『宇宙世紀0087年12月 議会選挙 特別報道』
「選ばれる者は誰か:宇宙と地球を繋ぐ一票」
(連邦ニュース24局共同特別放送)
画面には、深い群青色の宇宙空間を背景に、各スペースコロニーが回転するCG映像。
その軌道には、赤く光るひとつの存在――ヱクセリヲン建造宙域が静かに輝いていた。
「グリプス戦役の終結から、3ヶ月──混乱の終わりと共に、ようやく動き出した連邦議会。だが今、その議会に、宇宙からの“声”が突き刺さる」
司会キャスター(女性)は、背後の大型モニターに映るサイド6の夜景を背に口を開いた。
「今夜は特別報道。『U.C.0087年議会選挙 直前スペシャル』をお送りします。宇宙からの待望論──“アイン・ムラサメ候補を議会へ”の署名が、わずか10日で6億4,800万人筆を超えました」
【VTR:サイド6 市民街頭インタビュー】
・若い女性(20代)
「空気税の件……誰かが本当に私たちの声を代弁してくれたって、初めて思ったんです。だから……彼に立ってほしい」
「“彼”とは?」
「アインさんです」
・高齢男性(60代)
「ワシは一年戦争から宇宙にいたがな……こんなに誰かに任せたいと思ったのは初めてだ。立ってくれんかねぇ、アイン大将」
・中学生くらいの少年
「学校で“空気はただじゃない”って教わった。でも、アインさんの演説見て、みんな泣いたんだよ」
・子どもを抱く母親
「この子が大人になったとき、“空気を買ってた時代”を笑って話せるようにしてくれた人です。政治家になって、守ってほしい」
「……これが今、宇宙に生きる人々の“本当の声”です。我々が取材した限り、各サイドの投票登録数も、過去最多となっており、連邦史上初の“宇宙発の政治潮流”が生まれようとしています」
「これは政治的奇跡です。議会は長年、地球重視・地球中心主義で構成されてきた。しかし、アイン・ムラサメという“秩序の代弁者”が現れたことで、宇宙市民の政治的覚醒が始まった。特筆すべきは、この支持がティターンズ正規派でもエゥーゴでもなく、“アイン”という一人の人物に向けられている点です。これはもはや組織票やイデオロギーを超えた“個への信任”。まさに、民意の特異点ですよ」
出馬要請署名:648,372,918筆
支持団体:連邦宇宙市民自治連盟、月面技術者組合、フロント育英会、元エゥーゴ戦災孤児母の会 ほか
「なお、アイン・ムラサメ軍政大将ご本人からの正式な出馬表明は、まだ出されておりません。ですが、先日の軍政庁記者会見では“出るか出ないか、ではなく、必要かどうかで決める”と語っています」
「必要かどうか──そうですね。今の宇宙が、まさに“この人しかいない”という空気です。実際、出馬すれば当選確実と見る向きが多く、選挙区によっては保守派候補が出馬辞退を検討しているとの情報も入っています」
「今、連邦議会に問われているのは、制度ではなく意志である。そして、宇宙の民が望んでいるのは、改革ではなく信頼である──」
「U.C.0087年12月、宇宙の声が、議会の扉を叩こうとしている」
次回放送:「激突する政策論戦・空気税は終わったのか」
続報:「アイン大将、選挙出馬を問われて──その沈黙の真意とは?」
◇◇◇◇◇
灰色の壁に囲まれた無窓の空間に、重苦しい沈黙が漂っていた。
そこは“対策バンカー”と呼ばれる、選挙前の機密度の高い政策協議が行われる特別会議室。
地球連邦政府閣僚と各省庁の局長クラスが顔を揃えていたが、その表情は総じて渋く、冷や汗混じりの沈黙が続いていた。
「……確認したな? まさかとは思ったが……本物か?」
口火を切ったのは治安局長だった。
テーブル中央に浮かび上がるホログラフィック・ディスプレイを睨みながら、声が震えていた。
「はい。署名総数、648,372,918筆。地球圏各地の管理署および民間通信網からの照合済み。重複・偽名排除済みで、正当な署名データです」
