ムラサメさん家のイチバン=サン   作:星乃 望夢

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第72話 守られたいって思ってしまうじゃない……!

 

 窓の外、朝陽がダカール港を金色に染めていた。

 

 ミネバ・ラオ・ザビは、カップに残った紅茶を見つめていた。

 

 対するアイン・ムラサメもまた、静かに椅子に腰を落ち着けている。

 

 朝食は済んでいた。だが、ミネバはそのまま席を立たなかった。

 

 やがて少女は小さく息をつき、窓の向こうへと目をやったまま問いかけた。

 

「アイン……」

 

「はい、ミネバ様」

 

「父のことを──ドズル・ザビのことを、知っているの?」

 

 アインは視線を下げ、黙って紅茶を口にした。

 

 そして、穏やかな声で答えた。

 

「……記録としてではありません。ですが、そうですね。、”刻”を視た、という事にでもしてください。あの方の魂が、何を残し、何を守ろうとしていたか──その欠片を、見た記憶です」

 

 ミネバがゆっくりと彼を見つめる。

 

 アインは静かに頷いた。

 

「ドズル閣下は、“武人”でした。言葉を連ね、思ったことはそのまま口にする。兵を率い、命を背負い、戦場では常に自ら先頭に立つ──まさに、軍人そのものでした」

 

 「でも……」とアインは続ける。

 

「愛する女性に想いを伝えるときだけは、極端に不器用な方でもありました」

 

 ミネバは一瞬だけ、瞳を見開いた。

 

「学生時代、あなたの母君が軍学校の士官課程に在籍していた頃の話です。当時、校長を務めていたドズル閣下は、ある日、彼女にこう告げました」

 

 『ドズル・ザビの子を産んではくれまいか』

 

 アインの声は、どこまでも静かだった。

 

 だが、それは明確な重みを帯びて、ミネバの胸に届いた。

 

「……」

 

「そのいきなり過ぎた真っ直ぐすぎる言葉に、あなたの母君は驚愕したそうです。でも、ドズル閣下の誠実さは──誰よりも伝わっていた」

 

 少女は小さく笑みを零した。

 

「そう……父らしいわ」

 

 アインもまた、わずかに目を細めた。

 

「ドズル閣下は、ガルマ閣下を深く愛していました。弟としてだけではありません。彼が成長すれば、自分をも越える将になりうる──そう、強く信じておられたのです」

 

「……」

 

「そして……」

 

 アインは少しだけ言葉を探し、しかしやがて、過去を語る者のように言葉を紡いだ。

 

「アイランド・イフィッシュ。あのコロニーが、地球への落下作戦に転用される前……毒ガスによって住民を一掃するという“前処理”が行われました」

 

「……!」

 

「その時──ドズル閣下は、母君の前で大声で泣いたのです」

 

 アインは静かに視線を上げ、ミネバの瞳を見据える。

 

 『俺は──何人もの“ミネバ”を殺した……!』

 

「そう叫び、泣き崩れたそうです。誰にも見せたことのない、心の底からの慟哭を、愛する者の前だけで……」

 

 ミネバはもう何も言わなかった。

 

 ただ、胸の前でそっと手を組んだまま、動かずにいた。

 

「ソロモン陥落の時……閣下は、あなたと母君を脱出艇に乗せる際、こう言いました」

 

 『俺は軍人だ。ザビ家の伝統を継ぐ軍人だ。死にはせん。行け、ゼナ……ミネバと共に!』

 

「それは、軍人としての最後の気概であり、父としての祈りだったと思います」

 

 アインはそこで、ゆっくりと瞳を伏せた。

 

「ジオン・ズム・ダイクンの理想も、ザビ家の政権も、やがては戦争犯罪として語られました。コロニー落とし、毒ガス、民間人虐殺──それがジオンの歴史の“結果”です」

 

 「……でも」とアインは、静かに言った。

 

「僕にとってのドズル閣下は──その中に残された、数少ない“良心”だと、そう思います。父として、軍人として、そして一人の男として。──あんな格好いい人の下で、僕は働いてみたかった」

 

 沈黙。

 

