ムラサメさん家のイチバン=サン   作:星乃 望夢

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第68話 おかえりなさい。我々は同じ、市民を守る連邦軍の軍人です

 

キリマンジャロ基地 中央司令塔付近

 

 ──その巨影は、沈黙のまま、空を睨んでいた。

 

 サイコデウスガンダム。

 

 漆黒の機体はキリマンジャロの山麓を背に、まるで神像のように動かず佇んでいた。

 

 何も語らない。

 

 何も撃たない。

 

 だが、そこに在るというだけで基地全体を“見られている”という錯覚が、兵たちの心に染みわたっていた。

 

「……動かない。……攻めてこない……のか?」

 

 第一管制区画に身を潜めていた一等兵は、機材越しに映るその姿を凝視しながら、喉を鳴らすように呟いた。

 

 周囲にいる誰もが言葉を返せない。

 

 否、返せなかった。

 

 それは沈黙ではなく、咎めだった。

 

 銃を持った手が、汗で滑りそうになる。

 

 幾人かは既に、照準器の向こうにサイコデウスを捉えたまま、引き金に指をかけていた。

 

 だが――誰一人、撃てなかった。

 

「バスク様からの命令は……」

 

 中尉の男が言いかけて、黙った。

 

 この期に及んでバスクの名を持ち出すことが、まるで基地全体の空気を凍らせるような感覚を呼んだのだ。

 

 今やバスク・オムという名そのものが、“選別される側”の印に見えていた。

 

「無駄死にはするな……って、あれ……本当にあいつが……?」

 

 低い声で誰かが呟く。誰も返さない。

 

 だが、その言葉は否定されなかった。

 

 あの声を確かに聞いたのだ。

 

 基地全体に鳴り響いたわけではない。

 

 ただ、確かに届いたのだ──自分の心に。

 

 それは脅しではなく、命令でもなかった。

 

 “願い”だった。

 

 そして、その願いは、自分が今まで従ってきた何よりも優しく、しかし強く心を揺さぶった。

 

「……俺たちは……何をしてたんだ?」

 

 誰ともなく洩れたその声に、数人の兵が顔を伏せた。

 

 武器を床に置いた者がいた。

 

 整備班のひとりが、そっと工具を下ろした。

 

 その動きに釣られるようにまたひとり、またひとりと、何かが静かに、剥がれ落ちていった。

 

 怒りでも、恐怖でもない。

 

 羞恥。

 

 その場にいた者たちの多くは、戦場であるにも関わらず、まるで教会にいるような、あるいは懺悔室に入ったかのような錯覚に囚われていた。

 

「……俺、行くわ」

 

 若い通信兵が立ち上がる。

 

 制服の襟元を緩めながら、壁に掛かった白布を手にした。

 

 それは、かつては“降伏”の証として忌避された布だった。

 

 だが今、それは命を捨てずに済む唯一の手段として、祈りのように扱われていた。

 

 その白布を見つめ、年長の中佐がぽつりと呟いた。

 

「……そうか……あいつは……殺しに来たんじゃない。……見届けに来たんだな……」

 

 誰も返事はしなかった。

 

 だが、誰も否定もしなかった。

 

 中央司令塔の静けさの中で、誰かが無線機を通じて、基地中枢へと通信を送る。

 

 その報は、まもなく全館へと広がってゆく。

 

「……我々はこれより、武装解除の準備に入る」

 

 沈黙の巨影は、やはり何も言わなかった。

 

 ただそこに、“在る”だけで。

 

 それで充分だった。

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

キリマンジャロ基地 第二指令管制棟・状況会議室

 

「貴様……正気かッ!」

 

 怒声が、鈍く響いた。

 

 作戦幕僚のひとり、ロクス大尉は手にした拳銃で床を叩き、血走った目で向かいの男を睨みつけていた。

 

 その相手、整備中隊長のエイダ少佐は、しかし怯まず視線を返す。

 

「……私は、部下を殺させたくない。ただ、それだけだ」

 

「今さら綺麗ごとを言うな! ここまで来て投降だと? バスク大佐の命を忘れたのか!」

 

「忘れてなどいない……だが、だからこそだ」

 

 エイダの声は凛としていた。

 

 握るヘルメットには、油汚れと血の染みが混じっていた。

 

 自分の部下のものだった。

 

「彼らは“命令”に従った。だがその命令は、戦術でも戦略でもなく、もはや“死ね”というだけの号令だ」

 

「貴様ッ……!」

 

 ロクスが拳銃を突きつけた瞬間、複数の若い兵がエイダの前に立った。

 

「やめてください、大尉!」

 

「俺たちは少佐に従います!」

 

「生きて……この戦争を終わらせたいんです!」

 

 震えながらも銃を構えたその兵の姿に、ロクスは凍りついた。

 

 空気が張り詰める中、もうひとりの幕僚、情報部出身のレミア中佐が立ち上がる。

 

「……やめなさい、ロクス。私も、少佐に賛成だ」

 

「レミア……お前まで……!」

 

「違うの。もう、終わっているのよ。バスク様の命令を盾にして誰かを撃っても、私たちが生き残れるわけじゃない。……今、私たちに問われているのは“忠誠”じゃない。責任よ」

 

 その声は、哀しみの響きを帯びていた。

 

 どこか遠くで、外套を脱ぎ、背中に白布を巻いた兵がひとり、通路を横切っていく。

 

 誰もそれを止めなかった。

 

「……俺も、行きます」

 

「整備班第三小隊、全員降伏準備に入ります!」

 

「衛生兵は武装解解除完了! 混乱による負傷者搬送に移ります!」

 

 報告が相次ぎ、白布を掲げた兵が増えていく。

 

 そのたびに、怒声が飛び、銃を構える者もいる。

 

 だが、それを本当に“撃てる”者は、いなかった。

 

「ロクス大尉」

 

 沈黙の中、再びエイダ少佐が口を開いた。

 

「あなたも、自分の部下を、見てやってください」

 

 ロクスの背後には、彼が“鍛えた”兵士たちがいた。

 

 まだ若い、まだ震えている、だが、恐れながらも命を捨てる道以外を見つめようとする瞳。

 

 ……かつて、自分も持っていたはずの光。

 

 ゆっくりと、拳銃が下ろされる。

 

 その音はなかったが、まるで山を下る風のように、場の空気を静かに変えた。

 

 誰かが、無言で肩を叩く。

 

 それは撃ち合いではなく、赦し合いだった。

 

