ムラサメさん家のイチバン=サン   作:星乃 望夢

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第73話 あと一息──諸君らの力を、私に貸して頂きたい!

 

ダカール・《スードリ》艦内、第2応接室。

 

 扉が開いた。

 

 振り返ったアイン・ムラサメの視線の先に、キャスバル・レム・ダイクンの姿があった。

 

 ──その軍服は、煤にまみれていた。

 

 袖には焦げ跡のような薄黒い染み。

 

 胸元の布地は、なにかに擦れたように毛羽立っている。

 

「お帰りなさいませ、キャスバル様……」

 

 アインは一歩踏み出しながらも、口調を変えずそう告げた。

 

 キャスバルは、僅かに口元を綻ばせる。

 

「“様”はやめてくれ。君の方が、今や地球圏を背負っている男だろう」

 

 だがアインは、柔らかく首を振った。

 

「──では、上官として伺います。……その服、どうされたのです?」

 

 鋭い指摘だった。

 

 キャスバルは一瞬だけ視線を泳がせ──やがて、静かに吐息を漏らした。

 

「ノーマルスーツのまま会うわけにはいかなかった」

 

「旧ジオンの技術者たちに、ですか?」

 

「ああ。彼らは“夢”にしか応じない。もし私がクワトロ・バジーナの名で来ていたら、誰も耳を貸さなかっただろう。だが、“キャスバル・レム・ダイクン”として……父の名を継ぐ者として、現れたならば、彼らは無視できない」

 

「──それでも、汚れは予想外だったのでは?」

 

 アインが指摘すると、キャスバルは僅かに肩を竦めて見せた。

 

「ゼダンの門は……まだ生きていた。機関部には余熱があり、施設全体が封鎖の途中だった。技術者たちも、密かに集められ、グリプスのシステムと連結するための工事を進めていた」

 

「つまり、グリプス・レーザー化は既に実働段階に入っている……」

 

「バスク・オムは、あの地を“最終拠点”に変えるつもりだ。グリプスとゼダンの門を繋ぎ、惑星規模の制圧能力を手に入れる。そのための“光”を完成させようとしている」

 

 アインの眉が僅かに動く。

 

「ジオンの技術者たちは、バスクに与しているのですか?」

 

「……否定はしない。ただし彼らは、“生きるため”に従っているだけだ。彼らにとっての主義は、もうとっくに失われた。だが──」

 

 そこでキャスバルは、ようやく椅子に腰を落ち着けた。

 

「アイン。彼らは、君のことを知っていたよ」

 

「私を……?」

 

「ああ。“戦わずして支配を制し、奪わずして人心を掌握する男”としてな」

 

 アインは、その称賛を否定も肯定もしなかった。

 

 ただ、淡く目を伏せた。

 

「彼らは迷っている。バスクの“力”に屈したまま、死にたくはない。──だが、ザビ家の亡霊にも、もう付き従いたくはないのだ」

 

 キャスバルは、アインをまっすぐに見据える。

 

「君が見せる“未来”が、彼らにとって唯一の道になるかもしれない。……私がそうだったように」

 

 しばしの沈黙が流れた。

 

 そしてアインは、ようやく静かに口を開く。

 

「……軍服の汚れも、“交渉の証”というわけですね」

 

 キャスバルは笑った。

 

「勲章になるとは思ってないさ。ただ──“偽るな、欺くな、演じるな”と、君に教えられたんだ。……なら、私はこのまま、汚れた軍服のままで、君の傍にいよう」

 

 その言葉に、アインも微かに頷いた。

 

 戦いは、まだ終わらない。

 

 だがその隣に、今、確かにもう一人の“同士”が帰還していた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 陽光はやや傾き、港に停泊した艦影が、静かに冷たい光を反射していた。

 

 アイン・ムラサメは、コートの袖口を整えながら、その艦影を見下ろしていた。

 

 エンドラ級巡洋艦《エンドラ》。

 

 サイド3の軌道宙域に留まっていたアクシズ艦隊の主力艦の一つであり──今日、その艦首はダカールに向けられた。

 

「ハマーン・カーン閣下、到着されました」

 