 ラウンジには、朝の陽射しが斜めに差し込んでいた。

 

 やがて、ミネバがぽつりと漏らした。

 

「ありがとう、アイン……。今、初めて父を“知った”気がするわ」

 

 少女の頬を伝うものは、涙ではなかった。

 

 だがその眼差しは、どこまでも透き通っていた。

 

 その表情を見て、アインは心の底から確信した。

 

 ──この少女は、きっと“父を継ぐ者”になれる。

 

 ザビ家の血ではなく、想いを継ぐ者として。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 アイン・ムラサメが静かに部屋を辞したあと。

 

 残されたミネバは、ただその椅子に座り、動けずにいた。

 

 窓の外の陽光は、なお優しく床を照らしている。

 

 だが、彼女の視線はもう景色には向いていなかった。

 

 ──父のことを、初めて「知った」。

 

 彼が不器用に愛を語り、弟を信じ、民を想って泣いたこと。

 

 それは記録でも神話でもない、アイン・ムラサメの“記憶”として語られた、確かな証言だった。

 

 それだけで、胸がいっぱいになった。

 

 “父は──本当に、わたしを、母を、守ろうとしたんだ”

 

 そして、それを伝えてくれたのが他でもない、あのアインだった。

 

 ミネバは無意識に、自らの胸元に手を当てた。

 

 あの言葉を聞いてから、心のどこかが、ずっと温かいままだった。

 

 ──何を求めているのだろう、私は。

 

 父のように、厳しくも優しく、守ってくれる存在?

 

 記憶のなかに残る、もう一人の少年──バナージ・リンクスのように、真っ直ぐで、涙も流せる人?

 

 でも、違う。

 

 アインは──アイン・ムラサメ。

 

 バナージじゃない。

 

 あの少年のような迷いや揺らぎの代わりに、アインには、言葉にできない“覚悟”がある。

 

 沈黙のなかに潜む鋼。

 

 優しさと共にある、抗えない“責任”の匂い。

 

 彼は誰よりも優しく、誰よりもこの宇宙の苦しみを知っている。

 

 その姿を見ていたから──。

 

 “私、この人の力になりたいと思ったんだ”

 

 それは尊敬でも、憧れでもない。

 

 もっと、根源的な感情だった。

 

 言葉にできない。

 

 けれど、確かに、温かい。

 

「……これが、恋じゃなかったとしても」

 

 ミネバは、誰にも聞かれないように囁いた。

 

「──この気持ちは、きっと“未来を信じたい”って気持ちなんだと思う」

 

 彼が信じるものを、私も信じてみたい。

 

 彼が見ようとする未来に、私も立っていたい。

 

 たとえそこに“愛”という言葉が無くても、ただ傍にいて、支えたいと思う。

 

 それが、今のわたしが抱いている、唯一にして確かな想いだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 扉が、音もなく開いた。

 

 ミネバ・ラオ・ザビは、すぐには振り返らなかった。

 

 気配で、誰かが入ってきたことは分かっていた。

 

 だが、それが“誰”であるかを、確認するまでもなかった。

 

 紅茶の香りは、もう微かになっている。

 

 その静寂のなかに、優しい声が降りてきた。

 

「……ご気分はいかがですか、ミネバ様」

 

 少女はゆっくりと振り向き、そして微笑んだ。

 

 それは、ごく小さな、けれど確かな微笑だった。

 

「……もう“様”はやめてくれないかしら」

 

 アインは少しだけ目を見開いた。

 

「……失礼を」

 

「違うの。そうじゃないの」

 

 ミネバは首を横に振った。

 

 ほんの少しだけ、唇が震えている。

 

「私は、あなたに“誰かの娘”として話していたわけじゃない……“ミネバ”として、ただの私として、あの話を聞いていたの」

 

 アインは黙って耳を傾けていた。

 

 ミネバは目を伏せ、椅子の背もたれに背を預けた。

 

 背筋を伸ばしたまま、少しだけ大人びた仕草で、続けた。

 

「あなたの言葉で、私は“父”を知った……記録じゃなく、英雄譚でもなく、政治的価値でもない、“父という一人の人間”を」

 