内政局長の返答に、場の空気が凍りついた。
その数字は何よりも重かった。
出馬要請──それも、アイン・ムラサメという名に対して。
わずか10日間で、地球圏総人口の実に4分の3近くが居住する宇宙圏において、10人に1人以上が署名した計算になる。
この数字は、全地球圏人口の実に7.6%に相当し、事実上“地球圏過半数の意思”を代表する規模の民意が一人の青年軍人に集中したのだ。
「……おかしいだろう。いや、おかしくないか……」
誰ともなく呟いた。だが、誰も反論できない。
彼は、やってのけたのだ。
空気税撤廃と返還の法案。
ティターンズ正規派の排除。
グリプス戦役の終結と秩序の回復。
そして、ヱクセリヲン構想──人類を“次の地平”へ導くための巨大母艦の建造計画。
「支持率は?」
「宇宙圏全体で76.8%。一部コロニーでは80%を突破しています。地球圏平均でも42%を超えました」
「……軍人が、政治家を超えたのか……?」
その場にいた誰もが、頭を抱えるように額に手を当てる。
否。彼は最初から“政治家”などではなかった。
だが、誰よりも人々の暮らしを変えてみせたのだ。
戦火の果てに、暴力ではなく理性をもって。
「軍政議員の資格は有効だな?」
「現在も有効です。ジャミトフ元中将の名で任命された“軍政議員”扱いとして、現在も議席は有効となっております」
「ならば……なぜ民衆は、ここまで彼に“選ばせろ”と叫ぶ?」
治安局長が苦々しげに吐き捨てる。
「“任命”では足りない。“選ばせろ”。──今の宇宙の民意は、そういうことだ」
静かに答えたのは、地球連邦政府の議長──ゴップその人だった。
「……私は思う。アイン・ムラサメは、軍人として民衆に何かを強いたか?」
「……それは……」
「違う。彼は“築いた”のだ。空気税を還元し、政治に透明性をもたらした。そして、民衆の方から声を上げさせた」
ゴップはゆっくりと席を立ち、スクリーンに浮かぶアインの姿を見上げた。
議会演説で秩序を説き、空を見据えて語る19歳の青年の顔がそこにあった。
「……ならば私は、“この怪物”を使うさ」
ゴップの声に、誰も反論できなかった。
軍政大将、議会任命議員。
そして、民意の渦の中心。
アイン・ムラサメという名は、もはや“ただの若者”ではなかった。
それは希望であり、恐怖であり、変革の象徴だった。
「……議長、それはつまり──」
「このまま、彼を使い続ける。議席を与えた以上、こちらの責任でもある」
それは“容認”ではなく、“覚悟”だった。
“宇宙の意志”に抗うことは、もはや政治ではなく、暴力に等しい。
そして誰かが、ぽつりと呟いた。
「……やはり、この選挙は“時代の終わり”だな」
「否。“始まり”だよ。宇宙世紀の、本当の第一歩さ」
ゴップはただ静かに、空を見ていた。
◇◇◇◇◇
記者席のカメラが一斉に起動音を立てた。
目の前に立つのは、軍政大将アイン・ムラサメ。
黒の儀礼服を纏い、胸元の階級章が静かに光る。
会場の熱気は異常だった。
わずか19歳の若き軍政官が、スペースノイド支持率76.8%を叩き出しているのだ。
人類の大半が宇宙に暮らすこの時代において、それは絶対的民意とすら言えた。
背後には補佐官たちが控えるが、彼自身がマイクの前に立つと、室内の空気がぴたりと止まった。
アインは、静かに口を開いた。
「まず初めに、宇宙に住む皆様。地球に住む皆様。そして、連邦全市民の皆様に、心より感謝申し上げます」
「……私は今回の連邦政府議会議員選挙には、出馬致しません」
会場がどよめいた。
一部の記者が小さく目を見開き、カメラのシャッター音が一瞬、速くなる。
「ですが、これは民意を拒むという意味ではございません。私は、連邦軍の軍政を司る者として、現在も正式に軍政議員として議席を持っております。その議席も、政府からの打診と責任の下、自らの意志で拝命したものであり、軍政改革のために不可欠であると判断した結果です」