 傍らの副官が報告するや否や、艦首のゲートが展開し、黒い軍服を纏った彼女が姿を現した。

 

 その眼差しは鋭い。だが、かつての“冷えた硝子”のような殺気はない。

 

 ハマーン・カーンは、ゆっくりとタラップを上り、アインの前に立った。

 

「待たせたな、アイン・ムラサメ」

 

「いえ……ご苦労さまです、ハマーン様」

 

 アインは深く頭を下げた。

 

 ハマーンも、無言でその仕草に頷く。

 

 そして、二人は揃って《スードリ》艦内のへと入っていった。

 

 監察軍政官庁応接室

 

 椅子に腰を下ろすと、地図端末の操作をアインへ託す。

 

「本題に入る。アクシズは分裂した」

 

「……!」

 

 アインの目が僅かに揺れる。

 

 ハマーンはそれを見据え、言葉を続けた。

 

「私は“同志”を連れてきた。ミネバ・ラオ・ザビを支持する将兵、および旧ジオン信奉者ではなく、“地球を見てきた者”を優先している」

 

 地図上には、いくつもの航行線が浮かび上がる。

 

「小規模ながら、戦力はある。MSはザクⅡ、リックドムⅡ、ゲルググ、……他にも、資源衛星から運び出した古参の資源艦と予備艦隊が数隻。搭載されたMSも、演習用とはいえ実戦化可能なものばかりだ。あとはMAが1機」

 

「これを、すべて……?」

 

 アインが問う。

 

「ミネバのために、私の責任で動かした。“ミネバ・ラオ・ザビの正統性を守るため”という名目だが……それは建前だ」

 

 ハマーンの声音が、僅かに落ちる。

 

「本音は、“君”がいたからだ。アクシズは“復讐の亡霊”では、もはや纏まらない。──だが、アイン・ムラサメという青年が地球圏で見せた『秩序の再定義』は、私の部下たちに希望を与えた。あのキリマンジャロでの“言葉”が、どれほど響いたか……君はまだ、知らないだろう」

 

 アインは、静かに視線を落とした。

 

「……ありがとうございます、ハマーン閣下。ですが、それでも彼らは“敵”に回る可能性もあった。なのに、こうしてお越し頂けたことに……感謝します」

 

 ハマーンはふっと微笑む。

 

「礼などいらない。むしろ……今から“貸し”になるぞ?」

 

「──ええ。最大限の誠意で返させて頂きます」

 

 次の瞬間、会議卓の端末に警告が浮かんだ。

 

 アクシズから発進した艦隊の一群が、月外縁軌道を通過し、地球へ向かっている。

 

「既にミネバ派および私の直率艦隊は、月軌道まで達している。随伴艦隊は数日以内に合流予定。……バスクがその情報を掴んだ場合、反応は速いはずだ」

 

「ええ。グリプスとゼダンの門からの反応が、むしろ我々に“確定の証拠”を与えるでしょう」

 

 アインの眼差しが、一層深く鋭くなる。

 

「バスク・オムは、最後の光を“撃つ”つもりです。その前に、彼の砦ごと、打ち砕かねばならない」

 

 ハマーンはその言葉に頷いた。

 

「ならば、私も力を貸そう。──アクシズの亡霊ではなく、未来の礎として」

 

「貴女の援軍を、心より歓迎します」

 

 その握手は、もはや「かつての敵」などではなかった。

 

 それは──この地球圏を“次代”へ導くための、確かな同盟の始まりだった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 扉が静かに開き、ミネバ・ラオ・ザビは一歩、室内へと足を踏み入れた。

 

 そこにいたのは──少女の半生を覆う影にして、唯一の支えだった存在。

 

 ハマーン・カーン。

 

 窓際に立ち、ダカールの空を静かに見下ろすその背に、ミネバは懐かしさと微かな緊張を覚えた。

 

「……お戻りになったのですね、ハマーン」

 

 ミネバの言葉に、ハマーンは振り向いた。

 

 かつてミネバが、その背にすがりついて眠った夜のことを、互いに思い出したのかもしれない。

 

 けれど、そこにあったのは“摂政と継承者”の関係ではない。

 

