宇宙世紀0088年11月某日/インダストリアル7宙域
静謐な宇宙を、紅の機影がひとつ滑るように進んでいた。
モビルスーツ──否、モビルアーマーと分類すべきその巨体。
ジガンスクード。
地球圏防衛の盾として象徴的存在である。
だが今、その巨体は戦うために進んでいるわけではなかった。
目的地は、インダストリアル7。
開かれた商業コロニーにして、ビスト財団の中枢が根を下ろす、あまりにも有名な特別行政宙域。
──そこから、招待状が届いた。
送り主は、カーディアス・ビスト。
ビスト財団現代表にして、ラプラスの箱の封印を守り続ける一族の当代。
その男が、自ら名を記してアインに面会を求めてきた。
スードリ艦内で報を受け取った瞬間、アインは静かに目を伏せてこう呟いていた。
「……ついに、来ましたか」
淡い碧の瞳に、一瞬だけ深く色濃い影が落ちる。
ラプラスの箱。
それは単なる文書ではない。
それは「宇宙世紀という時代の正体」であり、「地球連邦という体制の嘘の始まり」だった。
そして今、自分にその扉を開ける資格があると“向こう”が認めた──アイン・ムラサメは、そう判断していた。
(おそらくこれは……サイアム・ビストその人の意志でしょう)
自ら姿を見せることのない宇宙世紀最古の影──サイアム・ビスト。
その男がアインに「預けることを決めた」というのならば、もはやこの世界において“その真実”を拒む者はほとんど存在しないことになる。
彼は誰よりも“未来のために怯えた者”であり、“未来を託したくなかった者”であり、
それでも──今のアインを見て、なお「託す価値がある」と思ったのだろう。
アインの思考は冷徹なほどに静かだった。
感情はあったが、揺れはない。
「……人が知るには、まだ早い真実もある。だが、この箱の中にあるのは、あまりに遅すぎた“出発点”だ」
ジガンスクードの駆動音が、極めて静かな低周波を宇宙に響かせる。
同行者はいない。今回は単身での航宙。
これほどの存在を、これほどの政治的重量を伴って受け取るのだ。
下手に他者を巻き込めば、その存在だけで軋轢を生みかねない。
(たとえミネバであっても……ここに同席させるべきではない)
アインはすでに、これが「個人」としての責務であることを理解していた。
これは軍政大将としての職務ではない。
“宇宙世紀を継ぐ者”としての、私的な継承であり、政治よりももっと根源的な、歴史との契約だった。
やがて、視界の先にその姿が現れ始める。
インダストリアル7──。
整然としたドック、明るく灯る管理ブロックの照明。
そこには無数の人々の暮らしがあり、産業があり、未来を夢見る社会の縮図があった。
そして同時に、それを影から見下ろし続けてきた者たちがいる。
連邦もジオンも知らぬ、宇宙世紀という「物語の真実」を──。
ジガンスクードは徐々に減速し、管制信号を受信した。
自動航行が開始され、コロニー外壁に設けられた招待者用のドッキングポートへと導かれていく。
アインは、その中で最後にひとつだけ、心に問うた。
「サイアム・ビスト。……あなたが見ていた“地獄”の続きを、僕は──見届ける覚悟があります」
通信の灯が静かに点滅し、ビスト財団の特別迎賓管制より、一行の許可が送られてきた。
アイン・ムラサメは、未来と対話するために、その扉を開こうとしていた。
◇◇◇◇◇
深い静寂が、古の館に満ちていた。
インダストリアル7に隠されるように建てられたその屋敷は、ビスト財団の私邸であり、同時に“宇宙世紀の原罪”を封じ込めた箱庭でもあった。
月光を受けたガラスの回廊を抜け、廊下を進む青年の足音がひとつ。
その姿は静かに、だが確信をもって進んでいる。
──アイン・ムラサメ。
地球連邦軍軍政大将。
ティターンズ監察軍政官庁を統べ、“理による秩序”を掲げた若き政治家にして軍人。
扉が開かれた。
広く重厚な応接室。
クラシックな調度品とともに、やや小柄な壮年の男が一人、椅子に腰を掛けていた。
ビスト財団現当主──カーディアス・ビスト。
その眼差しは、慎重で、鋭く、そしてどこか慈しみに似た深い思慮を湛えていた。