 アインは、静かにうなずいた。

 

「……光栄です。僕の言葉が、何かを届けられたのなら」

 

「違うのよ。あなたが……“アイン・ムラサメ”が語ったから、私は信じることができたの」

 

 その言葉には、感謝とも違う、どこか祈りのような響きがあった。

 

 沈黙が一度、ふたりの間に降りる。

 

 けれど、その静寂はどこまでも穏やかで、心を休める音のない揺りかごのようでもあった。

 

 やがてミネバが、まっすぐ彼を見つめて問う。

 

「ねえ……アイン。あなたは、なぜそんなに静かでいられるの?」

 

 問いは唐突に見えたが、彼女にとっては必然だった。

 

「世界がこれだけ叫んでいても、裏切りが絶えなくても……あなたは、どうして怒らず、絶望もせず、そこに“静けさ”を持って立てるの?」

 

 アインはその言葉に、すぐには答えなかった。

 

 ただ、しばらくの間、窓の外の朝の海を眺めていた。

 

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

 

「……答えになるか分かりませんが」

 

「うん」

 

 少女の問いは、まるで風に紛れる吐息のように、優しく、けれど確かな重さで投げかけられた。

 

 アイン・ムラサメはしばらく沈黙し──そして、柔らかな笑みを浮かべて、こう答えた。

 

「だって……疲れちゃうじゃないですか、怒るのって」

 

 ミネバは、一瞬だけ目を瞬かせた。

 

 思わず口元に笑みが浮かびかける──だが、アインの声は静かなまま、そこからが本題だった。

 

「確かに、怒りは原動力になります。僕だって人間ですから、腹が立つこともあります。理不尽に耐えがたいこともある」

 

「……うん」

 

「でも──その怒りの先にあるのは、何だと思いますか?」

 

 アインは紅茶のカップを手に取りながら、穏やかに続けた。

 

「抑えきれない怒りは、やがて暴力になります。そして暴力は、誰かを傷つける。傷つけられた人の心には怨恨が生まれて……憎しみが憎しみを呼び、やがては連鎖となって、もう止まることすらできなくなる」

 

 窓の外の陽光が、ふたりの影を長く落としていた。

 

「だから……僕は怒りを呑み込むんです。誰かがその連鎖を断ち切らなければいけないのなら──僕が、憎しみを生む怒りを受け止めて、自分の中で“仕方がない”って納得させるしかない」

 

 ミネバは、息を詰めていた。

 

 彼の語る“理性”が、ただの抑圧ではなく、「自らの意思による選択」だと理解できたからだ。

 

 アインはそっと目を細めた。

 

「──でも、僕にも一線はありますよ」

 

「一線……?」

 

「はい。たとえば……ミネバ、あなたを傷つける者がいたとしたら──僕は怒りを呑み込みません」

 

 その一言は、彼の普段の冷静さからは想像できないほど、真っ直ぐで、強く、温かかった。

 

「大切な誰かが傷つけられた時の怒りは、ただの感情じゃない。それは“義憤”です。守るべきものに手を伸ばされた時にだけ許される、正しい怒りなんです」

 

 ミネバの胸に、何かが柔らかく触れた。

 

 まるで、自分の存在そのものが“守る価値があるもの”として肯定されたような感覚だった。

 

「だから、僕は普段、怒らないでいられるんです。怒りの定義を間違えなければ、感情に振り回される必要はない。──怒るべき時にだけ、怒ればいい」

 

 そう語るアインの眼差しは、曇りなく澄んでいた。

 

 ミネバはその眼差しに、自分の心が揺れているのを感じた。

 

 思わず唇を噛みしめる。

 

 そして、ぽつりと零す。

 

「……ずるい人ね、あなたは」

 

 アインは静かに微笑んだ。

 

「そうですか?」

 

「ええ……だってそんなふうに言われたら──」

 

 彼女は立ち上がり、彼の前まで歩み寄る。

 

「守られたいって思ってしまうじゃない……!」

 

 そう呟いた少女の言葉に、アイン・ムラサメはほんの少しだけ目を細めた。

 