「皆様の中には『不平等だ』『民意に基づかぬ議席だ』と感じる方もいらっしゃるかもしれません」
「ですが、私は──軍人です」
アインの声が、一段と深くなった。
「私がもし、民政議員として選挙に出馬すれば、それは軍政が民政へと越権する行為に等しくなります。それは、この国の制度を根幹から否定することになる」
「私は、軍政大将として、そして“秩序の剣”として、これからも市民の生活と安全を守るために全力を尽くします」
「皆様のご期待に応えられなかったこと、ここに深くお詫び申し上げます」
「しかし……」
彼はマイクから少し距離を取り、観衆を見渡すように目を細めた。
「皆様の声は、私に確かに届いています」
「これからも私は、全宇宙市民の生活と希望のために、この理性の剣を振るうことを、ここに誓います」
「ありがとうございました」
会見は静寂のうちに終わった。
だがその直後、スクリーンに映し出された文字がすべてを物語っていた。
■ 宇宙市民による出馬要請署名総数
648,372,918筆
■ U.C.0087年宇宙圏総人口:約85億
その内、スペースノイド支持率:76.8%
■ 軍政大将アイン・ムラサメ:軍政議員議席保持中
政界、軍界、ジャーナリズム、そして市民の心に刻まれる記者会見となったのは、言うまでもない。
◇◇◇◇◇
連邦政府首都ビルディング地下第2会議室。
本来、災害対策や戦時指揮に用いられるこの地下の一室に、今夜はわずか7名が招かれていた。
ゴップ議長。
国家安全保障局長官。
連邦軍統合作戦本部長。
内政局長官。
中央選挙管理院理事。
議会調整官。
そして、ゴップの筆頭政策補佐官。
円卓を囲み、資料とホログラムが浮かぶ中、重苦しい沈黙が流れる。
「……7割、いや、殆ど8割か」
呟いたのは安全保障局長。
白髪交じりの初老の男は、アインの記者会見を録画で三度見返していた。
「出馬しない、か。正直、あそこまで明確に否定されるとは思わなかったな。──やられたよ、完全に」
「いや、これは……“逃げた”んじゃない」
政策補佐官が低く言った。
「正しく“引いた”んだ。あの青年は、軍政の責任と制度の一線を、正確に理解している」
「それでどうする? このまま軍政議員として置いておくか? いずれ市民は“なぜ彼を総理にしないのか”と言い出すぞ」
中央選挙管理院理事が呻く。
「すでに宇宙圏では、連邦政府議会そのものへの不信が高まっている。あの支持率は、アイン個人に対する期待というより、“既存制度に対する不満”の裏返しだ。ここで無理に下ろせば、民衆の怒りは倍返しになるぞ」
「では、どうする?」
統合作戦本部長が苦い顔で問う。
「軍政大将を維持したまま放置すれば、軍部内でも“アイン派”が肥大化していく。抑制はできているが、彼はすでに地球圏軍の調停者として動いている」
「……だが、外すわけにもいかん」
ようやく、ゴップが口を開いた。
「彼が居なければ、今の秩序は維持できん。グリプス戦役の後処理、ティターンズ内戦の調停、宇宙艦隊の統制、空気税改革、そして……あの選挙だ」
ゴップは、手元のホログラムに映る署名数に視線を落とす。
出馬要請署名:648,372,918筆
「この数字は、我々への不信そのものだ。だが、彼が出馬を拒否したということは……まだ、“政府内の者”として動く意思があるということだ。これは、希望でもある」
「つまり、軍政大将は継続。議会での発言力も維持。だが……」
政策補佐官が唸るように続ける。
「彼が望まぬとしても、民意は彼を“時代の象徴”にしようとしている。次は、議会がどこまで黙っていられるかだな」
「……問題は、バスク派と保守派だ。選挙で負けた時、最後の逆流が来るぞ」
「それは──選ばれた時に考えようじゃないか」