「……よく来てくださいました、アイン・ムラサメ大将」
初対面であるはずなのに、その語り口にはどこか懐かしささえ漂っていた。
対するアインは、一礼して答える。
「招いていただき、感謝します。カーディアス・ビスト氏。……いえ、それよりも“後ろに居る方”が、本当の招待主なのでしょうか」
その言葉に、カーディアスは瞼をゆるやかに閉じ、かすかに口角を上げる。
「……まったく、驚かされる。そこまで察していたとは。なるほど……やはり、あなたは“見る者”だ」
アインは言葉を返さず、ただ静かにカーディアスを見つめる。
沈黙が、確認を交わすように数秒だけ流れた。
「私は代理に過ぎません。祖父、サイアム・ビストの意志を継ぎ、この“箱”を守り続けてきた一族の……最後の当主として、あなたをここへ迎えた」
アインは一歩だけ進み、問う。
「……その“箱”を、僕に渡す理由は?」
「あなたならば、“怒り”で開けたりはしないからです」
即答だった。
「宇宙世紀という欺瞞、連邦という支配、スペースノイドの苦難……それらを知りながらも、あなたは決して“破壊”を選ばなかった。正そうとした。“怒りではなく、理性”で。それが、祖父──サイアムの求めた“条件”でした」
カーディアスの声音には、確かな確信があった。
「あなたの言葉は、誰かの代理ではなく、“あなた自身の選択”から来ている。それこそが、祖父が最も求めていた“未来を開く手”なのです」
アインは瞳を伏せる。
「……僕は、箱を開けたいとは思っていません。それは人類の業であり、呪いでもある。けれど──もし、誰かが開けるというのならば。それが、未来を選ぼうとする者ならば。僕は、その責任を共に背負う覚悟があります」
それは重く、深く、痛みを伴った言葉だった。
やがてカーディアスは静かに立ち上がり、アインの正面に向き直る。
「ならば、あなたにお見せしましょう。この宇宙世紀が、何を“隠した”のかを」
壁が音もなく開き、奥へと通じる厳重な扉が現れる。
銀色のハンドスキャナに手をかざし、網膜認証を終えたその向こうにあるのは──
《ラプラスの箱》。
世界の原罪。
時代を揺るがす文書。
そして、この先の未来を選ぶために、越えなければならない“問い”だった。
◇◇◇◇◇
音は、なかった。
金属の階段を降りる足音すらも、重圧のような静けさに飲まれて消えていく。
地上から遮断されたその隔壁の底は、まるで世界の裏側に堕ちていくような錯覚を覚えさせる。
──ここが、“始まり”なのか。
先導するカーディアス・ビストの背中を、アイン・ムラサメは黙って見つめていた。
足取りは緩やかで、だが一切の迷いがない。
「この通路は、本来サイアムが自分一人でしか降りなかった場所です……あなたが、初めての同行者になる」
静かな声だった。
だがその響きは、長い時を経た決意のように硬い。
アインは言葉を返さず、ただ視線を前に向けて歩を進める。
階段の先には、数百メートルを超える垂直の空間が広がっていた。
中心にはエレベーター。
側壁には人工重力制御装置、全周囲に厳重な認証レイヤー。
それはまるで、「地上の偽り」と「真実の地獄」を隔てる、奈落の回廊だった。
──扉が閉じる。
沈黙のままエレベーターは下降を始めた。
速度はゆっくりだが、確実に深く、深く、降りていく。
「この施設自体、サイアム・ビストの財産の中でも限られた者しか知らぬ“秘中の秘”です。……あなたに案内すること、それ自体が、我が一族の終わりを意味する」
その言葉に、アインの瞳が揺れる。
「……覚悟の上ですか?」
カーディアスは頷いた。
「あなたは、我々“裏側の人間”を表へと還す存在です。私はその道標になれば良い」
アインは黙ってその言葉を噛み締める。
“裏側の人間”──宇宙世紀という歴史の裏で、連邦政府の成立に手を貸し、同時に虚構と罪を知りながら口を噤んできた者たち。
それが、ビスト家の正体だった。
そして、その最奥に封じられた真実こそが、「箱」。
エレベーターが、止まる。
低く、重い音。