 そして──静かに椅子を立ち、ミネバの前に膝をつく。

 

「良いんですよ、それで」

 

 その声は、まるで木漏れ日のように柔らかだった。

 

「だって、あなたはまだ八歳なんですから」

 

 驚いたようにミネバが彼を見る。その小さな手に触れるようにして、アインはゆっくりと両腕を差し出す。

 

 そして──

 

 ふわり、と。

 

 少女の体が、軽やかにアインの腕に抱き上げられた。

 

 驚きに身を固くするミネバ。

 

 しかし、彼の腕の中には一切の乱暴も、下心もない。

 

 ただ、温かさと安心感だけがそこにあった。

 

「ラプラスの箱を開けた“ミネバ・ザビ殿下”じゃなくていいんです」

 

 アインは彼女の額に視線を落とし、微笑んだ。

 

「今、僕の目の前にいるのは──ただの、ミネバです」

 

 ミネバの胸の奥で、何かが優しく解けた。

 

 それは彼女自身も気づかぬうちに張り詰めていた「殿下」としての自意識。

 

 それが、アインの言葉によってふわりと空へ解き放たれていく。

 

「知っていますか?」

 

 アインは、ミネバを抱いたまま、静かに語りかける。

 

「僕の故郷──日本では、二十歳で成人とされます。大人として、自分の意思で人生を決めることができる年齢です」

 

 ミネバの瞳が、そっと揺れる。

 

「そして……女性なら十六歳で、結婚という人生の選択肢を持てる」

 

 小さな肩がぴくりと動いた。

 

 けれど、アインの声はあくまで淡々としていて、決して意図を匂わせるような調子ではなかった。

 

「つまりは、“その歳になれば、自分の未来に責任を持つ”ということなんです」

 

 ミネバは黙って聞いていた。

 

 彼の腕の中は、不思議なくらい落ち着く。

 

 まるでドズルが、かつて母を守ったその腕の記憶が重なるように。

 

「おそらく──ドズル閣下を知る者は、僕以上にはもう居ないと勝手に思っています」

 

 その声に、ミネバは微かに目を伏せた。

 

「だから……」

 

 アインは彼女をしっかりと見つめる。

 

「あなたが大人になるまで。ミネバが、自分で未来を選べるようになるその時まで──僕が閣下の代わりに、あなたを守ります」

 

「……っ」

 

「そして、大人になったら──その時にまた、一緒に考えましょう。あなた自身の意志で、これからを選ぶ。そのときに、僕も傍にいて力になります」

 

 ミネバの喉が震えた。

 

 泣きそうになるわけじゃない。むしろ、逆だ。

 

 心の奥底にまで沁みるほどの“安心”と、“信頼”を感じたのだ。

 

 それは、彼女がこれまで得られなかった、初めての──

 

「……ありがとう、アイン」

 

 小さく、小さく呟いて、ミネバはそっと目を閉じた。

 

 もう、“殿下”ではなく、一人の少女として。

 

 そして彼の腕の中にいる今だけは、ただ“守られる側”でいられることを、初めて許したのだった。

 

 部屋は朝の光に包まれていた。

 

 窓の外には、低く雲が垂れ込め、南大陸の霞む地平線が見える。

 

 静かな時間──それは束の間の休息であり、そして“覚悟”を促す瞬間でもあった。

 

 その小さな身体は、わずかに震えているようにも思えたが──それでも、彼女は顔を上げた。

 

「……アイン」

 

「はい、ミネバ」

 

 呼びかけに応じる彼の声は、いつもと変わらず穏やかで、優しかった。

 

 ミネバは少し迷いながら、しかし視線を逸らすことなく言った。

 

「わたし……言わないと、だめだと思うの」

 

「──はい」

 

 アインは頷き、続きを待った。

 

 ミネバは胸元に置いた小さな手をきゅっと握りしめた。

 

「アクシズのこと、いま、危ないの。中が、ぐちゃぐちゃで……」

 

 小さな唇が、ほんの僅かに噛まれた。

 

「だから……、わたし、“逃げてきた”んだと思う。アクシズから」

 

「……」

 

「怖くて、分からなくて……でも、ここに来たら、アインがいた」

 