ゴップは立ち上がった。議長の顔には、深い疲労と、かすかな決意が滲んでいた。
「このまま“使う”。その代わり、いつか来る“次の時代”には、我々が耐えられるように、今から備えるのだ」
会議はそこで、静かに終わった。
外は冬の訪れを告げる夜空。
その星々の向こうで、“秩序と理性”を掲げた一人の青年が、銀河の防人として立ち続けていることを、誰もが理解していた。
◇◇◇◇◇
ここはダカール市外縁、旧連邦軍将校用の官舎群の一角。
すでに政庁機能の多くは《スードリ》や新設された政府棟に移されており、この建物も今や“忘れられた場所”でしかなかった。
だがその地下には、いまだ熱を残す者たちが集まっていた。
壁は厚い。
盗聴防止も旧ティターンズ式。
入り口の封鎖も万全。
ここは“かつての権力”が最後に身を寄せる亡霊のような場所。
「……出ない、だと……?」
誰かが呟いた。
他の誰かが机を殴った。
「ふざけた真似を……! あれだけ署名を集めておいて、記者会見で出馬辞退!? これじゃ俺たちの出番がねえじゃねえか!」
「それでも民衆は喝采してる。“潔い”だの、“本物の軍人だ”だの……まるで英雄扱いだ」
「英雄ヅラしやがって……この俺たちを、どれだけ貶めれば気が済むッ!」
「だが実際、秩序を取り戻したのは奴だ。ジャミトフの遺志を引き継いだ顔をして、民間からは“救世主”扱い……」
「黙れ!!」
怒声が地下に反響する。
老いた将校の顔が朱に染まり、眼が血走っていた。
「民衆など愚か者だ! あんな若造に煽られて、地球の痛みも知らん連中が……! 我々の戦いの何を見てきたというのだッ!」
「見ていたのは、空気税と暴力です、閣下」
冷ややかな報道担当の男が吐き捨てる。
誰も反論しない。
“あの法案”が、どれほど連邦に泥を塗ったかは、この場の全員が理解している。
「……選挙は予定通り、12月24日投開票。支持基盤は地球圏農村部と旧官僚層、産業連盟。都市部は……壊滅的です」
「宇宙は?」
「……言うまでもありません。アイン・ムラサメ──支持率、宇宙圏全体で78.6%」
ざわっ……と、会議室の空気が震えた。
「異常すぎるだろ……何をどうやったら、そんな数字が出る?」
「“出てない”からだよ。自分の椅子を欲しがらない候補が、最も強い支持を得る。……民衆の幻想に成り果てた」
「幻想だろうが、我々には脅威だッ!」
「だが奴は出馬しない。あの男は“軍政議員”として動く限り、我々の手では縛れない」
「どうする……? このままじゃ、我々は本当に“過去の遺物”になるぞ……」
その言葉に、誰もが押し黙った。
やがて、かつてバスクに仕えた古参の議員が、重々しく言った。
「今の連邦の形を守るには、アインを政治から遠ざけるしかない。……が、正面からは無理だ。彼は理想だけではなく、制度を読める。……次元が違う」
「だが、選挙は“空気”で動く。現実を突きつけてやれ。宇宙主義がどれだけ地球を疲弊させているかを──!」
「……それが今、通じると思うか?」
誰かが低く返した。
──誰も答えなかった。
やがて、会議室の灯が少しだけ暗く落とされ、最後に主導者格の男が口を開いた。
「……我々は、まだ残っている。アインが出ない以上、地球圏の地盤を一つずつ固めるしかない。都市部では“宇宙の暴走”に怯える地球人も少なくない。そこを突け」
「奴の背中には未来があるが、我々には──“地球”がある」
「……それが通じるか、最後の賭けだな」
会議は静かに閉じられた。
それは敗北のための準備ではなく、地球保守層の矜持を懸けた最後の選挙戦の始まりを意味していた。
◇◇◇◇◇
──U.C.0087年12月18日、ダカール
夜の帳が降りた地球連邦臨時議会棟の一室。
深紅の絨毯が敷かれた応接室に、バスク派の重鎮らが密かに集まっていた。
「……で、どうだった?」
開口一番、年嵩の議員が低く問いかける。