 そして、兵たちは動き始める。

 

 誰に命じられたわけでもない。

 

 ただ、ひとつの祈りのように──。

 

 「無駄死にはするな」

 

 その言葉を心に抱きながら、キリマンジャロ基地内の“投降者”たちは静かに行進を始めた。

 

 命を捨てず、責任を果たすために。

 

 未来へと、歩き出すために。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

キリマンジャロ基地 北ゲート

 

 昼前の風が、山肌の岩を流れていく。

 

 キリマンジャロ山、その北門から続く滑走路跡に、重く、規律正しい足音が連なる。

 

 それは、投降という選択をした者たちの、無言の行進だった。

 

 約3200名──。

 

 基地に所属していたおよそ4000人の兵士たちのうち、実に八割が武装解除を選び、歩き出したのである。

 

 整然と進む隊列の中には、年若い兵士、傷を負った者、階級章を外した将校、そして仲間を担ぐ者たちの姿があった。

 

 彼らの表情には敗北の陰ではなく、どこか静かな“肯定”の色が宿っていた。

 

 その理由はただ一つ。

 

 彼らの先──キリマンジャロの山麓の上に、ひとつの巨影が黙して立っていたからである。

 

 サイコデウスガンダム。

 

 黒鉄の機体はただ沈黙のうちに存在していた。

 

 動かず、語らず、銃口も向けず。

 

 だが、その“沈黙”こそが、語りかけていた。

 

 “無駄死にはするな”──。

 

 あの言葉を聞いたとき、誰かが泣いた。

 

 心を刺すような慟哭ではなく、温かく滲むような痛みだった。

 

 そして今、彼らは己の選んだ道を歩き始めていた。

 

 ──しかし。

 

 その瞬間、動いた。

 

 サイコデウスが、ゆっくりと一歩、一歩と、前へと踏み出したのだ。

 

 明らかな“意思”を持って。

 

「──ッ……!」

 

 緊張が、列全体を駆け抜ける。

 

「やはり……!」

「罠だったのか……!?」

「撃ってくるぞ……!」

 

 声にならぬ動揺が、隊列を乱した。

 

 怯え、膝をつく者。

 

 仲間をかばい、覆いかぶさる者。

 

 再び銃へと手を伸ばしかける者さえ、いた。

 

 だが──サイコデウスは、歩み寄るだけでなにもしない

 

 そして見えるところまで来て、立ち止まる。

 

 その額部の大型センサーが、ふいに明滅を始める。

 

 最初に気づいたのは、後方の通信班だった。

 

「光信号……いや、モールスだ! ……読む!」

 

 緊張の面持ちで、ヘルメット越しにセンサーを凝視する若い通信兵たちが、呟くように読み上げる。

 

「《ワレ、テキイ、ナシ》……」

 

「《ソノセンタクヲ、ウケイレル》……!」

 

 一瞬の沈黙。

 

 誰もが、鼓動の音すら聞こえるような静寂に包まれた。

 

 そして。

 

 嗚咽が、ひとつ。

 

 次いで、帽子を握りしめ、膝をつく者。

 

 拳を地に当て、嗄れ声で涙をこらえる者。

 

 全ての兵が、はじめて“自分の選択”を、心から肯定されたと知った瞬間だった。

 

 ──隊列が、整う。

 

 誰かが命じたのではない。

 

 整然と、ひとり、またひとりと立ち上がる。

 

 仲間に手を貸し、荷物を直し、歩調を揃える。

 

 そして、一斉に腕を上げた。

 

 静かに佇むサイコデウスへ──全員が、敬礼を送る。

 

 それは降伏の礼ではない。

 

 未来を託す者としての、深い敬意だった。

 

 キリマンジャロには、なお800名の兵士たちが残っていた。

 

 だが、この瞬間──「戦う理由」の一つが、静かに崩れ落ちたことを、彼らもまた心で知ったのだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇

 

 

 

キリマンジャロ基地・管制塔内部

 

「……敬礼、したぞ……あいつら」

 

 中継モニターに映るのは、北ゲートへと続く滑走路。

 

 そこには、整然と列を組んだ投降兵たちと、静かに彼らに向き合う黒き巨神──サイコデウスの姿。

 

「罠もなけりゃ、脅しでもねぇ……まるで、あの機体が“赦した”みてぇじゃねぇか……」

 

 誰かが吐き捨てるように呟いた。

 

 だが、その声には怒りも嘲りもなく、ただ底知れぬ困惑と、焦燥が滲んでいた。

 

 管制塔に集まった残留兵たちの視線は、モニターに釘付けになっていた。

 

 投降した元同僚たちは、満ち足りた表情で、静かに基地を去っていく。

 

 そしてあの、忌まわしいほどに沈黙を守っていたサイコデウスは──彼らの選択を「受け入れた」。

 

「ふざけるなよ……!」

 

 叫び声が響いた。

 

 若い整備兵が、床を拳で叩いていた。

 

「なんで……! なんであいつが、あんな偉そうに……!」

 

 怒りではない。

 

 それは、自分ではどうしようもないものへの、悔しさだった。

 

「じゃあ俺たちがここに残ってるのは……なんなんだよ……!」

 

 室内に重い沈黙が落ちた。

 

 投降していった者たちは“逃げた”と非難していた。

 

 自分たちはここに残ることで“正義”を選んだつもりだった。

 

 だが今。

 

 どちらが“戦う者”で、どちらが“赦す者”なのか──その輪郭が、曖昧になっていく。

 

「やめよう……もう、こんなのは……」

 

 小さく、だがはっきりとした声が、奥の隅から漏れた。

 

 医務官だった初老の軍医が、白衣のまま呟いたのだ。

 

「もう、これ以上、誰も殺しちゃいけない。君らだって、そう思ってるんだろ……?」

 

「……おい、何言ってやがる」

 

 即座に反論したのは、防衛部隊の中隊長だった。

 

「お前、それでも軍人か? 最後の砦だぞ、ここは……!」

 

「砦? 誰にとっての? 俺たちの誇りか? バスクの私兵でいることが、か?」

 

「貴様ッ──!」

 

 拳が振り上げられた。

 

 だが、止める者がいた。

 

「やめろよ、隊長……それ、もう意味ないって」

 

 中隊長の部下だった若い兵士が、ぼそりと呟いた。

 

「もう、俺たちだけが取り残されてるんだ……意味がねえよ」 

 

 その場で、完全に空気が割れた。

 

