ジャムのラボの重い防爆扉が、けたたましい警告音と共に内側からこじ開けられた。
そこに飛び込んできたのは、鬼の形相のバタコだった。彼女の誇り高い瞳は焦りと恐怖に揺れ、いつもは固く結ばれている唇が、か細く震えている。
「ジャム! 開けてくれ、ジャム!」
その腕には、ぐったりと意識を失ったチーズが、まるで壊れた人形のように抱えられていた。
少女の身体は小刻みに痙攣を繰り返し、腕や首筋には死相を思わせる黒い斑点が、まるで毒の華が咲くように広がっていた。その呼吸は浅く、今にも消えてしまいそうだ。
「バタコ! その子は……まさか!」
「見ての通りだよ! バイキンのウイルスにやられた! 何とかしてくれ、ジャム! あんたなら、何とかできるんだろ!」
バタコの目に涙はなかった。涙を流すことすら忘れてしまったかのように、あるのは燃え盛るような怒りと、全てを諦めたような深い絶望だけだ。
彼女は、ラボの中央にある診察台に、宝物を扱うかのようにそっとチーズを横たえた。
ジャムはすぐさまチーズの容態をスキャンする。ラボの静寂を、無機質な電子音と、急速に悪化していくバイタルサインの警告音が切り裂いた。
モニターに表示されるデータは、絶望的なものだった。ナノマシンウイルスが、少女の細胞組織を内側から食い破り、自己増殖しながら急速に全身を蝕んでいく。その侵食速度は、ジャムの知識の中にあるいかなる生物兵器をも凌駕していた。
「……既存の抗ウイルス剤は効かん。これは、我々の知らない全く新しいタイプのナノマシンだ。自己進化しながら、宿主の免疫システムそのものを破壊している……」
「じゃあ……もう……打つ手はないってことかい……」
バタコの肩が、わななく。彼女が必死に守ってきた日常が、希望が、目の前で音を立てて崩れていく。
「……一つだけ、方法がある。だが、それは……」
ジャムは苦渋に満ちた表情で、ホログラムの設計図を宙に映し出した。
それは、アンパンの頭部に装着する、新しいユニットの設計図だった。禍々しいほどの複雑さと、神々しいほどの機能美が同居した、異質な存在。
「これは……?」
「新型アンパンユニット。この子の命を救える、唯一の抗体を生み出すための、最後の希望だ」
ジャムは説明する。このユニットは、アンパンの頭部そのものを触媒とし、彼の生命エネルギー、精神力、その存在そのものを直接、ウイルスに対抗する抗体に変換する。
それは、究極の、自己犠牲の産物。使い手を、文字通り燃やし尽くしかねない諸刃の剣。
そして、それを動かすには、アンパン自身の「覚悟」――死をも厭わぬほどの、強い意志が不可欠だった。
その言葉を聞いた瞬間、部屋の隅で自己修理をしていたアンパンは、弾かれたように顔を上げた。そして、激しく首を横に振った。
「やめろ……俺じゃない!」
彼は、設計図から逃れるように後ずさる。まるで、それが自分を裁くためのギロチンであるかのように。
「俺じゃない! 空にはしょくぱんまんがいるだろう! 奴こそが、民衆に選ばれた本物のヒーローだ! 俺は……俺はもう……」
誰も、救えない。
その言葉は、悲鳴となって彼の喉の奥に消えた。
ザアァァッ―――
アンパンの脳裏に、忘れることのできない光景が、ノイズ混じりの映像となって鮮明に蘇る。
過去の戦争。降りしきる弾雨の中、部隊は敵に包囲され、絶望的な状況にあった。
仲間たちは傷つき、飢え、塹壕の泥濘の中で死を待つだけだった。無線は通じず、援軍の当てもない。
『これを食え。まだ戦えるはずだ』
彼は、自らのエネルギーの結晶である「パン」を、仲間に分け与えた。
それが、優しさだと信じて。
それが、リーダーとして正しいことだと信じて。仲間を一人も見捨てたくなかった。
しかし、その純粋な優しさが、全てを終わらせた。
仲間たちが一時的に体力を回復し、抵抗を続けたことで、敵の増援を呼び込む時間を与えてしまったのだ。
圧倒的な物量の前に、抵抗も虚しく、部隊は全滅した。
彼の腕の中で、カシという名の最後の戦友が息絶えていく。腹に大穴が開き、もう助からないことは誰の目にも明らかだった。
血まみれの顔で、友はアンパンを見つめ、かすれた声で呟いた。
『お前の……せいだ……』
『お前が……優しすぎたから……お前が希望を持たせたから……みんな、諦めきれずに……死んだ……』
その言葉が、今も彼の心を縛り付ける、決して消えない呪いとなっている。
「俺の優しさは、仲間を殺したんだ……! 俺に、誰かを救う資格なんてない!」
アンパンは頭を抱えてうずくまる。そんな彼に、ジャムは静かに、しかし力強く語りかけた。
「英雄とは、選ばれるものではない。行動する者のことだ。資格など、誰かが与えるものではない。自らがその行動で証明するものだ」
ジャムは、設計図のコア部分を指し示す。そこは、複雑な回路が心臓のように明滅していた。
「このユニットのコアは、単なる動力源ではない。人々の強い想い……希望や祈りといった、目に見えない感情の奔流をエネルギーに変換する、旧文明のオーパーツなのだ。お前が過去に失ったものは、お前を縛る呪いではない。その痛みを知るからこそ、お前は本当の意味で誰かを救えるのではないか? 失敗を知らぬ者に、真の救済は成し遂げられん」
「……っ!」
アンパンは言葉に詰まる。ジャムの言葉が、彼の固く閉ざした心の扉を、無理やりこじ開けようとしていた。
その時だった。
今まで黙って二人を見ていたバタコが、アンパンの前に崩れ落ちた。
彼女は、瓦礫の街の誇り高きリーダーとしてのプライドを全て捨て、ただ一人の女として、冷たいコンクリートの床に額をこすりつけた。
「頼む……アンパン……!」
「あの子を……チーズを、助けてくれ……!」
「あの子は……あの子の笑顔は、この腐ったスラムで、あたしが守ろうとしてきた、たった一つの希望の光なんだ……! それを失ったら、あたしはもう、何のために戦えばいいのかわからない……!」
慟哭。
それは、アンパンがずっと耳を塞ぎ、無視し続けてきた、救いを求める魂の声そのものだった。
アンパンは、苦悩に顔を歪める。
過去のトラウマと、目の前で消えかけている命。
ヒーローの資格などない。だが、ここで何もしなければ、それは過去の過ちと同じだ。見殺しにするという、最も残酷な選択だ。
このまま見捨てることが、正しいのか?
長い、長い沈黙の後。
それは、永遠にも感じられる時間だった。
アンパンは、震える手を、ゆっくりと伸ばした。
その手は、設計図ではなく、診察台で苦しむチーズの小さな手に向かっていた。触れることはない。ただ、その温もりを確かめるように。
そして、彼は決意を固めた。
自らの過去への決別を、そしてこれから背負うであろう運命を受け入れることを意味する「新型アンパン」のユニットを、強く、強く、握りしめた。
その瞳には、悲壮な覚悟の色が浮かんでいた。