応じたのは、情報局に繋がりを持つ保守派議員。
机上に置かれたデータパッドには、ティターンズ監察軍政官庁の収支報告が映し出されていた。
「無理です。……監察軍政官庁の財務記録は、全件公開済み。それも、単なるPDFの垂れ流しじゃない。分類、用途、支出理由まで、全てがタグ付きで整理され、市民が直接照会・検証できる仕組みになってます」
「……なら、目を付けられる外注先やファンド回しは?」
「ありません。むしろ、調達業務の相手先すら公開され、選定理由まで庁内掲示板で確認可能。しかも入札はAI補助で即時に記録され、監察ログも消去不能……下手に手を突っ込めば、我々の側に監察が入る可能性の方が高いです」
ざわつく空気。
「なにをぬかしおるか! 若造の官庁に、そこまでの精度が──!」
「……精度の話じゃありません」
情報局出身の議員が口を閉じたまま、手元の端末を操作する。
壁のスクリーンに、一般公開されている「監察軍政官庁会計ポータル」が映し出された。
会計報告書にすら、AIによる平文解説が付き、軍政関係者でない市民でも閲覧・批判が可能な構造。
寄付金の用途や被災地派遣時の物資数、各地部隊の水道光熱費すら、実数で載っている。
──その異様なまでの透明性に、場の空気が凍る。
「これが“奴の秩序”か……」
「この情報網が“完成されてる”んじゃない。“最初から作った”んだ。……官庁というより、“一つの文明圏”だ、これは」
「いや……。待て」
一人の年配議員が声をあげる。
「ならば、逆に言えば……この情報量の全てを正確に記録している人間など、存在しない。……つまり、どこかに“抜け穴”が──」
「──無理だ」
机の端に座っていた若手議員が吐き捨てる。
「“ログすら改竄できない構造”で組まれてるんだよ。疑いようがない。“制度”が“清廉”なんだよ。……人間に手出しできる構造じゃねえんだ……!」
沈黙が、室内を満たした。
数秒ののち、別の議員が呻くように口を開いた。
「……ならば、奴は何者なんだ。こんなものを、どうして構築できる……?」
「だからこそ、奴は“恐怖”なんだ……! 戦争でも、私怨でもない。理性で秩序を統べる化け物……。だから、民衆は奴に従う」
「我々は……もう、どこから撃てばいいのかも分からん……」
応接室の時計が、静かに深夜零時を刻む。
──12月。
議会選挙まで、あと6日。
かつて“権力の牙”を誇った議員たちの眼前に立ちはだかるのは、もはや一人の若き将校ではなかった。
それは「制度そのものとして人を導く知性」──アイン・ムラサメという、理性の装置であった。
◇◇◇◇◇
その日、地球と宇宙は静かに、しかし確実に未来を選ぼうとしていた。
サイド1、第35選挙区。
投票所の前には、子供の手を引いた母親、仕事帰りの技術者、若い学生たちの列が伸びていた。
警備に立つ連邦兵士は、胸に銀色の徽章──監察軍政官庁の記章を付けている。
「アインさんには、立候補してほしかったな」
「でも、あの人が“盾”に徹してくれるなら……私たちが“矛”を選べばいい」
「あの演説、忘れないよ。“理性の剣を振るう”。……あれは希望だった」
改革派の空気は、投票所の空間そのものに漂っていた。
それは熱狂ではない。
静かな、しかし理屈を超えた信頼。
投票用紙に並ぶ候補者たちの名前。
アイン・ムラサメの名はない。
それでも彼の理念を掲げた改革派の候補たちは、その名を継ぐかのように一行一行に陣取っていた。
地球連邦政府本庁舎・第3分析室(保守派)
「……投票率が高すぎる。特にサイド6と月面、そして資源コロニーの……これは異常だ」
老練な政治顧問は、集計速報の端末を握りしめながら吐き捨てた。
若手官僚が震え声で報告を重ねる。
「サイド1・第2ブロック、投票率92.4%。改革派候補が予想以上に……我々の推したベテラン議員は……最下位です。落選濃厚」
