覚悟は、決まった。
アンパンは静かに診察台に腰掛ける。その背中は、これから処刑台に向かう罪人のように硬直していた。
ジャムは、祈るような手つきで、古びたユニットを彼の頭部から取り外していく。長年、アンパンの心を縛り付けてきた呪いの装備。それが外された瞬間、彼は奇妙な解放感を覚えた。まるで、ずっと肩にのしかかっていた重い鉛の外套を脱ぎ捨てたかのようだ。
「……装着するぞ。少し痛むかもしれん、覚悟しろ」
ジャムが、決戦兵器「新型アンパン」ユニットを手に取る。
それは、これまでの無骨で殺風景な機械とは似ても似つかない、滑らかな曲線で構成された、どこか有機的な、温かみすら感じさせるデザインをしていた。まるで、機械ではなく、一つの生命体のように見えた。
ユニットが、アンパンの頭部に接続される。
ズウゥゥン……!
全身の神経が焼き切れるような激痛が走り、アンパンは思わず歯を食いしばる。だが、その痛みは一瞬だった。直後、まるで凍てついた血管に温かい血液が流れ込むような、不思議な感覚が全身を駆け巡った。
これまでにない強大なエネルギーが、彼の身体にみなぎっていく。だが、それは過去に感じたような、ただ荒々しいだけの、制御不能な破壊の力ではなかった。
温かい。
まるで、凍てついた心臓を、優しい手で包み込まれるような。
それは、診察台で苦しむチーズの、か細い寝息だった。
それは、床に額をこすりつけて慟哭したバタコの、妹を想う祈りだった。
それは、このユニットを作り上げたジャムの、未来を託す願いそのものだった。
人々の想いをエネルギーに変換する、希望の力。俺は、祈りに応えるようなタマじゃない。そう心の中で毒づくが、力は彼の意思とは関係なく、その存在を肯定するように満ちていく。
アンパンは、ゆっくりと立ち上がった。
視界の端で常に明滅していた赤いエラーコードは、完全に消えている。世界が、ノイズのないクリアな映像として見えていた。
「……行く」
短い言葉に、決意が滲む。
抗体を作り出すには、ウイルスの発生源であるバイキン・タワーの中枢に、このユニットを直接接続する必要がある。ぐったりとしているチーズの顔を見て、残された時間が少ないことを改めて痛感する。
彼は一人、ラボの出口へと向かった。
これは、自分の戦いだ。自分の選択の結果だ。これ以上、誰も巻き込むわけにはいかない。もう誰も、俺の戦いで死なせはしない。
「待ちな」
その背中に、鋭い声が突き刺さった。
バタコだった。
彼女は涙を拭い、いつもの誇り高いレジスタンスのリーダーの顔に戻っていた。だが、その瞳の奥には、アンパンの新たな力に対する畏れと、それでもなお彼を御さねばならないという強い意志が宿っていた。
「あんた一人で行かせるわけないだろ。その力はまだ不安定だ。それに、このスラムの地理は、あたしの方がよく知っている。どこにバイキンのドローンが潜んでいて、どこに酸性雨を避けられる通路があるか、あんたにわかるのかい?」
「足手まといだ」
アンパンは、振り返らずに言い放つ。その言葉は、彼女を拒絶するためであると同時に、自分自身に言い聞かせるためのものでもあった。
「どっちがだい。あたしがいなけりゃ、バイキンのドローン部隊の餌食になるのがオチさ。それに、その力が暴走したら誰が止める? あんたはまだ自分の力を全く理解していない。あたしはチーズを救うためなら、悪魔にだって道案内してやるさ」
バタコは一歩も引かない。
彼女はアンパンの力を危険視していた。それは、制御不能な爆弾のようだと感じていた。だからこそ、この目で確かめる必要があった。ただ祈って待つだけの女ではない。彼女は、戦う女だった。
二人の間に、張り詰めた火花が散る。
その時、どこか場違いなほど軽薄な声が割って入った。
「ま、二人だけじゃ最初のドアも開けられないでしょうけどね」
いつの間にか、クリームパンダが最新式のデータパッドを片手に立っていた。その顔には、恐怖よりも好奇心の色が濃い。
「バイキン・タワーのセキュリティは、パナ・コープの軍事レベルを遥かに超えてます。そこを突破できるのは、このスラムじゃ、いや、世界中探したって僕くらいのもんですよ? ま、こんな歴史に残るようなハッキング、見逃したら一生の後悔ですしね。最高のゲームじゃないですか」
彼は、どこかこの状況を楽しんでいるようだった。
人の命がかかった現実を、まだゲームの延長のように捉えることで、自らの恐怖心から目を背けている。
アンパンは、忌々しげに舌打ちした。
一人は、自分を信用しない道案内。
もう一人は、戦いをゲームと勘違いしているガキ。
最悪のチームだった。だが、彼らの言うこともまた、事実だった。一人では、タワーにたどり着くことすらできないだろう。
「……勝手にしろ」
アンパンはそれだけ言うと、今度こそ出口の扉に手をかけた。
ジャムが、何も言わずに彼らを見つめている。その瞳には、心配と、そしてかすかな期待の色が浮かんでいた。『行っておいで、不器用な家族たちよ。互いが互いの欠けた部分を補うことを、その旅で学びなさい』。彼の声なき声が、三人の背中を押した。
扉が開かれ、酸性雨が蒸発して立ち上る白煙と、化学薬品の悪臭がラボに流れ込んでくる。
アンパンは、ためらうことなく瓦礫の闇へと足を踏み出す。
そのすぐ後ろを、バタコが警戒を解かない鋭い目つきで続く。
そして、その後ろから、クリームパンダが「さあ、ゲームスタートだ」と小さく呟きながら、軽やかな足取りでついてきた。
互いに反発し、不協和音を奏でながら。
決して交わることのない三つの視線は、それでも、バイキン・タワーという同じ目的地を見つめていた。
奇妙な、三人の旅が始まった。
それは、後に「疑似家族」と呼ばれることになる、ぎこちない第一歩だった。