ANPAN   作:空きれい

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第4話:浄化の始まり

その日、スラムの空はいつもより静かだった。 降り続いていた酸性雨は止み、まるで嵐の前の静けさのように、鉛色の雲が分厚い蓋となって空を覆っている。風はなく、淀んだ空気が肌にまとわりつくような、不気味な静寂が支配していた。

バイキン・タワーの最上階。 狂気の科学者バイキンは、巨大なパノラマモニターに映し出された瓦礫の街を、冷ややかに見下ろしていた。モニターには、スラムの各所で散発的に発生する小競り合いや、レジスタンスの活動を示すマーカーが明滅している。

「不完全さがもたらす病巣は、思ったよりも根深いようだわ。反乱の兆候……これ以上の汚染は許さない。私の庭が、これ以上汚れるのは我慢ならないわ」

彼女が優雅に指を鳴らすと、背後に控えていたホラーマンが恭しくコンソールを操作する。モニターに「最終浄化シークエンス・承認待ち」の文字が浮かび上がった。 最終実験の許可が下されたのだ。

「これより、“浄化”を開始します」

バイキンの声は、まるで聖母のように穏やかで、慈愛に満ちているかのようにさえ聞こえた。 しかし、その瞳には慈愛など欠片もなく、自らの理想郷を完成させるための、氷のような決意だけが宿っていた。彼女はそっと、手元のホログラムフレームに触れる。そこに映る、病でやつれる前の娘の笑顔。

「見ていなさい。私の可愛い娘が、安心して生まれてこられる、完璧で清浄な世界のために」

彼女の命令を受け、タワーの各所から、無数の黒い影が音もなく飛び立っていく。 それは、昆虫の骨格を模したような、機能美と不気味さが同居した最新鋭のステルスドローン部隊だ。その流線型の機体には、バイキンが作り出した究極の生物兵器――有機生命体の細胞のみを標的とし、内側から崩壊させる致死性のナノマシンウイルスが搭載されていた。

ドローンは瞬く間にスラム全域の上空に展開する。その飛行音は人間の可聴域を外れており、レーダーにも映らない。地上にいる誰一人として、頭上に死の軍勢がいることなど気づく者はいない。

そして、一斉に。 目に見えない無色の霧が、スラム全域に静かに散布されていった。それはまるで、神の見えざる手が、地上をそっとなでるかのようだった。

悪意は、常に静寂の中に潜んでいる。

その変化は、何の前触れもなく訪れた。

スラムの市場で、なけなしの食料を奪い合っていた男が、突然激しく咳き込み、その場に崩れ落ちた。周囲の人間が、また厄介者が倒れたとばかりに訝しげに彼を見下ろした、その瞬間。 男はびくんと一度大きく痙攣し、口からどす黒い粘液状の血を吐き出して動かなくなった。その身体は、まるで急速に腐敗が進んだかのように黒ずんでいく。

「……え?」

誰かが呆然と声を漏らす。 それを皮切りに、悪夢は連鎖し始めた。ウイルスは、人を介して、空気を介して、爆発的に伝染していく。

一人、また一人と、人々が次々と倒れていく。 激しい咳。黒い吐血。そして、皮膚の下を何かが這い回るように、血管が黒く浮き上がる不気味な斑点。 それはまるで、見えない死神が、スラム中を闊歩しているかのようだった。

叫び声。逃げ惑う人々。誰を信じていいのかもわからず、互いを突き飛ばし、踏みつけ合う。阿鼻叫喚。 昨日まで、貧しくとも確かに日常があった場所は、わずか数分で地獄絵図へと姿を変えた。

「……ケホッ、ケホ-ッ……」

レジスタンスのアジトに、乾いた咳が響いた。 声の主は、チーズだった。 さっきまで錆びた鉄板に太陽の絵を描いていた彼女が、胸を押さえて苦しそうにしている。

「チーズ? どうしたんだい、風邪かい? 粉塵でも吸い込んだかな」

姉代わりのバタコが、心配そうに彼女の額に手を当てる。熱はない。だが、それがかえって不気味だった。 チーズの咳は、どんどん激しく、苦しげになっていく。

「バタコ……おねえちゃん……くるし……息が……」

その時、バタコは見てしまった。 チーズの細い腕に、まるで黒いインクを皮下に流し込んだように、不気味な斑点が急速に広がっていくのを。 それは、市場で倒れた人々と同じ、死の兆候だった。

「……あ……ああ……嘘でしょ……」

チーズが、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。

「チーズ! しっかりしな! おい、クリームパンダ! 何とかしろ!」

クリームパンダが駆け寄るが、なすすべもない。彼の専門はデジタルだ。生身の人間の、未知の病を前にして、彼のハッキング技術は何の意味もなさなかった。

「いやああああああああああああッ!!」

バタコの絶叫が、希望を失ったアジトに虚しく響き渡った。

壁の内側《カミサリー》。 しょくぱんまんもまた、その惨状をリアルタイムで目撃していた。 ただし、彼が見ているのは、コンソールに映し出される無機質な汚染データと、エリアごとに色分けされたサーモグラフィーの映像だけだ。スラムを示す広大なエリアの生命反応を示すマーカーが、凄まじい勢いで赤から青へ、そして黒へと変わっていく。

「これは……一体……汚染レベルが指数関数的に増大している……!」

彼の額に、冷たい汗が伝う。 その時、上官からの秘匿回線が開いた。

『見たかね、しょくぱんまん君。スラムの自浄作用だよ。腐った部分は、自ら朽ちていく。実に効率的だ』

冷酷で、感情の欠片もない、官僚的な声だった。

「自浄作用、ですって!? このパターンは明らかに生物兵器によるテロです! 民間人が、女子供も関係なく、大勢……!」

『だから、どうしたのかね? 我々の“秩序”の外にいる、登録すらされていない害虫だ。壁を完全に閉鎖し、静観したまえ。それが委員会の決定だ。いいね?』

通信は、一方的に切られた。

しょくぱんまんは、コンソールの前で唇を噛みしめることしかできなかった。 硬く握りしめた拳が、小刻みに震えている。彼の完璧な正義は、壁一枚隔てただけで、あまりにも無力だった。

同じ頃、地下水道のアジトで、カレーパンマンもまた、地上の様子を監視していた。 信奉者の一人が、青ざめた顔で報告する。

「カ、カレーパンマン様! スラムが……原因不明の疫病で、壊滅状態です! 我々も地上へ出て、これを機に……!」

しかし、カレーパンマンは眉一つ動かさない。 彼は静かに目を閉じ、地獄の釜が開いたような地上の喧騒に、耳を澄ませていた。断末魔の叫び、悲鳴、慟哭。それらが混じり合った音は、彼にとって世界の断末魔そのものだった。

やがて、彼は嘲るように、それでいてどこか物悲しげに口の端を吊り上げた。

「世界の必然だ。腐ったものは、自ら朽ちる。俺の手を汚すまでもない」

彼の虚無的な正義は、この惨状すらも、世界の摂理として受け入れていた。 全てが焼き尽くされるべきなら、その前に腐り落ちるのも、また一興。彼はそう信じることでしか、自らの過去の痛みを癒すことができなかった。

三つの正義が、静かに動き出した惨劇を、それぞれの場所で、それぞれの歪んだレンズを通して見つめていた。 そして、一人の孤独な運び屋が、この絶望に真正面から立ち向かうことになるのを、まだ誰も知らなかった。

 




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