 あまりにも長い時間を経て──ふたりはようやく“同じ目線”に立とうとしていた。

 

「あなたがこうして“訪ねてくる”ようになるとは、私も年を取ったものだわ」

 

 ハマーンの皮肉めいた一言に、ミネバは頬を緩めた。

 

「……昔の私なら、あなたの許可がなければ、一歩も踏み出せなかった」

 

 それは、遠回しな感謝だった。

 

 ハマーンは視線を逸らし、壁のほうへ向き直った。

 

「そのことに……私も、何度も後悔した。あなたを守りたかったのか、囲い込んでいたのか。あの頃の私は、自分を許せていなかったのだと思う」

 

「でも、あなたは……私の、唯一の“避難所”だった。あの頃、どんな夢を見ても──最後に目を覚ますのは、あなたの腕の中だった」

 

 ハマーンの指先が、わずかに震えた。

 

 ミネバの声は柔らかく、だが確かな意志を持って続いた。

 

「そして今。ようやく……“ここ”に立てた気がするの。あなたと同じ高さで」

 

 ハマーンがふっと目を伏せた。

 

「アイン・ムラサメ、恐れ入るな」

 

「彼は、何かを背負うということを、知っている人です。……あなたや、父と同じように」

 

 ハマーンは目を閉じた。

 

「あなたの選んだ道が、正しかったかどうかなど、今さら誰にもわからない。だが──」

 

 そこで、視線がミネバを捉える。

 

「あなたが“自分で選んだ”という事実は、誰にも奪えない。私はそれを、誇りに思う」

 

 ミネバは深く息を吐いた。

 

 その言葉は、子供の頃に欲しかった“承認”だった。

 

 けれど今は、それを「感謝」として受け止められる自分がいた。

 

「ありがとう、ハマーン。……私は、あなたを、ずっと尊敬していた」

 

「そして私は、あなたに“未来を”託したいと思えるようになった」

 

 ふたりは言葉を交わしながら、窓の外を見上げた。

 

 雲の切れ間から差し込む陽光が、ゆっくりと部屋を照らしていた。

 

 もう、そこに支配と庇護の関係はない。

 

 あるのは、誇りと信頼、そして互いの“道”を認め合った、かつて摂政と継承者であったふたりの、“はじまりの対話”だった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 夜、灯りを落とした戦略会議室に、地球と宇宙、そしてジオンの未来を左右する者たちが集っていた。

 

 空気は重く、誰もが口を開く前に、その重圧を咀嚼していた。

 

 最初に発言したのは、アインだった。

 

「現在、バスク・オムはグリプス宙域に潜伏中と確認され、同時にゼダンの門方面への人員再配置を進めています。これは明らかに“コロニーレーザー化”を急いでいる兆候です」

 

 テーブル上に浮かび上がるホログラフィ。

 

 グリプス、ゼダンの門、アクシズ──各勢力の現在位置と構成が淡く描かれていた。

 

 アインは続ける。

 

「一方で、小惑星アクシズ本体が地球圏に到達。急進派はグレミー・トトを首魁とし、“血による支配”を掲げて本体を掌握しつつある模様です」

 

 シロッコが頷き、口を開いた。

 

「コロニーレーザーの稼働には最低でも十日以上はかかるだろう。だが問題は、“誰がそれに火を入れるか”だ」

 

 アインは視線を巡らせ、意味深に言葉を継いだ。

 

「……グレミー・トトとバスク・オム。この両者は、思想的にはまったく相容れない。一方は“ジオンの血統による支配”、もう一方は“地球の治安維持による秩序”を掲げる極端な地球主義者。ですが──互いの戦力を利用する、つまり“思想を超えた便宜的な同盟”であれば、十分にあり得ます」

 

 静まり返った室内。

 

 その言葉が意味する最悪のシナリオを、誰もが脳裏に描いていた。

 

 ハマーンが沈黙を破る。

 

「……グレミーはバスクのような“俗物”を軽蔑するだろう。だが、勝てる見込みがあるならば使う。あの男にあるのは“支配”への執念だけだから」

 