 その言葉に、アインは静かに目を伏せた。

 

 それは喜びではない。

 

 ただ、彼女がそうしてここに辿り着いたという“重さ”を、受け止めたのだ。

 

 ミネバは、さらに言葉を紡いだ。

 

「だから──ちゃんと、自分で言いたいの。アクシズが危ないってこと。逃げてきたってこと。……助けてって、アインに言ったってことを、大人のみんなに、ちゃんと話したい」

 

 アインの手が、そっとミネバの背に添えられる。

 

 その腕は、強くもなく、優しくもなく──ただ、確かだった。

 

「……それは、“亡命表明”ということになりますね」

 

 ミネバはこくりと頷いた。

 

 アインは、穏やかな声で問い返した。

 

「一人でやれますか?」

 

 その言葉に、ミネバの小さな体がぴくりと固まった。

 

 息を呑み、ほんの僅かに不安の色を浮かべた彼女だったが──すぐに、そっとアインの胸に額を寄せると、囁いた。

 

「……アインが見てくれるなら。傍にいてくれるなら、大丈夫」

 

 その言葉は、八歳の少女が持てる精一杯の“勇気”だった。

 

 アイン・ムラサメは、その想いを受け止め、確かに感じ取った。

 

 ──ならば、全力で守る。

 

 静かに、腹を括る音が、心の中に響いた。

 

「……分かりました。では準備しましょう」

 

 アインは、そっとミネバを抱きかかえ直した。

 

 その動作には、軍人としての冷静さも、政治家としての打算もなかった。

 

 ただ──一人の人間として、彼女の“想い”を守るという覚悟だけがあった。

 

 この時、二人の間に交わされたのは、約束ではない。

 

 信頼でも、命令でもない。

 

 それは──“信じる”という行為そのものだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 地球連邦政府と各地代表が集う議会に、ある“緊急動議”が提出された。

 

 その発議者の名は、地球連邦軍大将・アイン・ムラサメ。

 

 年若き戦略官僚にして、戦後最大の改革推進者である。

 

 正直、議員はまたかと、今度は何をしてこちらの疲労を困憊させるのかと思う保守派も多く居た。

 

 だが、その日はいつもとはワケが違った。

 

 その壇上に、今──彼は少女の手を取り、共に立っていた。

 

 静まり返る議場。

 

 無数の視線がその姿に注がれる。

 

 ──彼女は、確かにそこにいた。

 

 深緑の礼装、胸元にはザビ家の紋章。

 

 そして、両肩にかかる真紅のマントは、血筋の証でもあり、誇りの象徴でもあった。

 

 だがその眼差しに宿るものは、威厳ではない。

 

 ──覚悟だった。

 

「ご紹介します」

 

 アインが低く、落ち着いた声で口を開く。

 

「彼女はミネバ・ラオ・ザビ殿下。旧ジオン公国の後継者であり、アクシズの象徴であり──そして、ただの八歳の少女です」

 

 騒然とする場内。

 

 だがミネバは、怯えず、俯かず。

 

 自ら一歩、前に出た。

 

 議場の空気が凍りつく。

 

「……私は、ザビ家の血を引く者として、皆さんにお話ししたいことがあります」

 

 その声は澄んでいて、迷いはなかった。

 

「アクシズは今、軍の一部が暴走しつつあります。私の名前を使い、戦争の火種になりかねない行動を取ろうとする動きがあるのです」

 

 少女の表情に、ほんのわずか影が射す。

 

「……私は、それが怖かった。争いを望んでなどいません。だから、私はアクシズを離れました。……逃げてきました」

 

 言葉にざわつく議員たち。

 

 だが、その小さな背中を見て、誰も嘲ることはできなかった。

 

 マントの下で震える指を、彼女は強く握り締めた。

 

「私は、アイン・ムラサメという人に出会いました。彼は、私に“未来を信じる勇気”を教えてくれました。だから、お願いです──助けてください。アクシズが、戦火に飲まれないように」

 

 ──それは、ザビ家の血筋ではなく、“一人の少女”としての叫びだった。

 