かつて、連邦政権を支え続けてきた官僚政治の牙城は、音もなく浸食されていた。
それでも、彼らは抗おうとしていた。
「勝てるとは思っていない。だが……我々の存在が無くなれば、この国はただの実験場になる。“制度”を回すのが政治だ。“思想”だけで回るなら、誰も苦労しない」
彼らにとってアインは“理想の怪物”だった。
あまりにも真っ直ぐすぎて、反論の余地すらない。
サイド2・投票所裏控室(中道派)
「民意ってやつは怖いね……」
中道派候補は、しきりに髪をいじりながら、控え室のモニターを見つめていた。
「あの若造、選挙には出ないって言ったくせに……出馬した候補より支持されてやがる」
彼はアインを嫌いではない。
むしろその行動力と理性に敬意すら抱いている。
だが同時に、恐れていた。
あの男が作る世界に、自分たちの“余白”が残るのかを。
「……勝つのは、たぶんあいつの子飼いの議員たちだろうな。でも俺たちは“調整役”をやるしかない。真ん中がいない政治なんて、戦争と同じだ」
ダカール郊外・バスク派選挙戦略本部
「クソが……どいつもこいつもアイン、アインってよ!」
元ティターンズ系の陣営で、一人の男が机を叩いて吠えていた。
バスク派が推した候補者たちは軒並み苦戦。
街頭演説では“ヤジ派”と嘲笑され、支持率は1桁台が常。
「だがな、地球の根っこはそう簡単に腐らねぇ……! 戦争を知ってる奴らは、わかってるはずだ!」
居並ぶ元軍人議員たちは苦い顔で黙っていた。
誰も、勝利を確信していない。
それでもなお、彼らは叫ぶ。
「アイン・ムラサメの世界は理想だ。だが、理想は長く保たない。保てない。だから我々が必要なんだ。勝てないなら、潰す……! どこかに“瑕疵”があるはずだ。掘れ、どこまでも……!」
それはもう選挙ではなかった。
“復讐”の材料を探す、敗軍の牙の音だった。
静かに、スードリの通路からアイン・ムラサメは外を見ていた。
「……人の数だけ、選択がある。それを受け止めるのが、僕の役割です」
彼の横で、シロッコが苦笑する。
「選ばれずとも、導いてしまう者……そういう宿命か」
「ですが、今夜は少しだけ、民意を信じてみましょう」
やがて日が沈み、全地球圏の投票が終了した。
明日、集計結果が明らかになる。
しかしその前に、既に世界は知っていた。
どの名も超えて、ただ一人だけ、世界の形を変えた者がいることを。
◇◇◇◇◇
U.C.0087年12月27日、ダカール・連邦政府本庁舎・第1特別会議室
ダカールの空に乾いた風が吹く年の瀬、選挙から三日を経た連邦本庁では、国家の針路を決する重責が課された会議が静かに始まっていた。
──三日前、U.C.0087年12月24日に行われた議会選挙は、ティターンズ正統派を事実上支える改革派が単独143議席を獲得、同調する中道派を含めると232議席という圧倒的な勝利を収めた。
この結果は、民意が戦火の中で理性と秩序を選んだ証だった。
「……この結果を見ても、まだ“偶然の勝利”だと考える者はいないはずだ」
ゴップ議長が、中央卓に置かれた票集計のホログラムを指しながら、出席者たちを見渡す。
そこには、ゴップのほか、軍務省、安全保障局、総務庁、内務省、外務省、選挙管理庁の長官に加え、現地軍代表としてブライト・ノアの姿もあった。
「彼は、立候補していない」
軍務省次官が、静かに言った。
「──それでも、6億5000万弱を超える出馬署名が宇宙圏から届いた。支持率、宇宙市民の78.6%。この現象は……もはや民意の“偶像”では済まされん」
「アイン・ムラサメ軍政大将。彼はティターンズでありながら、連邦軍人であり、いまや……改革の象徴だ」
重々しく語るのは安全保障局の長官だった。
静まり返った会議室に、ゴップが一言。
「我々が彼を切れば、混乱を呼ぶ。だが彼を誤って昇らせれば、もはや制御できぬ炎になる」