 キャスバルが低く呟いた。

 

「バスクも同じだ。支配の道具としてなら、ジオンの亡霊も利用する。問題は“利用されるだけの馬鹿”が付いてくるかどうか、だ」

 

 アインは言葉を受け止め、整理するように問うた。

 

「では──急進派とバスク派の接触、あるいはそれを仲介する第三者の存在があると?」

 

 シロッコが静かに答えた。

 

「可能性は否定できない。アナハイム、あるいはかつてのジオン残党筋。あるいは……」

 

 彼は目を伏せ、そこから先を語らなかった。

 

 そして──その瞬間だった。

 

 ミネバが椅子の上で静かに姿勢を正し、明瞭な声で言った。

 

「……わたしは、グレミー・トトをザビ家の後継者とは認めません」

 

 一瞬、空気が固まる。

 

 キャスバルが静かに目を伏せ、ハマーンがじっとミネバを見据える。

 

 アインは慎重に言葉を選ぶように問い返す。

 

「それは──この場でのご意思として承りますか? それとも、後日、正式な声明として?」

 

 ミネバは頷いた。

 

「これは、わたしの意思。けれど、世界へ告げるのは正式な形で。いずれ、“あの人”の前で語るためにも」

 

 “あの人”──それが誰を指すか、アインは理解していた。

 

 アインは静かに、敬意と責任を込めて言った。

 

「そのときが来れば、我々も支えましょう。ミネバ様──いえ、ミネバ・ラオ・ザビとして」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 半円形の会議卓に、地球連邦政府の重鎮たちが静かに腰を掛けていた。

 

 壁面には各戦域の状況を映す大型ホロモニターが並び、中央にはアイン・ムラサメ大将の姿があった。

 

「──バスク・オム大佐の所在が判明しました」

 

 アインの言葉に、ざわめきが起きた。

 

 背筋を伸ばす者、唇を噛む者、それぞれが過去の記憶と怒りを噛みしめている。

 

「大佐は現在、旧ア・バオア・クー──現在の“ゼダンの門”において司令部機能を構築し、同時に“グリプス”をコロニーレーザーとして再構築する作戦を極秘裏に進めていると判明しました。グリプスとゼダンの門は、すでに事実上、バスク派残党の巣窟と化しています」

 

「コロニー、レーザー……」

 

 ひとりの政府高官が呻くように呟いた。

 

「まさか、それを地球へ向けると?」

 

「その兆候は今のところ確認されていませんが……」

 

 アインはわずかに目を伏せ、次いで真っ直ぐに議長を見た。

 

「バスク・オムはキリマンジャロ攻略戦において、説明責任を放棄して逃亡した男です。ですが今、再び彼は武力による秩序の掌握を試みようとしています。グリプスの再構築は、そのための“暴力による布告”です」

 

 ゴップ議長がゆっくりと口を開いた。

 

「……アクシズ本隊が地球圏に入り、我々がその対応にも追われているこの時期に。潔くないにも程がある」

 

 ゴップに続くのは参謀本部次官だった。

 

「その通りです。バスクは連邦を裏切ったのみならず、この宇宙を再び戦乱に巻き込もうとしている。あの男の存在は、もはや人類の敵と断じても過言ではありません」

 

「──だから、アイン大将に任せるということかね?」

 

 誰よりも静かに、しかし確かに議長が問うた。

 

「キリマンジャロのようにか?」

 

 会議室が、ふと沈黙に包まれた。

 

 アインはわずかに目を伏せ、そして──はっきりと顔を上げた。

 

「はい。可能であれば、今回も血を流さずに解決したいと考えています」

 

 ある者が小さく咳払いをした。

 

 ある者は苦笑し、首を振る。

 

 ゴップは目を細めた。

 

「アイン君……今回ばかりは、あのバスク派に後がない。武器を捨てたくても、捨てさせてくれない連中だ。甘くはないぞ?」

 

「それでも──私は諦めたくはありません」

 

 アインの言葉は、震えていなかった。

 

 ただ、静かだった。

 

「軍人として命に従う者を、私は否定しません。その上で、彼らがまだ人として“選ぶこと”ができるのならば、私は……その選択肢を示したい」

 