 投降を“希望”と捉えた者たちと、なお“最後の戦い”に意義を見出そうとする者たち。

 

 全員が、内心では気づいていたのだ。

 

 「終わり」が近いことに。

 

 だが、それを口にできるかどうかが、彼らの“立場”を決定的に分けていた。

 

「俺は、出るよ……」

 

 最初に言葉にしたのは、工兵隊の小隊長だった。

 

「戦う理由も、死ぬ理由も、もうねぇ。だから、命は“生きるために”使う」

 

 ゆっくりと脱ぎ捨てる軍帽。

 

 ベルトを外し、拳銃を机に置く。

 

「……誰か、来るか?」 

 

 沈黙のなか、ひとり、またひとりと歩み出る。

 

 通信兵、整備兵、衛生兵──戦闘部隊ではない者から順に、立ち上がっていく。

 

「俺も行く。母さんが待ってる」

「……弟のとこに帰りてぇな」

「隊長、悪い。ここまでっす」

 

 数分後、およそ100名が新たに脱隊し、投降を選んだ。

 

 残された者たちは、もはや止めなかった。

 

 ただ黙って、彼らの背中を見送るだけだった。

 

 その背中には、迷いがなかった。

 

 むしろ、残る者たちこそが、徐々に言葉を失っていった。

 

「……どうする、俺たち……」

 

 誰に向けた問いでもない。

 

 ただ、“正義”を見失った者たちの、呟きだった。

 

──この時、キリマンジャロに残る兵力は約700名以下へと減少。

 

 そして、“最後の戦い”を求めていた者たちの中にも、心が揺れ始めていた。

 

 サイコデウスは沈黙を続けたまま、彼らを見下ろしている。

 

 まるで──それぞれの「選択の時」を、じっと待ち続けているかのように。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

キリマンジャロ滑走路・北ゲート前

 

 黒き巨神、サイコデウスガンダムが──再び、動いた。

 

 地を踏み鳴らす重々しい足音が、滑走路に残る雪と土を振るわせる。

 

 その先にいるのは、先ほど整列し、敬礼を送ったばかりの投降兵 約3200名の列だった。

 

 まさか──誰かが呟く。

 

「……やっぱり、罠だったのか……!?」

 

 だが、サイコデウスはゆっくりと、慎重に歩み寄りながら、彼らに近づいていく。

 

 その威容は、恐怖を呼ぶには充分すぎた。

 

 だがそこには、敵意も威圧もない。

 

 まるで、何かを確かめるような、静かな接近だった。

 

 ──そして、その距離が、人の足で届くほどにまで近づいた時。

 

 サイコデウスは、止まった。

 

 胸部装甲が開き、パイロットリフトが降下する。

 

 現れたのは、まだ十代の少年だった。

 

 だがその背筋は凛として、ブーツの足音には一切の迷いがなかった。

 

 彼──アイン・ムラサメは、無言のまま投降兵たちの前に進み出ると、ヘルメットを外して小脇に抱え、自らも敬礼を送った。

 

「あなた達の選択は──」

 

 言葉が、風を切って滑走路に響く。

 

 その声は若いが、響きには確かな力があった。

 

「──信念や命令よりも重い。命を捨てなかった選択です」

 

 その瞳は、真っ直ぐに彼らを見据えていた。

 

「……おかえりなさい。我々は同じ、市民を守る連邦軍の軍人です」

 

 整列していた投降兵たちの誰も、敬礼の姿勢を崩さなかった。

 

 だがその顔には、明確な変化があった。

 

 嗚咽、涙。

 

 戦友の名を呼ぶ声もなく、ただ肩が震え、顔が濡れた。

 

「……俺たち、まだ軍人で……いられるんだな……」

 

「……ありがとう……ありがとうございます……!」

 

 その言葉は誰にも届かないほど小さかったが、その涙は確かに“赦された”者の涙だった。

 

 それは、戦場で心を殺していた者たちが、初めて自分を赦した瞬間だった。

 

 ──そして。

 

 この一部始終は、キリマンジャロ基地管制塔の監視スクリーンにも映されていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

キリマンジャロ基地・管制塔内

 

「……」

 

「……ふざけんな……なんだよ、それ……」

 

 兵たちは言葉を失っていた。

 

 モニターの中で、黒き機体から降りた“少年将校”が、自らの命を賭けるような眼差しで、あの投降兵たちを「仲間」と呼んだ。

 

「……あんな奴、ただの坊やじゃねえか……!」

 

「違う……違うよ、あいつは……何も、俺たちと変わらない。変わらないのに……!」

 

 誰かが軍帽を床に落とした。

 

 誰かが机を蹴り飛ばした。

 

 そしてまた、誰かが崩れ落ちるように座り込んだ。

 

 ──あの瞬間、確かに見せつけられたのだ。

 

 「降伏した者たち」こそが、“軍人としての尊厳”を、真に取り戻したのだと。

 

 自分たちは何のためにここにいる?

 

 何を守るために戦おうとしていた?

 

 その問いに、誰ひとり答えられなかった。

 

「……俺も、行く」

 

 誰かが呟いた。

 

「俺も……もう、意地張るのはやめる」

 

 その場にいた数十名が、言葉もなく立ち上がる。

 

 揺れる。

 

 瓦解する。

 

 軍人としての“誇り”を盾に残っていた者たちが、今、その盾を静かに降ろし始めていた。

 

 ──その数時間後、キリマンジャロ基地からさらに200名以上が投降を決断することとなる。

 

  その理由を、ある兵士は後にこう記している。

 

>「あの時、確かに自分たちは“見られていた”と感じた。敵でも味方でもない、誰かがこちらを“信じて”見てくれていた。それだけで、俺たちは救われたのだ」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

キリマンジャロ基地・中央司令塔最上階ブリーフィングルーム

 

 空調の唸りが、やけに耳についた。

 

 室温は保たれているはずなのに、誰もが喉に渇きを覚えていた。

 

 スクリーンの中で、アイン・ムラサメが静かに敬礼していた。

 

 その前に整列する、かつての部下たち。

 

 投降し、軍服のまま涙を流す者たち。

 

 ──その一人一人が、かつてこの基地の兵舎で日々を過ごし、訓練を共にし、酒を酌み交わした仲間だった。

 

「……あの少年……あんなものを……」

 

 老いた副司令が、手にしたカップを机に置き損ねて転がした。

 