「しかし彼は、自ら“出馬しない”と記者会見で表明しました。これは明確な意思表示です。軍政を逸脱するつもりはない、と」
ブライト・ノアが即座に応じる。
思い出されるのは、選挙前の記者会見でのアインの言葉。
あの毅然とした声明は、バスク派や旧保守派の足元を完全に崩した。
ゴップは、ゆっくりと椅子を引き寄せ、全員の視線を受け止めながら口を開いた。
「……彼はもう、我々の枠の中にはいない。だが“外”でもない。むしろ……我々が、彼の周囲を整える時期だ」
「どうなさるおつもりですか、議長」
「新年度より、アイン・ムラサメを軍政改革担当特別官として明文化し、監察軍政官庁の全権を正式に承認する。名目上は“軍政議員”の留任だ。だが、実質的には“秩序の象徴”として据える」
どよめきが広がる。だが、誰一人反対の声を上げない。
否、上げられなかった。
中道派、民間技術派、さらには開票当日に敗北宣言を出した一部旧保守派までもが、「アインを中心とした軍政整理」に期待を寄せる今、連邦政府は彼を排除する術も、否定する余地も持たない。
「──これは統治ではなく、合意だ」
ゴップが締めるように言い放った。
「剣を掲げた者に、我々は盾を用意する。それが、新しい時代に相応しい政治というものだ」
◇◇◇◇◇
時刻は午前九時。
新年最初の議事堂を照らす光は、ガラス張りの天蓋から緩やかに注がれ、長き混乱の終焉と、新たな秩序の胎動を象徴するように清冽だった。
臨時に設けられた開会宣言の鐘が打たれ、各国の代表、閣僚、連邦評議員、そして各軍区の司令部代表が静かに着席していく。
壇上には、ゴップ議長の姿。
傍らには地球連邦新政権の内閣主要ポストが整列し、その中央に
「これより、軍政改革担当特別官の任命式を行う」
開会の声に、場内の空気がピンと張る。静けさの中、ゆっくりと前に進み出たのは
アイン・ムラサメ。
年若くして数多の修羅場を潜り抜け、地球圏に秩序をもたらした“理性の軍人”にして、ティターンズ監察軍政官庁の長官。
そして、連邦政府が制度改革の中心と認めた──軍政大将である。
その背筋は真っ直ぐで、表情には一切の驕りも疲れも見えない。
眼差しだけが、静かに壇上に並ぶ閣僚らを見据えていた。
「アイン・ムラサメ軍政大将。貴官を、地球連邦政府特別官──軍政改革担当官として任命する」
ゴップが読み上げた任命書を、アインは両手で受け取る。
「謹んで拝命いたします」
それだけの言葉だった。
だが、その声音に籠められた責任と覚悟に、誰もが息を呑んだ。
ティターンズの闇を正し、内戦を鎮め、空気税を撤廃し、スペースノア級艦隊とヱクセリヲン計画で銀河系進出への道を拓いた若き軍政家。
その彼が、今や政府制度の“礎”として、恒常官庁の代表たる特別官に任命された瞬間だった。
数秒の静寂の後、議場に響く拍手。
少数の保守派議員たちが腕を組んで無言を貫く中で、多くの中道派・改革派議員、スペースノイド出身の代議士たちは拍手に立ち上がり、盛大な賛辞を送った。
壇下では、アインの姿を見守る者たちがいた。
シロッコ大佐は軍服の袖を整えながら、静かに呟いた。
「ようやく……制度が、君に追いついたか」
式典を終えたアインが記者団の前に姿を現すと、シャッター音と共に嵐のような質問が飛び交った。
「特別官として、まずどのような改革を?」
「今後、監察軍政官庁はどう変わるのか?」
アインは静かにマイクの前に立ち、一礼した。
「私の任務はただ一つ──軍政の秩序と合理を築くことです。腐敗なき制度、尊厳ある再任、そして民の安心を支える軍を創るために、私はこの役目を担います」
その言葉に、会場は再び静まり返る。
「……私は、戦う者の剣であると同時に、守る者の盾でありたい。制度を築くことは、未来を育てることです。私はその責任を、胸に刻み、歩んでまいります」
この言葉こそが、新時代の到来を告げる鐘音となった。