その先に待っていたのは、幾重にも閉ざされた電子鍵と物理ロックによって守られた、一枚の古ぼけた金属扉。
カーディアスが掌をかざす。
認証音とともに、扉が開いた。
静かに、静かに──そこは、たった一つの金属製のコンテナが置かれただけの、無機質な空間だった。
照明も最低限。
温度はやや低く、空気には古文書のような鉄の匂いが漂っていた。
「……これが、ラプラスの箱です。我々が、守り続けてきた、“真の宇宙世紀憲章”」
アインは、一歩前に出る。
無言のまま、箱へと手を伸ばそうとして──
「……開けていいとは、言っていませんよ」
カーディアスの声が、その手を止めさせる。
「これは“試される者”の器を測るために存在する。それを開ける権利を持つ者が、自らの意思で開けるべきもの。あなたが“正義”や“秩序”の名を掲げている限り、決して強制する気はありません」
アインはその手を下ろす。
視線を箱に向けたまま、低く呟く。
「……この中にある真実は、世界を変える。でも、世界は……変わっていい理由がある時にしか、変えてはならない。開くなら、その時です」
カーディアスは、満足そうに笑みを浮かべた。
「サイアムも、あなたがそう言うと分かっていたのでしょう。だからこそ、“あなたに見せろ”と命じたのです。あなたは、未来を“語るに足る人間”だと──そう、判断した」
静寂が戻った地下空間に、低い振動音が響いた。
深淵のように静かなその空間は、まるで宇宙の胎内にでも迷い込んだかのようだった。
壁一面に重ねられた隔壁。
歴代の権力者たちが己の恐怖と利害で幾重にも封じてきた「宇宙世紀の原点」。
その最深部──。
アイン・ムラサメと、カーディアス・ビストは、最後の隔壁の前で立ち止まっていた。
「……君なら、開けても良いと思っている。だが、君はきっと……開けない方を選ぶ気がする」
カーディアスの声には、奇妙な期待と寂しさが同居していた。
アインはしばらく黙って、刻印の刻まれた金属を見つめていたが、やがてゆっくりと答えた。
「……この中に書かれている一文は、“祈り”だったはずです」
「祈り、か」
「宇宙に住まう者たちが、新しい世界を拓いていく。選ばれた誰かではなく──『宇宙に適応した人類』すべてが、です」
アインの声は淡々としていたが、その奥にある熱は、静かに空間を震わせた。
「宇宙に住む者たちは、既にその“適応”を果たしています。呼吸をし、重力を補正し、生活し、子を育て……重力の井戸の外に立ち続けている。その事実が、なによりも“新人類”であることの証です」
そして──彼は続けた。
「私は、彼らを選びません。でも、彼らがここに立つことを、否定しない」
その瞬間だった。
無言のまま立っていたカーディアスの肩が、ふっと小さく震えた。
「……君は、箱を使わないのだな」
「はい。使わなくても、“彼らの場所”は最初からあった。ならばそれを、奪われたものとしてではなく、戻るべきものとして扱うべきです」
それは、叫びではない。
革命でも、暴露でもない。
ただ、事実と未来に基づいた、穏やかな復権の言葉だった。
カーディアスは、一瞬、視線を落としてから、ふっと息を漏らす。
「……私は、君のような人間に……この家を託したかったのかもしれないな。だが私は……ただの一介の商人だ。戦争屋にすぎない」
アインはそれを否定しなかった。
ただ、一歩前に出て、ゆっくりと扉の表面に手を当てる。
「でも、あなたはその箱の前に私を導いた。それは、あなたが“信じた”ということです」
「……やはり、君は開けないのか?」
問いかけるカーディアスに、アインは小さく首を振った。
「今は、開ける時ではありません。スペースノイドが、自らの足で立ち上がろうとしている時期に、上から“答え”を与えるのは、彼らの“未来”を再び奪うことになる」
「……正論だな。あまりにも正しい。いや──美しすぎるほどに」
その瞬間、静かな“視線”が二人に向けられていた。
格子の向こう、監視モニターの前。
脈打つような機械音と共に、老いた男が、深く椅子に腰掛けていた。
──サイアム・ビスト。
彼は長く、その画面を睨みつけるようにしていたが、やがて、ゆっくりと重い口を開いた。