 軍帽を被ったまま動かない参謀長が、眉一つ動かさずに呟く。

 

「これは、演出ではない。これは……“本物”だ」

 

 司令官席に腰掛ける男──第21方面軍所属、キリマンジャロ守備軍総司令ドウェル・イーガン大佐は、何も言わなかった。

 

 ただ、両肘を肘掛けに置いたまま、手を組み、目を伏せていた。

 

 その口元が、一度、わずかに動く。

 

「……泣かせおって……バカどもが……」

 

 絞るようにそう吐き捨てたが、その声に怒気も侮蔑もなかった。

 

「総員の八割以上が……この四時間で出て行きました。残るは……基地警備、整備、司令部直属部隊合わせて……約700名」

 

「……本隊は崩壊したも同然です」

 

 報告する幕僚の声も、どこか沈んでいた。

 

 敵による電撃戦でもなければ、上空からの核攻撃でもない。

 

 ただ──言葉と沈黙だけで、基地は陥落しつつあった。

 

「……」

 

 ドウェル司令はようやく目を開け、スクリーンを見やった。

 

 画面には、敬礼を受け取ったアインが深く頷き返す姿。

 

 そしてその後ろで、サイコデウスがただ静かに佇んでいた。

 

 その様子は、まるで墓標のようだった。

 

 ──亡霊ではない。

 

 だが、自らの責務を終えた者のような静けさがあった。

 

「……このままでは、士官学校の教材にされるな。『敗北の手本』として」

 

 ドウェルは自嘲気味に笑う。

 

「通信を開け。バスク様は……まだ沈黙か?」

 

「はっ……回線は……すでにティターンズ監察軍政官庁へ切り替えられている模様。司令チャンネルは開通不能です」

 

 静寂。

 

「……我々は、今からどうする?」

 

 沈黙を破ったのは、老いた副司令だった。

 

「ですが、ここに留まっても、物資も2週間が限度です。籠城するには足りません」

 

「降伏し、軍法会議に出れば、責任者として即時拘束でしょう」

 

「だが、ここに留まっても、物資も2週間が限度です。籠城するには足りません」

 

 モニターに映る、投降兵たちの整列と、それを迎える漆黒の巨影。

 

 そして、降り立った少年将校の姿。

 

 その全てを、ドウェル・イーガン大佐は黙して見守っていた。

 

「……あれが、“アイン・ムラサメ”か」

 

 副官が小声で呟く。

 

 画面の中、サイコデウスの巨体の前に立ち、堂々と敬礼を返すその姿。

 

 ヘルメットを小脇に抱え、迷いなく語るその声音は、確かに兵たちの魂を揺らしていた

 

 嗚咽と共に涙を流し、それでも姿勢を崩さず敬礼を続ける兵たちの列。

 

 その美しさに、幾人かの幕僚は目を逸らし、そして泣いた。

 

 ドウェルは静かに帽子を脱ぐと、机に置いた。

 

「……敗北ではない」

 

 彼は誰にともなく呟いた。

 

「ここに至るまで、我々は幾度も命令を下してきた。だが──彼は命令ではなく、信念で人を動かした」

 

 副官が何かを言いかけたが、ドウェルはそれを手で制し、部屋を出る。

 

 続く者は、約200名。

 

 階段を下りるごとに、歩みを共にする者が増えていった。

 

 最初に声を上げたのは、通信科の中尉だった。

 

「俺たちも……行こう。あそこに戻ろう」

 

 誰も反対しなかった。

 

 整然と隊列を組む者もいれば、ただ胸に手を当て、歩みを止めぬ者もいた。

 

 その列が、キリマンジャロの正門を抜け、地表に現れる。

 

 迎えるように、サイコデウスは立っていた。

 

 額のセンサーがゆっくりと点滅し、そして動き出す。

 

「大将閣下に、敬礼ッ!」

 

 最前列で誰かが叫んだ。

 

 その瞬間、200名の全てが敬礼の姿勢を取った。

 

 アイン・ムラサメはその前へ進み出た。

 

 ゆっくりとヘルメットを外し、小脇に抱える。

 

「キリマンジャロ守備隊司令、ドウェル・イーガン大佐であります!」

 

 敬礼を送るドウェル大佐へ、アイン胸に手を当て、深く敬礼を返した。

 

「ドウェル・イーガン大佐、ならびに皆さん。あなた方の選択もまた、尊く、勇気ある選択です。おかえりなさい」

 

 その声は静かだった。

 

 だが、その静けさは、大地に沁み渡る祈りのようだった。

 

「……あなた方もまた、市民を守る連邦軍の軍人です」

 

 ドウェルは、ぎゅっと唇を噛み締めた。

 

「我々は、遅れてしまった。……だが、今ここで、あなたの言葉に応える。連邦軍の名の下に──我々は再び、国民の盾であらんことを」

 

 次の瞬間、兵たちの何人かが泣き出した。

 

 嗚咽が、敬礼の列に広がる。

 

 ある者は肩を震わせ、ある者は顔を上げたまま、涙を零した。

 

 アインはそれを、すべて受け止めるように、ただ敬礼を続けた。

 

 サイコデウスの背後、赤く染まる空の向こう。

 

 その光の中で、かつて敵とされた者たちが、再びひとつの軍として立ち返る瞬間だった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 嗚咽の中で敬礼を解く兵たちの列。

 

 真正面に立つドウェル・イーガン大佐へと視線を向ける。

 

「……ドウェル大佐」

 

 呼びかける声は静かだった。

 

 だがその語調には、わずかに緊張と、そして悲痛な願いが滲んでいた。

 

 ドウェルは整った礼式姿勢を保ったまま、帽子の庇をわずかに下げる。

 

「貴官の出現がなければ、我々は、もっと多くの命を……」

 

 アインはその言葉を制すように、しかし穏やかに首を振った。

 

「過ぎたことです。……今知りたいのは、キリマンジャロに、あとどれだけの兵が残っているか、です」

 

 その一言に、周囲の空気が張り詰める。

 

 ドウェルは黙っていた。

 

 だが、次の瞬間、すぐさま答えが返る。

 

「……正規の駐屯兵、予備戦力、司令部要員を合わせて、残存は約五百前後と思われます」

 

 アインは頷き、短く目を伏せる。

 

「……まだ、多い」

 

 それは呟きだった。

 

 だが、誰に向けられたものでもなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 キリマンジャロの空は、ゆっくりと夕暮れに染まり始めていた。

 