 重く、静かな沈黙。

 

 それは、威圧でも説得でもなく、“覚悟”の重みだった。

 

 やがて──

 

「……わかった。君に託そう」

 

 ゴップ議長はそう言って、苦笑した。

 

「我々の言葉では動かぬ者も、君の声には動かされる。前線に出る大将など、今の連邦には君しかおらん」

 

 他の閣僚たちも、重く頷き始める。

 

「全権を与える。グリプスを攻め落とし、可能であれば無血で制圧してくれ。ただし、レーザー完成が間近と見られる以上、時間的猶予はほとんどない。速やかに動いてくれ」

 

「はッ!」

 

 

 ゴップの命にアインは綺麗な敬礼をもって答えた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 議事堂を包む荘厳な静寂。だがそれは、爆発的な議論の前触れに過ぎなかった。

 

 議長席にはゴップが着座し、その正面──議場中央壇上には、黒の軍装を纏った青年が立っていた。

 

 地球連邦軍大将、アイン・ムラサメ。

 

 彼は今、ティターンズ、エゥーゴ、そして連邦正規軍の全戦力を束ねる立場にあり、グリプス攻略作戦の全権を託された軍人にして軍政議員でもあった。

 

「諸君。私は命ずることもできる。だが、それでは……“軍靴の響き”に過ぎない」

 

 アインは、視線を誰にも固定せず、議場全体を見渡して語りかける。

 

「私がこの場で議案として提出するのは、軍令ではなく……民意の決断である」

 

 

【緊急議案:グリプス攻略作戦決議案】

 

案件番号:第2124号

 

提出者:アイン・ムラサメ 大将/ティターンズ監察軍政官庁

 

内容:「現在グリプス宙域を占拠し、コロニーレーザー計画を推進するバスク・オム大佐およびその武装勢力に対し、軍事的制圧と説得・降伏勧告を含む攻略作戦を発動する」

 

付帯条項:民間施設・居住区の保護、非戦闘員避難回廊の設置、捕虜・投降兵の人道的扱いを厳守する

 

 

 アインが淡々と内容を読み上げ終えた刹那、沈黙を破って声が上がる。

 

 

「また貴様かッ! 民意を装った独裁者めが!」

 

「お前が連邦軍を乗っ取っているという自覚はあるのか!」

 

「ふざけるな! あのバスク大佐が反逆など……!!」

 

 アインは静かにそれらを聞き、やがて壇上に置かれた水の入ったグラスをゆっくりと口に運ぶ。

 

「……バスク・オム大佐は、キリマンジャロを放棄し、命令系統を無視して逃亡しました。現在は、地球圏に対し、コロニーレーザーという大量破壊兵器を準備しています。命令を破り、市民を危機に晒し、軍そのものを私兵と化した……これは“反逆”以外の何でしょうか」

 

 議場にざわめきが走る。その中から──

 

「……見苦しい……」

 

 後列の老練の保守派議員が絞り出すように呟いた。

 

「ここまで来て、議会で叫ぶなど……我々の、品位まで貶めるつもりか……!」

 

 別の中堅議員が立ち上がる。彼もかつてはバスクを推していた一人だ。

 

「認めよう……裏切ったのはバスク・オムだ!」

 

「我々は、あの男に“秩序の担保”を託したのだ! だが、彼は裏切った! 逃げ、隠れ、地球を焼き払おうとしているッ!」

 

「私はこの議案に……賛成する! これは、正統なる連邦の意思だ!」

 

 壇上のアインは微動だにしない。ただ、その目の奥だけが、わずかに揺れた。

 

「ありがとうございます。……私が欲しかったのは、命令ではなく“信任”です」

 

 

【採決】

 

 電子投票による採決が開始される。

 

 時間はわずか数十秒。

 

 集計官の声が、厳粛に響く。

 

賛成──268票

反対──34票

棄権──21票

 

 

「……本議案、『グリプス攻略作戦決議案』は、過半数を超えて可決されました!」

 

 沈黙。

 

 その後、どよめき。

 

 拍手をする者、脱力する者、静かに席を立つ者──。

 