 そしてその傍らに立つアイン・ムラサメが、静かに進み出る。

 

「地球連邦軍大将として、ここに宣言します」

 

 アインの言葉が、議場に響く。

 

「ミネバ・ラオ・ザビ殿下の亡命を、正式に受け入れます。そして、彼女の身柄保護・政治的安全・教育機会を含めた未来への伴走を、私が後見人として責任を持って担います」

 

 緊張が最高潮に達する。

 

 だがアインの視線は揺るがず、むしろ静けさのなかに意志を込めた。

 

「彼女が抱いた勇気は、血ではなく意志によって証明されました。諸君──ザビ家という過去ではなく、“未来を選ぶ少女”に手を差し伸べていただけないか」

 

 静寂。

 

 数秒の沈黙ののち、議長席でゴップが重々しく立ち上がる。

 

「……動議は緊急性を認め、審議を経ず即日承認とする。ミネバ・ラオ・ザビ殿下の保護と後見は、アイン・ムラサメ大将の責任の下で履行されるものとする」

 

 ──その一言が、未来のページをめくった。

 

 拍手はなかった。

 

 だが誰もが見ていた。

 

 その少女の背に翻る紅のマントが、もはや“象徴”ではなく、“覚悟”の証へと変わった瞬間を。

 

 それは宇宙世紀において、たった一人の少女が「戦火から逃げてきた」と正直に語った日であり──。

 

 そして、それを抱き止めた青年が、「その手を離さない」と世界に誓った日でもあった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 詰めかけた各メディアの記者たちがざわつく中、壇上へと姿を現したのは──黒い軍服に身を包んだ青年将校と、深緑の礼服に紅いマントを羽織った金髪の少女だった。

 

 アイン・ムラサメ。

 

 そして、ミネバ・ラオ・ザビ。

 

 少女の小さな手を引きながら壇に立ったアインは、軽く一礼し、まず静かに口を開いた。

 

「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」

 

 瞬間、フラッシュの光が数度弾ける。

 

 アインの眉が僅かに動いた。

 

「まず最初にお願いがあります。彼女──ミネバ殿下に対するフラッシュ撮影は、年齢的・精神的負担を考慮し、お控えいただきますよう、強くお願い申し上げます」

 

 きっぱりとした声音に、記者席のシャッター音が止まる。

 

 ざわめきも静まり返った。

 

 その静寂の中で、ミネバは、少しだけアインの袖を引いた。

 

 アインはうなずき、マイクを少女へ向けて少しだけ傾ける。

 

 ──だがミネバは、首を振った。

 

 そして、彼の隣に立ったまま、まっすぐに前を見据えた。

 

 口を開いたのは、再びアインだった。

 

「本日、地球連邦議会にて、正式な議案として──ミネバ・ラオ・ザビ殿下の亡命を受理いたしました」

 

 場内が一瞬どよめく。

 

「皆様ご承知の通り、彼女は旧ジオン公国の名門ザビ家の血を引く存在です。しかし今、彼女はその血を“武器”にはしておりません」

 

 アインは続ける。

 

 声は冷静だが、芯がある。

 

「彼女は自らの意思でアクシズを離れ、地球連邦の保護を求めてきました。理由は明確です。彼女の名を利用し、戦争の火種にしようとする勢力から、自らを、民を守るためです。私は地球連邦軍大将として、彼女の亡命を受け入れ、後見人としてその命と未来を守ることをここに再度宣言いたします」

 

 彼の横で、ミネバはまっすぐ前を向いていた。

 

 表情には怯えも不安もなかった。

 

 ただ、一人の人間として、自分の言葉を持とうとする静かな気迫がそこにあった。

 

 その姿に、記者たちは次第にカメラを下ろし、ペンを握る手を止める者もいた。

 

 アインが続ける。

 

「なお、本件に関しては軍および議会による正式な承認を得ており、いかなる政治的取引も存在しないことを明言しておきます。彼女の命と尊厳は、この場にいる私が最後まで守ります」

 

 それは明確な“宣誓”だった。

 

 質問の手が、少しだけ挙がる。

 