「……わしはな、アイン・ムラサメ。この宇宙に“選ばれし者”だけが、新時代を導くと信じてきた。だが……お前は“選ばれざる者たち”を導くというのか」
モニターの向こう、老人の目が揺れた。
「……選ばず、拒まず、奪わず、赦す……そんなことが、できると思うのか?」
その問いに、アインはモニターを振り返ることなく、ただ静かに答えた。
「できるかではなく、“そうあるべきだ”と思っています」
「────」
しばらく、サイアムは何も言わなかった。
やがて、ほんの僅かに背中を椅子に預け、目を閉じた。
その顔には──諦観と、どこか懐かしさの混じった、深い安堵が浮かんでいた。
「……ならば、やってみるがいい。わしが封じた“呪い”が、ほんとうに“祈り”へと還るのか──その行く末を、見せてみろ……アイン・ムラサメ」
音のない隔壁の奥、静寂が響くような深層。
かつての首相官邸が吹き飛ばされた、宇宙世紀のゼロ地点。
その残骸の奥で、銀の棺のように横たわるそれを、アイン・ムラサメは静かに見つめていた。
《ラプラスの箱》。
その正体は、宇宙世紀憲章・原初の全文──宇宙に出た新人類に、地球圏の政治参加を約束する“祈り”の一文。
だがそれは今や、地球連邦政府が歴史の闇に葬った、“呪い”とされた真実。
アインは立っていた。
それを、開けようとせず、ただ──手を添えた。
その掌は、確かに震えていた。
だが恐怖ではない。
それは、“選ばれてしまったこと”への、誓いの震えだった。
「僕には見えている」
低く、誰にも届かぬ声で彼は呟く。
「この文を世界に晒せば、スペースノイドは歓喜し、怒り、暴走する。だってそうだ。これは、彼らから未来を奪った政府の、証拠なのだから。だけど、僕は知ってる。暴露で得た勝利は、いつか恨みに変わると。僕は……そういう時代の果てに生きてきた。地球は壊れていて、宇宙は傷付いていて、それでも──」
アインは静かに目を閉じた。
思い浮かぶのは、ミネバの瞳、ドゥーの手、マチュの笑顔、ニャアンの声、仲間たちの存在。
「みんな、怒りじゃなくて……優しさで、この世界に触れてくれた」
目を開く。
箱を見つめる視線に、惑いはなかった。
「だから私は、“使わない”という選択で、世界を変えてみせる。ラプラスの箱は、未来を縛るためじゃない。“未来を任せる”ために託されたんだ」
アインは手を引いた。
その指先には、何の証もない。ただ、意志だけがあった。
「サイアム・ビスト……僕はあなたに、答える」
「あなたの“呪い”を──“報い”に変えてみせる」
箱の前で踵を返すその背に、誰もいないのに、誰かの声が重なる気がした。
──ならば、行け。
──祈りの果てへ。
アイン・ムラサメは歩き出す。
怒りではなく、希望と理性の旗を掲げて。
ラプラスの箱は静かに、誰にも開かれずに眠っていた。
だがそれで良かったのだ。
この青年が、箱より重い未来そのものを──その手で、確かに開けてみせたのだから。
◇◇◇◇◇
あの青年は、確かにそこに立っていた。
ラプラスの箱を前にして、開けようとせず、しかし見えていた。
中身よりも深く、意味よりも重く──未来を。
「あなたの“呪い”を──“報い”に変えてみせる」
アイン・ムラサメはそう言って、踵を返した。
その姿には一切の動揺も迷いもない。
ただ、歩くべき道を知っている者の背だった。
そしてその時、誰もいないはずの静謐な空間に、誰かの声が重なるような錯覚をカーディアスは感じた。
──ならば、行け。
──祈りの果てへ。
《ラプラスの箱》の前でそうして立ち去った者が、かつてこの世に存在しただろうか。
カーディアスは、思わず息を呑んでいた。
あの青年は、「開示」よりも遥かに難しい選択をした。
過去を暴くことよりも、未来を背負うことを選んだ。
それはビスト家にとって「赦し」であり、「贖い」であり──そして、確かな“救済”だった。
怒りではなく、希望と理性の旗を掲げて進むその姿は、かつてこの宇宙世紀という舞台で誰も果たし得なかった「祈りの継承」を確かに示していた。
カーディアスは、静かに眼を伏せた。