 そして、最後に、アインは短く頭を下げる。

 

「この決定を、未来の歴史が誇れるよう……私は務めを果たします」

 

 その背中に、幾人かの議員が──

 

 かつて敵対した者ですら──

 

 思わず立ち上がり、敬礼を送った。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 カメラは回っている。

 

 全地球圏、月面、スペースノイドコロニー群へ向けて、衛星中継が今この瞬間にも生放送されている。

 

 荘厳な議事堂の空気を切り裂くように、青年将校がゆっくりと壇上へと進む。

 

 その胸には、地球連邦軍大将の階級章。

 

 背には、監察軍政官庁旗の意匠が入った漆黒の軍装。

  

 そして、瞳には一切の躊躇も、怒りも、焦燥もない。

 

 ただひとつ、静謐なる決意が宿っていた。

 

 アイン・ムラサメ──19歳の青年が、いま、地球圏最大の政治舞台の中央に立つ。

 

 その足音すら止むと、彼はゆっくりとマイクに顔を寄せた。

 

「今また、秩序により安穏を享受するこの地球圏に対して、力の刃を向ける者が現れました」

 

 声は淡々と、だが重く。

 

 言葉に込められた響きが、広い議事堂の隅々まで浸透する。

 

「グリプス、ゼダンの門……コロニーレーザーによって、地球そのものを人質に取ろうとする者たち。その者たちは、秩序を口にしながら混乱を望み、安寧を否定し、支配の欲に溺れている」

 

 壇上でアインは一歩前に出る。

 

 そして、ゆっくりと左手を掲げると、観衆を正面から見据えた。

 

「思い出してください。我々はどれほどの犠牲の上に、いま立っているのかを。地球と宇宙……この二つの場所を隔ててきた大きな溝が、これまでの戦争を引き起こしてきました。それは、私たちすべての過ちであり、そしてまた、“正すべき未来”でもあるのです」

 

 息を飲むように議場が静まり返る。

 

 アインの言葉は、もはや演説ではなかった。

 

 それは、鎮魂であり、祈りであり、命の繋がりへの呼びかけだった。

 

「私は言いたい。大地に果てた者たちの声を聞いてほしい」

 

「海に果てた者たちの、悔しさと無念を、感じてほしい」

 

「空に消えた者たちの、遺した想いに目を向けてほしい」

 

「宇宙に散った者たちの、未来への願いを、聞いてほしい」

 

 ここで一瞬、アインは言葉を切った。

 

 そして──ほんのわずかに、声を落とした。

 

「彼らに、報いる時が来たのです」

 

 一度言葉を区切り、元の声量へと戻す。

 

「我々は、もうこれ以上の血を、望まない」

 

壇上から見下ろす視線の奥に、確かな覚悟があった。

 

「かつてこの地球圏は、三つの軍に割れていました。エゥーゴ、ティターンズ、そして地球連邦正規軍。しかし、今や私は知っています。そのいずれに属する者であっても、市民を守ろうとする意思を持つ者は、すべて“同じ軍人”であるということを! 私たちは、血によって定義される集団ではない。志によって結ばれる存在であると、私は信じている!」

 

 そのとき、議場の一角で、小さな拍手が起きた。

 

 誰かが、立ち上がっていた。

 

 それは、かつてアインに敵対していたはずの、保守派議員のひとりだった。

 

 アインはそれを見て、微笑すら浮かべず、ただ凛と立つ。

 

「戦いを終わらせるため、私は諸君に、命じます」

 

 声が、変わった。

 

 軍人のそれに。

 

 全地球圏へ中継されている放送が、数千万、数億、百億に届く人々の心に直接叩き込まれる。

 

「地球連邦軍大将、アイン・ムラサメとして命ずる──「グリプス、ゼダンの門へ集え!」」

 

 拳を振り上げたのではない。

 

 だが、その言葉は、百万の砲声にも勝る力を持って響いた。

 

「我々は、今度こそ、この戦争を、終わらせなければならない!」

 

「そのために、私は諸君らに願う!」

 

「あと一息──諸君らの力を、私に貸して頂きたい!」

 