 基地外縁の大地には、すでに投降した約三千を超える兵士たちが整列し、移送待機の隊列を組んでいる。

 

 その最前列、黒と灰の入り混じる制服の中、ドウェル・イーガン大佐の姿があった。

 

「──では、これより先の指揮は、大佐にお任せします」

 

 サイコデウスの前、アイン・ムラサメは静かに告げた。

 

 帽子を取って礼を返すドウェルに、アインもまた軽く頭を下げると、再びその背を向け、漆黒の巨体へと戻る。

 

 アインが乗り込むと、サイコデウスは一瞬だけ機体を震わせた。

 

 だが、それきり動かない。

 

 砲口も動かず、脚部も沈黙を保ったまま。

 

 風に揺れる熱帯の草だけが、時間の流れを教えていた。

 

 ──その時だった。

 

 投降を拒み続けていた者たち──およそ五百余名が、その様子を基地の監視塔から見下ろしていた。

 

「また……乗り込んだ」

 

「今度こそ撃ってくるんじゃないか……」

 

「罠だったのか……?」

 

 囁きは、疑念と恐怖の入り混じったものだった。

 

 ひとり、またひとりと残留兵たちがモニターや双眼鏡を握り締める。

 

 だが、サイコデウスは何も動かない。

 

 ただ、そこに在る。

 

 それはまるで──「出てくるのを待っている」かのような佇まいだった。

 

 時間が過ぎていく。

 

 夕日は地平線の彼方へ沈み、夜の帳がキリマンジャロを覆った。

 

 誰もが見上げた夜空の下、サイコデウスは、依然としてその場に立ち続けていた。

 

 照明も落ちた司令部の一室。

 

 交代の監視兵が壁にもたれたまま呟く。

 

「……動かない。あれ、本気だ」

 

「何が?」

 

「“出てくるまで、待ってる”ってことだよ。……根比べの構えだ。完全に」

 

 その言葉は静かだったが、重く響いた。

 

 そして夜が明ける。

 

 朝霧に包まれた高地。

 

 夜通しサイコデウスを監視していた兵たちの間に、やがてひとつの認識が広がっていく。

 

 ──これは戦いではない。

 

 ──こちらの「心」が試されているのだ。

 

 巨大な機体は微動だにせず、ただ太陽の光を浴び、神像のようにその場に立ち続けていた。

 

 その姿に、ある者は帽子を脱ぎ、ある者は床にへたりこみ、またある者は拳を握りしめた。

 

 沈黙の中で、彼らは悟る。

 

 この静けさこそが、最大の問いかけなのだと。

 

 そしてその答えは、戦意でも命令でもなく──己が魂に問いかけるものであることを。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

キリマンジャロ基地司令部・第2戦略状況室

 

 戦略状況室は異様な静けさに包まれていた。

 

 壁面に並んだモニターには、基地正面に立ち尽くす巨大な黒い影──サイコデウスガンダムの映像が、刻々と映し出されている。

 

「……日が落ちたぞ」

 

 副官のひとりが、呟くように言った。

 

 誰も返事をしない。

 

 幹部たちは皆、画面に釘付けになったままだった。

 

 戦闘態勢をとるわけでもなく、後退する気配もない。

 

 ただ、あの異形の巨人は、まるで“そこにいてくれるのを待っている”かのように、静かに佇んでいた。

 

「……威嚇じゃない。アレは……本気で“待って”やがる」

 

 言葉の主は、参謀の一人だった。

 

 額に浮いた汗を拭いながらも、声には不思議な怯えが滲んでいた。

 

「降伏兵を見送ったあと、すぐ引き上げても良かったはずだ。だが奴は戻らなかった……。あのまま、夜通し立ち尽くしている」

 

「見せつけてやがるんだ。俺たちが、何を選ぶか──“試してる”ってことをよ……!」

 

 別の士官が拳を叩きつけた。

 

 だが怒りは空回りし、誰の目にも、焦燥と恐怖が浮かんでいた。

 

 バスク・オムの名を神のように崇めていた者たちでさえ、今やその名を持ち出すことができない。

 

 バスクの意志とは、力とは、違う次元の何かが、あの沈黙の巨影から発されていた。

 

「“我々は攻撃しない”……その意思表示が、あの姿そのものだ」

 

 ドウェル大佐を批判していた戦術幕僚がぽつりと漏らす。

 

「しかも奴ら、“何もしないことで、こちらを揺さぶってきている”……!」

 

 それは認めざるを得ない事実だった。

 

 動かないこと、戦わないこと、それ自体が圧倒的な“圧”となって幹部たちの胸を抉ってくる。

 

「こんな戦い方……いや、“戦いですらない”」

 

 若い情報士官が震える声で吐いた。

 

「何なんだ、あれは……!」

 

 司令室に立ちこめる沈黙。

 

 そして、その沈黙の中にじわりと広がる“敗北”の気配。

 

 誰かが椅子に沈み込む音がした。

 

「……あの少年は、我々に……選ばせようとしている。『死ぬのか、生きるのか』じゃない……『何のために、生きるのか』を……」

 

 幕僚長のその一言に、誰も否定の声を上げなかった。

 

 基地内には、すでに半数以上の兵士がいない。

 

 残された者たちの心は、限界まで摩耗していた。

 

 そしてサイコデウスは、ただ“そこに”在り続ける。

 

 まるで、人類の良心を試す審判者であるかのように──。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 遠く、キリマンジャロの斜面をなぞるように、無数の人影が列を成していた。

 

 整列し、規律を保ち、ただ静かに歩を進めるその姿は、もはや敗残兵ではなかった。

 

 命令ではなく、自らの意思で投降し、武装を解き、再び“軍人”として誇りを取り戻そうとする者たちだった。

 

 そしてそのすべてを、あの男が導いたのだ。

 

「……3000を超える兵を、言葉ひとつで投降させたか」

 

 思わず口をついたアムロの言葉は、畏れと驚きに満ちていた。

 

 アウドムラ後方の指揮観測ブロック。

 

 その窓越しに、彼はただ一点、サイコデウスの姿を見据えていた。

 

 黒き巨神は、動かずに佇んでいた。

 

 それは威嚇でも威圧でもない。

 

 ただ、「ここに居る」という意思の顕現。

 

 そして、アイン・ムラサメはそこにいた。

 

 彼は降り立ち、自ら投降兵の前に立って言葉を贈った。

 