「ミネバ殿下は、この後も地球圏に留まられるおつもりですか?」

 

 代わりにアインが答える。

 

「はい。今後は連邦軍の庇護のもと、心身の回復と教育を重視し、地球圏での生活を続けていただきます。政治活動については、年齢に見合う範囲で関わるにとどめ、強要することは一切ありません」

 

「ご本人からの発言は――?」

 

 アインは、そっと横を向いた。

 

 ミネバが小さく頷く。

 

 彼女はマイクの前に一歩出て、ゆっくりと声を発した。

 

「……皆さん、私は、怖かったんです」

 

 その声は震えていなかった。

 

「誰も、止めてくれなかった。誰も、“私の気持ち”を聞いてくれなかった。でも、アインが……アイン様が、聞いてくれたんです」

 

 そして微笑んだ。

 

「私は、戦争を止めたい。アクシズも、ジオンも、もう戦いの言葉だけじゃ、守れないと思います。だから、助けてください。皆さんの力で……戦わなくても済む世界にしてください」

 

 その言葉は、小さくても力強かった。

 

 記者席に、沈黙が落ちた。

 

 誰も声を発せず、ペンの音すら止まった。

 

 アインは最後に、ただ一言だけ、こう結んだ。

 

「──これが、ザビ家の血を引く者が語った“願い”です。皆様、どうか正しく伝えてください」

 

 深く、礼をした。

 

 その隣で、ミネバも同じように頭を下げる。

 

 そして二人は、沈黙の中、ゆっくりと壇を降りた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

サイド3外縁宙域・巡洋艦エンドラ艦橋

 

 硬質な艦橋モニターの中央には、ダカールで行われている緊急記者会見のライブ映像。

 

 地球連邦軍大将アイン・ムラサメと、その隣で堂々と立つ──緑の正装に赤いマントを纏った少女、ミネバ・ラオ・ザビの姿。

 

 彼女の小さな手が震えていることに、気づく者はほとんどいなかった。

 

 しかし、画面越しのその震えを、目を細めて見つめる者が一人だけいた。

 

 ハマーン・カーン。

 

 艦橋最上段、指揮官席から一歩も動かずに、彼女は映像を見守っていた。

 

「……そうか。そう来たか、アイン・ムラサメ」

 

 感情の波を悟らせまいとするように、彼女の声は低く、静かだった。

 

 けれど、その指先は膝の上でしっかりと握りしめられていた。

 

 ブリッジ要員たちは皆、言葉を差し挟まない。

 

 誰もがこの瞬間が、何かを変えてしまうことを感じ取っていた。

 

 ミネバの演説は、力強く、誠実だった。

 

 その言葉一つひとつが、亡命者としての覚悟を物語っていた。

 

 やがて演説が終わり、アインが彼女を包むようにして後見人を宣言する。

 

 その所作に、ハマーンは小さく、目を閉じた。

 

 ──これで良かったのだ。

 

 あの子を政争の道具にしてはならない。

 

 自分の手で守りきれないと知ったときから、覚悟していた。

 

 そして、もし誰かに託すなら──。

 

「……やはり、あなたしかいなかった」

 

 彼女は静かに呟いた。

 

 アイン・ムラサメ。

 

 あの青年に対して、初めて出会ったときから、どこか理屈ではないものを感じていた。

 

 支配でも対立でもない、どれを取っても、ハマーンが見た中で最も「未来を引き受ける者」としての資質を持っていた。

 

 “あの子は、守られている”

 

 “もう、私が血を流さなくてもいい場所にいる”

 

 その確信が、彼女の胸に静かに満ちていく。

 

「……グレミーよ」

 

 彼女は、スクリーンを見ながら低く呟いた。

 

 「ギレンの意志」だの「ジオンの純血」だのと叫びながら、ザビ家の血筋を利用し、暴力で国を奪った男。

 

「貴様に見せるためにも……私は“敗者”であってはならんのだ」

 

 アインとミネバの姿に、心を救われたのではない。

 

 その選択を“信じきった”己の誇りを、証明するためにこそ──。

 

「進路維持。哨戒ラインをサイド3寄りに再設定。……アクシズからの通信監視は継続」

 