 壇上で、青年の声が宇宙へと突き抜けていく。

 

「その果てに、我々はついに、真の平和の第一歩を、勝ち取るのです!」

 

 この演説はのちに「グリプス攻略宣言」として教科書にも掲載され、宇宙世紀で最も人の心を集めた演説であると称される。

 

 この演説によってグリプス宙域に向かう志願兵が倍増し、バスク派内部でも「降伏か徹底抗戦か」の最終的な分裂が始まったとされる。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 大型ホロモニターに映し出された演説の最後の一句──。

 

『その果てに、我々はついに、真の平和の第一歩を、勝ち取るのです!』

 

 それを聞き届けた刹那、モニタールームに漂っていた沈黙は、重い質量を持って落ちてきた。

 

 壁際に背を預け、腕を組んでいたその男は、モニターを見続けながら瞼を閉じた。

 

「……彼は本当に、行ってしまうのだな。どこまでも先に」

 

 その声には、悔しさでも怒りでもない。

 

 かつて自分が掴めなかった“世界を変える言葉”に、完全に敗北したことを知る者の、清々しい敗北の響き。

 

「地球と宇宙、その両方を背負おうか。そう簡単にできることではない……だが」

 

 瞳を開く。そこにはかつてのシャア・アズナブルではない、ただ一人の男の感情が宿っていた。

 

「ならば、私はその背を……見届けよう。せめて、撃たれぬように守る者として」

 

 彼は、ようやく腹を括ったように、小さく息を吐いた。

 

 背筋をまっすぐに伸ばし、足を組んだまま演説を聞いていたハマーンの眼差しには、いつになく“焦り”が滲んでいた。

 

「……言葉だけで、軍を動かすか。バカな男だ」

 

 そう呟いたが、その声には苛立ちよりも、戸惑いと震えが混じっていた。

 

 アクシズの摂政として、力によって世界を変えることを信じていた女が、言葉の力に打ち抜かれた瞬間だった。

 

「違う。あの男の言葉は、演説ではない。祈りだ……」

 

 視線の端に映る少女を見ながら、ハマーンは唇を噛んだ。

 

 その指は、無意識に震えていた。

 

 椅子の前端にちょこんと腰掛け、真剣に画面を見詰めていた少女は、演説の途中からまったく瞬きをしていなかった。

 

「アイン……あなたは、本当に……本当に“こわい人”ね」

 

 その小さな声は、呟きだった。

 

「だって……こんな言葉を、世界に向けて言える人が、この世にいるなんて、思わなかったもの……」

 

 ミネバは、気づいていた。

 

 自分の心がもう、ハマーンでもザビ家の血でもなく、“彼”の在り方に影響されていることに。

 

「あなたが言うなら、私はもう一度、ザビ家の名に責任を持たなければならない……そう思えるの」

 

 小さく拳を握ったその手は、すでに幼いものではなかった。

 

 それは、宇宙世紀の未来を紡ごうとする“覚醒した子ども”の意志だった。

 

 モニターの光に照らされた横顔は、いつものように冷静で、理知的で、完璧に均衡を保っていた。

 

 だが、その瞳の奥には、見えざる激情が渦巻いていた。

 

「……まさか、ここまで行くか。君は本当に、理性の頂点を……超えたかもしれないな」

 

 演説の中に散りばめられた言葉の構造、情動の構成、抑揚の選定、視線の配り方。

 

 すべてが完璧だった。

 

 だが、それをすべて超えて。

 

「感情だ。君は“伝えたい”という思いそのものを、ここまで純化させた。私は……震えているよ」

 

 シロッコは、静かに立ち上がると、艦内端末へと歩き出した。

 

「ならば、私も“建築技術者”として君に贈ろう。君のための最後の工法を──」

 

 彼はもう、アイン・ムラサメという存在に“支配”されていたのではない。

 

 “支える”者として、自らの技術を差し出すと、誓っていた。

 

 モニターがフェードアウトしたあとも、誰も動かなかった。

 

 キャスバルは視線を落とし、ハマーンは椅子に爪を立て、ミネバは胸元に手を当て、シロッコは図面と向き合い始めた。

 

