄な世界を創る。それこそが、究極の救済……“浄化”なのよ』
彼女の正義は、喪失から生まれた狂信だった。娘を救えなかった無力感が、世界そのものの不完全さへの憎悪へと転化したのだ。
同じスラムの一角に、対照的な場所が存在する。 バタコが率いるレジスタンスのアジトだ。そこには、かろうじて「日常」と呼べる光景があった。
「よし、今日の配給はここまでだ! 無駄にするなよ! 次がいつ手に入るかわかったもんじゃないんだからね!」
リーダーのバタコが、集まった人々に声を張り上げる。痩せこけ、覇気のない瞳をした人々を鼓舞するように、彼女は敢えて声を大きくする。彼女は理想論を嫌う。ただ、目の前の命を守るため、汚い現実と戦い続けていた。
アジトの奥では、若き天才ハッカー、クリームパンダがパナ・コープの通信網から食料輸送車のルート情報を盗み出している。彼の指先がデータパッドの上を踊るたび、何重にもかけられたセキュリティが、いとも容易く解かれていく。
「ちょろいもんですね。ここのセキュリティはザル同然だ。ま、僕にかかればどんな鉄壁も紙切れですけど」
卓越した技術を持つがゆえの傲慢さが、彼の言葉の端々に滲む。彼にとって、それはまだスリリングなゲームに過ぎなかった。
その傍らで、一人の少女が錆びた鉄板に絵を描いていた。バタコの妹分である、チーズだ。彼女は、瓦礫の街では見たこともないはずの、どこまでも青い空と、燃えるように黄色い太陽を、必死に思い描き、クレヨンの代わりに拾った色のついた石で描きつけていた。
そのささやかな日常風景。絶望の中にあっても、子供が無心に未来を夢見る光景。 それこそが、バタコが全てを懸けて守りたいと願う、世界そのものだった。