「あなた達の選択は、信念や命令よりも重い、命を捨てなかった選択です。おかえりなさい、我々は同じ、市民を守る連邦軍の軍人です」

 

 その言葉に、かつて敵として対峙していた兵たちが、涙を流し、敬礼を崩さなかった。

 

 その光景は、かつての“シャア・アズナブル”が、どれほどの言葉と思想をもってしても成し得なかったものだった。

 

「……あれが、人の心の光か……」

 

 アムロが静かに呟く。

 

 隣に立つキャスバル・レム・ダイクン──かつてのシャア・アズナブルは、視線を外さぬまま応じた。

 

「そうだ、アムロ。あれは光だ。私たちが、どれだけ力で訴えても得られなかったものだ。だが彼は、“恐れずに歩き続けることで”、それを見せたんだ」

 

 キャスバルの脳裏に、数週間前の光景がよみがえる。

 

 月面コロニー・グラナダへの落下阻止作戦。

 

 あの時、アインはたったひとりで、敵陣の前に佇み、敵へ“戦うことをやめろ”と声をあげた。

 

「あの時と比べても、桁が違う。……信じがたいが、自然に納得もできる。なぜなら……あれは、誰かの命令ではない。彼自身が“その姿”で語っているんだ。希望を」

 

 キャスバルの声には、かつてないほどの静けさと敬意が滲んでいた。

 

 アイン・ムラサメ。

 

 彼はニュータイプでもなければ、神でもない。

 

 ただ、未来を“知り”、その痛みを“抱え”、それでも“歩こう”とする人間だ。

 

「俺たちは、“戦う理由”を探し続けてきた。……だが彼は、“戦わない理由”を見つけた。それだけのことなのに、なぜ、あんなにも──」

 

 アムロの言葉は途中で途切れた。

 

 だが、そこにあったのは嫉妬ではない。

 

 ただ純粋な、尊敬と願い。

 

 この光景を、自分たちが何年かけても成せなかったという事実。

 

 それでも、彼に続いていく意志。

 

「……もう、俺たちが導く時代じゃないんだな」

 

 アムロの呟きに、キャスバルは頷いた。

 

「そうだ。あの少年が──導く番だ」

 

 ──遠く、黒き巨神は動かない。

 

 しかしその静寂が、何千という人間の心を動かしていた。

 

 そのただ中にいるのは、たったひとりの少年──アイン・ムラサメ。

 

 そして、キャスバルはもう一度、確信した。

 

「──これが、“人の心の光”だ」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ──三日が経っていた。

 

 地上の陽光は、今日も変わらずキリマンジャロの山肌を焼いていた。

 

 高地特有の澄んだ空気が痛いほどに肌を刺す。

 

 だが、その風景の中で、ただ一つだけ、異質な存在があった。

 

 サイコデウスガンダム。

 

 漆黒の巨躯は、沈黙のままに立ち続けていた。

 

「……まだ、動かない……」

 

 地下司令部の観測モニター前で、兵の一人が呟いた。

 

 誰にともなく漏れたその声に、誰もが頷けなかった。

 

 むしろ、喉の奥に引っかかるような違和感だけが残る。

 

 

 ──本当に中にいるのか?

 

 ──倒れてるんじゃないのか?

 

 

 そんな疑念が渦巻き始めたのは、根比べが始まってから二日目の夜だった。

 

 それでもサイコデウスは動かない。

 

 威嚇もせず、ただ佇み、待ち続けているように見える。

 

 その「意思のない静止」は、次第に人の心を蝕んでいった。

 

 

 食事はどうしてる?

 睡眠は?

 疲れて倒れているんじゃないのか?

 それとも、あれはもう無人機なのか?

 

 

 だが──

 

 三日目、午前十時過ぎ。

 

 ついに、サイコデウスの胸部外装が、ゆっくりと開いた。

 

「動いた……!」

 

 観測兵の声が一瞬、周囲を駆け抜けた。だが緊張はすぐに支配する。

 

 発砲するのではないか。

 

 強襲の兆候か。

 

 全員が息を飲む。

 

 しかし、現れたのは武装でも、火炎でもなかった。

 

 ひとりの人影──パイロットスーツの青年、アイン・ムラサメだった。

 

 彼はゆっくりとサイコデウスの胸部装甲上に立ち、その場から一歩も動かない。

 

 陽光がその姿を照らし、影を長く落とす。

 

 静寂。

 

 呼吸の音さえも聞こえそうな重さ。

 

「……見せつけてるのかよ……」

 

 ある兵が、吐き出すように言った。

 

 だが、その声には怒りよりも、混乱と、そして焦りがあった。

 

 ──あれは、本当に待っていたのか。

 

 三日三晩、飲まず食わずで、眠らずに。

 

 あの中で、ただ出てくる者を、信じて待っていたのか。

 

「バカ……なのか……それとも、化け物か……」

 

 声は震えていた。

 

 理解できなかったのだ。

 

 だが、否定もできなかった。

 

 昼、日が天頂に差し掛かる。

 

 アイン・ムラサメは、依然として動かない。

 

 姿勢を崩さず、誰にも背を向けず、ただ基地の方を見て立ち続けていた。

 

 地下司令部の空気は、重く、湿っていた。

 

 何人もの兵がモニターを凝視していたが、誰ひとり言葉を発しない。

 

 彼らの多くは、戦い続ける覚悟を決めていたはずだった。

 

 投降した者たちを「裏切り者」と呼んだ者もいた。

 

 だが──この光景は、そんな彼らの“言葉”を静かに、しかし確実に溶かしていく。

 

 怒鳴りもせず、叱責もせず、攻撃もせず。

 

 ただ、見つめ、待ち続ける。

 

 その姿勢が、「恥ずかしさ」を連れてくる。

 

 自分たちが意地だけで閉じこもっていることへの、無言の照射。

 

 それは、銃弾よりも痛い。

 

「……なんで、あんな顔で立っていられるんだよ……」

 

 ひとりが呟いた。

 

 だがそれは、心の奥からの叫びだった。

 

 サイコデウスが動いたのは、たった一度。

 

 だが、それだけでこの基地の空気は変わった。

 

 そして、もはや誰も、「奴は攻めてこない」と断言できなかった。

 

 ──今、この静寂は、全員への“問い”だった。

 

 

 「お前は、それでも軍人か?」

 

 「お前は、命を何のために使う?」

 

 

 アイン・ムラサメは、声をあげない。

 

 だがその“姿勢”こそが、最も雄弁な「言葉」だった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 陽は、静かに傾き始めていた。