 的確な指示が艦内に響く。

 

 その声に迷いはない。

 

 だが、かつての冷徹な響きとは異なる。

 

 それは、“誰かを想う者”の声だった。

 

 ハマーン・カーン。

 

 彼女もまた、自らの意志で「ザビ家の器」を手放した。

 

 そしていま、彼女は“同志の背中”を見つめながら、次なる道へと踏み出す。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 スードリ艦内監察軍政官庁執務室

 

 天井の照明は切られ、窓から差し込む自然光だけが室内を淡く照らしていた。

 

 会見を終えたばかりのミネバ・ラオ・ザビは、深い安堵と、それ以上の疲労に押し潰されそうになりながら──アインの腕の中で、ようやく呼吸を緩めていた。

 

 正装の緑のドレス。深紅のマント。

 

 あれほど凛と立ち、堂々たる亡命者として振る舞った少女は、今はアインの胸元にそっと顔を伏せ、静かに息を整えていた。

 

「……アイン」

 

 かすれた声。

 

 瞼を半ば伏せたまま、彼女は囁くように言った。

 

「父を、慕ってくれてた人たちが……私のところに来たら、どうしよう……。私、うまく……できない……」

 

 それは自責でも懺悔でもない。

 

 ただの、8歳の少女としての震えだった。

 

 ザビの名を背負う以前の、ミネバという“子ども”が、ようやく自分の弱さを吐き出せる場所を見つけたのだ。

 

 アインは、彼女の背に片腕をまわし、そっとその体温を受け止める。

 

「その時はですね……」

 

 彼は小さく微笑みながら、冗談のように──けれど決して茶化さずに、優しく言った。

 

「『そんなこと知るか、バーカ!』って言ってやればいいんです」

 

 ミネバの身体が、ぴくりと震える。

 

「あなたは、ドズル閣下の娘である前に……ミネバという、ひとりの女の子なんですから」

 

 静かに、けれど確かにその言葉が響いた瞬間、ミネバの中で何かがほどけた。

 

 “いいの? ザビ家の代表じゃなくて、私でいいの?”

 

 いつからか、誰にも言われたことのなかったその許しを──彼は、当たり前のように口にしてくれた。

 

 気づけばミネバは、アインの服の袖を小さくつまんでいた。

 

「……怒らないんだね、アインは」

 

「え?」

 

「皆、私に“ちゃんとしなさい”って言うの。ハマーンも、取り巻きの大人たちも……誰も“子どもなんだから”って、言ってくれなかった……」

 

 アインはそっと、彼女の髪を撫でた。

 

「僕は、あなたが怒られるようなことをしているとは思いませんよ。それに──そんなに怒ってたら、疲れちゃいます」

 

 それは、かつてどれだけ怒りと暴力を目にしてきた者の言葉か。

 

 どれだけ他人の憎しみに晒されてきた者の覚悟か。

 

 ミネバには分からなかった。

 

 ただ──彼の声が、あまりに優しくて、泣きそうになる。

 

「怒りは原動力になることもあります。でもその先にあるのは……暴力や、怨恨です。誰かが、その連鎖を断ち切らなければならない。僕は、その役を引き受けようと決めました。だから……あなたの不安や涙は、僕が受け止めます。あなたは、ただ“ミネバ”でいてください」

 

 その言葉を聞いた時、ミネバの心に──ようやく“帰る場所”が出来た気がした。

 

「ねぇ、アイン……わたし……あなたに、守ってほしいって思ってるの。たぶん、それって……ずっと前から」

 

 アインは、彼女の背をそっと抱き寄せ、目を閉じた。

 

「いいんですよ、それで。あなたはまだ八歳。僕の目の前にいるのは、“ラプラスの箱を開けたミネバ殿下”じゃない。たったひとりの、“今ここにいるミネバ”なんですから」

 

 ミネバの胸が、小さく震えた。

 

 父のように誇り高く、バナージのように優しく。 

 

 でもそのどちらとも違う、名前も、肩書きもいらない「ぬくもり」。

 

 ミネバは、その腕のなかで小さく目を閉じた。

 

 

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