 静かな空間に、ただ一つ──。

 

 未来を変える声の残響だけが、いつまでも残っていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 アイン・ムラサメ大将による全地球圏への演説から6時間後。

 

 その言葉は、もはや単なる“呼びかけ”ではなかった。

 

 それは秩序と良識、そして“軍人とは何か”を問い直す最後の檄であり、地球圏に生きるすべての軍人と市民の魂を撃った、歴史の転機だった。

 

 地球連邦軍の主要拠点、ニューデリー、キリマンジャロ、アリススプリングス、ハンガリーの極地研究基地、アラスカ・ジャンクション──。

 

 それぞれの発射台が、まるで申し合わせたようにHLVを打ち上げていた。

 

 輸送シャトルと大型貨物機が轟音を響かせ、衛星軌道へと昇る光の柱を描いていく。

 

「目的地、グリプス宙域──コード名“オペレーション・イグジット”……! 全搭乗員、最終チェック完了!」

 

 キリマンジャロ基地から出発した輸送部隊の指揮官は、モニターの向こうにある宙域へ静かに視線をやった。

 

「行くぞ……また、あの人のもとへ」

 

 彼が語った“あの人”とは、大将アイン・ムラサメ。

 

 かつて彼と共にジャブローを守り、キリマンジャロで雪中に倒れた姿を見届けた者である。

 

 彼らもまた、いかなる軍令を待つことなく、自らの判断で艦をグリプス宙域へと転進させていた。

 

 しかし、各サイド、各月都市の守備隊はそうはいかない。

 

 小惑星アクシズが接近している現在、そのすべてがアクシズ急進派──グレミー・トト派の動向に警戒していた。

 

「警戒線は維持する。だが物資の余剰分だけでも、グリプス宙域へ送るんだ。あの人の戦場に、補給が必要だろう」

 

 輸送艦が次々に月面ドックを離れ、補給ルートを形成する。

 

 サイド3近傍に所在する中立物流企業群や、旧ジオン領資源軌道帯の技術者集団の一部も、

 

 「これは人類の未来への一手だ」

 

 として匿名で支援物資を出し始めていた。

 

 それは政治的立場による同調ではない。

 

 かつて“ジオンの理念”に未来を見た人々が、今“アインの理性”に新たな秩序を見出しただけだった。

 

 それは命令ではなく、共鳴だった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 静まり返る司令室に響くのは、接近する艦隊のシグナルと、地球圏から昇るHLVの発射通知。

 

 無数の光点が、まるで“意志を持った矢”のように、グリプス宙域へ殺到していた。

 

 副官は顔面蒼白のまま、報告する。

 

「これは……軍の自然発火……! もはや指揮系統の問題ではありません! 各部隊が“勝手に”動いています! グリプスへ──アイン大将の元へ!」

 

 沈黙する一人の男──バスク・オム。

  

 椅子に座したまま、右手の義手で無言にパネルを撫で、やがて吐き捨てるように低く呟く。

 

「正義、か……名乗れば正しくなるなら、軍規も命令もいらん。だがな、私は“力”を使うぞ。正義に勝つためにな──」

 

 その顔に宿るのは焦燥ではなかった。

 

 それは、狂気でも激情でもなく、“決意”だった。

 

「今回は最初から、撃てる準備がある。撃たせてもらうぞ……アイン・ムラサメ」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 地球が、宇宙が、コロニーが、月面が。

 

 アイン・ムラサメの呼びかけに応じて動いた“民意”のうねりは、もはや誰にも止められなかった。

 

 それは軍ではない。

 

 革命でもない。

 

 ただ“正気を取り戻した軍人たち”が、自らの“原点”へと還る行動だった。

 

 いま、グリプスとゼダンの門を巡って──“地球圏最大の戦い”の幕が上がろうとしている。

 

 そしてその先に、“銀河の未来”を見据える者が、一人いた。

 

 名は、アイン・ムラサメ。

 

 地球連邦軍大将にして、地球圏軍政の再定義を成し遂げた青年。

 

 彼が今、立つ場所こそが──歴史の“交差点”そのものであった。

 

 

 

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