 

 西空が橙に染まり、山影が長く大地に伸びる。

 

 冷気は鋭くなり、キリマンジャロ特有の乾いた風が吹きすさぶ。

 

 その風に、晒されていた。

 

 サイコデウスの胸──そこに佇む、たった一人の青年。

 

 アイン・ムラサメ。

 

 彼は微動だにしなかった。

 

 朝から何時間も、いや──三日三晩、サイコデウスの中で静かに、ただ「待ち続け」、そして今また、外装の上で“立ち続けて”いた。

 

 ──なのに。

 

「……俺たちは、何をしてるんだ……」

 

 地下の指揮区画。

 

 その隅に佇む若い整備兵が、誰にともなく呟く。

 

 その隣では、肩を組んで座り込んでいた古参兵が黙ったまま煙草を咥え、火をつけないままぽつんと眺めていた。

 

 暖かい。

 

 基地の内部は暖房が行き届き、缶詰のスープも支給されている。

 

 通路には毛布もある。ソーラー電源による照明も健在だ。

 

 だが──それらすべてが、今この瞬間、己の背中に刃を突き立てているようだった。

 

「……軍人だから、命令に従う。それは分かる……」

 

「でも……あいつは、“軍人”として立ってるか……?」

 

「いや、もう、そうじゃねぇ……」

 

 気温はすでに氷点を割っていた。

 

 雪が降り始めている。

 

 細かい霧雪が、風に乗ってサイコデウスへと舞い、ゆっくりとその巨体を白く染めていく。

 

 そして──その胸の上の一点にも。

 

 アインの肩、腕、頭……その上に、確かに“降り積もっていた”。

 

「……あのままじゃ、あいつ……本当に凍えるぞ……」

 

「死ぬぞ……あれはもう……」

 

 それがどうした。

 

 敵なのだ。

 

 投降せよと言いながら、無言で自軍を屈服させようとしている存在だ。

 

 戦わずして勝つための、心理戦だ。

 

 ──そう、言い聞かせた。

 

 けれども。

 

「なのに、なんでだ……なんで、こんなに胸が痛い……!」

 

 暖かい場所にいる自分たちが、あまりにも卑劣に思えてくる。

 

 誰も罵っていない。

 

 誰も攻めてこない。

 

 ただ、「待っている」。

 

 それだけのことが、ここまで「痛い」とは思わなかった。

 

 “戦場の倫理”ではない。

 

 これは最早、“人としての道徳”を試されているのだ。

 

「あいつのやってることは……馬鹿だ……正気じゃねぇ……でも……」

 

「俺は……ああいう奴の前で、胸を張れる軍人じゃねぇよ……!」

 

 怒鳴る者もいた。

 

 壁を殴る者もいた。

 

 自棄になって酒に逃げようとする者すらいた。

 

 だが、誰一人、笑ってなどいなかった。

 

 雪が積もるアインの姿が、脳裏から離れなかった。

 

 

 『あいつ……マジで、死ぬぞ……』

 

 

 ──それでいいのか?

 

 ──それが勝利か?

 

 

 その疑念は、もはや抗えぬ「痛み」として心に巣食っていた。

 

 そしてその痛みは、軍人という仮面の裏から、人間の良心という名の“声”を、静かに目覚めさせていたのだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 地下最深部、キリマンジャロ司令区画──。 

 

 中枢として築かれたその一室は、厚い装甲壁に守られ、核シェルターとしての機能すら備えていた。

 

 だが、今そこに居る男の表情に、かつての「支配者」としての余裕はなかった。

 

 ──バスク・オム。

 

 ティターンズの象徴であり、軍閥の源流。

 

 あらゆる反対派を武力で抑え、恐怖で統制してきた地球連邦軍最強の強硬派。

 

 だが、その手法が今、目の前で「崩されつつある」。

 

 「……くだらん」

 

 誰にでもなく呟いた。

 

 震えるような低音は怒りではない。“戸惑い”だった。

 

 モニターに映るのは、サイコデウスガンダムの胸の上、微動だにせず風雪に晒されるアイン・ムラサメの姿。

 

 その傍らには、雪を踏みしめて整然と列を成し、投降し、そして敬礼を返す兵たちの姿。

 

 

「言葉も、武器も使わず、何千人を従えたつもりか……貴様……!」

 

 バスクは、重厚な革手袋を握りしめた。

 

 指の節が鳴り、骨が軋む音が室内にわずかに響いた。

 

 だが、その手を振り上げることはなかった。

 

 ──命令すれば、殺せる。

 

 ──だが、今それをすれば「敗北」が確定する。

 

 暴発すれば、世界に“あの少年”の正義を証明してしまう。

 

 それだけは避けねばならなかった。

 

「……なぜだ……」

 

 吐き捨てるように唸る。

 

「なぜ、ジャミトフは……あんなガキに力を与えた……!」

 

 政治ではない、軍略でもない。

 

 バスクが見ていたのは“支配”の崩壊だった。

 

 組織を掌握するために築いてきた全ての手段が、「待つ」という姿勢により無効化されつつある。

 

 アイン・ムラサメは語らず、奪わず、ただ“立ち続けて”いる。

 

 ──それだけで、兵が、降る。

 

「違う……そんなものは軍ではない……! あれは──ただの“宗教”だ……!」

 

 言葉にしてなお、バスク自身の声が揺れていた。

 

 恐れていた。

 

 アイン・ムラサメが成しているのは、単なる投降の強要ではない。

 

 「人の心の根本」を照らし出し、そのうえで“選ばせて”いる。

 

 それに応じた者たちが、誰よりも“軍人らしい顔”をしているという事実に、バスクは耐えられなかった。

 

「感情など、幻だ。支配とは、理だ……!」

 

 そう叫んでみせるが、その声は、冷えた室内に吸い込まれて消えるだけだった。

 

 監視員が一人、言葉を選びながら呟いた。

 

 「……バスク大佐。残存兵は……ついに、300を切りました」 

 

 バスクは答えなかった。

 

 重い沈黙が落ちたまま、彼の背に──“敗北”の影が、忍び寄っていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 白雪が舞い散るキリマンジャロの尾根。沈黙のなか、ゆっくりと歩み出る一人の男──アイン・ムラサメ。

 

 その背に、巨大な機体サイコデウスガンダムが佇む。

 

 冷たい風に晒されながら、アインは無言でヘルメットを脱ぎ、小脇に抱えた。

 

 彼の前に並ぶ200余名の兵たちは、敬礼を崩さない。

 

 だが、その目には涙があった。

 

 掛けられた声は穏やかで、厳かで、全てを包み込むように降り注ぐ。

 

「おかえりなさい、皆さん。皆さんもまた私と同じ──市民を守る地球連邦軍の軍人です」

 

 兵たちの喉が鳴る。

 

 嗚咽が洩れる。涙が零れる。

 

 赦されたのだ。

 

 彼らの、弱さも、迷いも、過去さえも。

 

 ──その時だった。

 

 地鳴り。

 

 凍てついた地面を割るような重低音。

 

 雪煙の向こうから現れたのは、黒紫の巨神。

 

「っ……サイコガンダムMk-Ⅱ……!?」

 

 緊張が爆ぜた。

 

 機体は一息にサイコデウスへと飛びかかる。

 

 咄嗟に伏せる者、叫ぶ者、武器を探す者。中には、仲間の盾となって立つ兵もいた。

 

 ──このままでは壊滅する。

 

 その最前列で、アインは吼えた。

 

「っ、ガンダァァァアアアアアムッ!!!!」

 

 咆哮に応じ、サイコデウスが動いた。

 

 誰も乗っていないはずの機体が、青白く光を放ちながらサイコガンダムMk-Ⅱを受け止める。

 

 ──サイコフレーム。

 

 ──インテンション・オートマチック・システム。

 

 すべてが、アインの想いと共鳴したのだ。

 

 放たれるメガ粒子砲。

 

 だがサイコデウスは退かない。

 

 蒼白の光が、その身を包み──ビームを弾いた。

 

「効いてない……!?」と叫ぶ兵士の目が見開かれる。

 

 それは、装甲でもバリアでもない。

 

 人の想いが、サイコフィールドとなって敵意を拒絶していた。

 

 そのまま、サイコデウスは拳を振るう。

 

 ──吹き飛ぶ紫苑の巨体。

 

 サイコガンダムMk-Ⅱが、雪原を抉って倒れ伏した。

 

 その隙を突いて、一機のシャトルが打ち上がる。

 

「逃げるぞ、バスクが……!」

 

 その叫びとほぼ同時に、蒼い閃光が天を裂いた。

 

 ──《TR-6 ウーンドウォート・フルアーマークインリィ》。

 

「アインを殺すなぁあああああああああああ!!!!」

 

 咆哮はスピーカー越しに怒号となって響く。

 

 ドゥー・ムラサメ。

 

 彼女は全力でサイコガンダムMk-Ⅱに体当たりし、その巨体を強引に押し退けた。

 

「誰にも! アインには! 指一本、触れさせるもんかああああああ!!!!」

 

 巨体と巨体がぶつかり、再び地が鳴る。

 

 その中で、アインは振り返らず、投降兵を見据えていた。

 

 凍てつく風に、金髪が揺れる。

 

 神か、悪魔か。

 

 いや、そのどちらでもない。

 

 彼はただの人間だ。

 

 だが人の祈りと痛み、覚悟をその身に刻みながら──サイコデウスガンダムと共に、立っていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 白煙を上げて逃げゆくシャトルを、兵たちは見送った。

 

 それは、バスク・オムがこの地を、部下を、そして“正義”すらも放棄して逃げた瞬間だった。

 

「もう……いいだろう」

 

 誰かが呟いた。

 

 戦う意味は、もはやなかった。

 

 守るべき指揮官は逃げ去り、信じた大義は瓦解した。

 

 残されたのは、吹きすさぶ風と、戦火を越えてなお立ち続ける一機の白い巨影──サイコデウスガンダム。

 

 そしてその近傍、戦神のごとき猛威で敵を屠り続ける《フルアーマー・クインリィ》。

 

 その機体が、ついにサイコガンダムMk-Ⅱを被害の及ばぬ谷間へと叩き込んだ。

 

「おりゃあああああッ!!」

 

 怒りの咆哮と共に、巨大な拳が振り下ろされる。

 

 鉄の脚をへし折り、装甲を引き裂き、剥き出しとなった腕を強引に引き千切る。

 

 サイコガンダムMk-Ⅱは、まるで生き物のように藻掻いた。

 

 胸部が閃光を放ちかけた。

 

 ──胸部拡散メガ粒子砲。

 

 その光を許す前に、フルアーマークインリィの右拳が叩き込まれる。

 

 内部から砕ける音がした。メガ粒子砲の閃光は、不発のまま消えた。

 

「やめてよ……なんで……ッ!」

 

 ドゥーは叫ぶ。

 

 誰が攻撃した? 誰がこの手を挙げた?

 

 こっちは、ただ命を守るために……!

 

 ──なら、頭ごと潰してやる。

 

 コックピットのある頭部ユニットを引き抜き、巨大な手のひらで握り潰そうとしたその時。

 

『……ドゥー』

 

 静かな、けれど確かに深い声が、サイコミュを通じて響いた。

 

 アインの声だった。

 

 クインリィの動きが、止まる。

 

 その名を呼ばれた一言だけで、鬼神は静まり返った。

 

 しばらくの静寂の後、ドゥーは引き抜いた頭部ユニットを、そっと地面へと下ろした。

 

 あれほどの怒りをぶつけた彼女が、何も言わずに。

 

 やがて、フルアーマークインリィは静かに旋回し、サイコデウスの下へと歩み寄った。

 

 ハッチが開き、ゆっくりとコックピットから降りてくるドゥー。

 

 無言のまま、アインの元へ駆け寄ると、勢いよくその身体を抱きしめた。

 

「……アイン……アイン……よかった……ほんとに、よかったぁ……!」

 

 彼女は泣いていた。

 

 声を上げて、子供のように嗚咽していた。

 

 無事だったという安堵。

 

 失うことへの恐怖。

 

 何もしなかった自分たちに牙を剥いた敵への、どうしようもない悔しさ。

 

 それらがすべて絡まり合い、涙に、叫びに、震えとなって、ドゥーの細い肩を揺らしていた。

 

 アインは、優しくその背に手を添える。

 

「ありがとう、ドゥー……来てくれて、守ってくれて」

 

 小さく囁くその声は、まるで壊れかけた魂に注がれる、救いの祈りのようだった。

 

 吹雪の中で、二人の影は寄り添う。

 

 ──そしてまた、静寂が大地を包み込む。

 

 

 

 

 

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