ラプラスの箱は、アイン・ムラサメという名の未来によって、封じられたのではない。
赦されたのだ──この宇宙の理性によって。
あの背中に、もはや迷いはなかった。
ラプラスの箱よりも、遥かに重くて確かな未来そのものを、彼は、その手で確かに“開けてみせた”のだから。
(……サイアムよ。あなたは、やはり見抜いていたな)
ビスト家の“最後の鍵”は、ついにその役目を終えた。
だが、宇宙世紀はここからが始まりなのだと──カーディアスは静かに、胸の奥で確信した。
◇◇◇◇◇
インダストリアル7・ビスト邸 応接室
深奥の隔壁──“箱”の在処を確認し、無言のまま戻ってきた二人を迎えるのは、静まり返った応接室の気配だけだった。
カーディアス・ビストは先に扉を押し開け、アイン・ムラサメに進むように促す。
その背を見つめながら、彼は“予想外”という言葉を噛み締めていた。
あれほど重く、忌まわしい過去の象徴であった“ラプラスの箱”を前にしても、この若者は一歩も怯まず、しかし拳を振るうこともなかった。
ただただ、理性と希望を胸に、その存在を受け止めた。
「……貴方は、“呪い”を語らなかった。私たちビスト家にとって、それがどれほど救いとなったか」
応接室に入るなり、カーディアスは重厚なワインキャビネットの前へと歩を進めた。
「歓迎の儀式としては遅れましたが、隣人としての杯を交わさせていただければと思います」
アインは小さく頷く。
言葉は少ないが、彼のまなざしは真摯だった。
「僕で良ければ、喜んで」
カーディアスはワインを注ぎながら、どこか目を細めて笑った。
「“良ければ”とは……まったく、貴方らしい」
ふたりの杯が静かに触れ合い、澄んだ音を立てた。
その音は、宇宙世紀の闇を抜けた先に生まれた、祈りにも似た約束の音だった。
──そう、カーディアスには確かに見えたのだ。
この青年が、箱に頼らずとも人々の心を動かし、宇宙世紀という時代に新たな意味を与える存在なのだと。
「アイン・ムラサメ……」
カーディアスは静かにその名を呼ぶ。
「我がビスト家は、貴方を“脅威”とは見ません。むしろ、“理性の継承者”として、共に歩むことを望む」
アインはわずかに眼差しを伏せ、それからまっすぐカーディアスを見た。
「……その歩みが、誰かの希望になるのなら。僕は何度でも、未来を選びます」
グラスの中の紅が揺れた。
それは血の色ではなく、誓いの色だった。
ビスト家の応接室に、時を告げる静寂が流れていた。
カーディアス・ビストが上品にグラスを置いたとき、アイン・ムラサメは黙って端末を開いた。
整った指先が滑らかに画面を操作し、ホログラムの光がテーブルに投影される。
それは、ひとつの軍体系に匹敵する膨大な技術群だった。
「ご覧ください。これは、現在私どもが整備・配備を進めているロンド・ベル編成計画の中核機体群です」
テーブルに次々と浮かび上がる青写真。
まず現れたのは、量産型MS「105ダガー」。
次いで、その発展型である「ダガーL」、火力支援型「バスターダガー」、そして宇宙適応性・戦闘力ともにジェガン級に達する「ウィンダム」。
そして、彼らを支える無数の拡張装備──ストライカーパック群が連鎖的に展開される。
空間戦闘能力を強化する《エールストライカー》
長距離砲撃に特化した《ランチャーストライカー》
高出力の近接格闘特化型《ソードストライカー》
大気圏内飛行に適した《ジェットストライカー》
レールガンによる高精度狙撃と支援通信機能とエネルギー供給機能を持つ《ライトニングストライカー》
そして、量子通信と有線式オールレンジ攻撃機能を備えた《ガンバレルストライカー》
アインは一つひとつの意義を丁寧に説明しながら、最後にもう一枚のホログラムを投影した。
そこには、赤十字と白のカラーリングが印象的な“医療支援型MS”が表示されていた。
「……そしてこちらが、ホスピタルストライカー。被災地への救難・簡易病院設置・自律的医療支援活動を行う専用ユニットです。モビルスーツの踏破力をもって、どんな未踏地でも医療を届けることが可能です」
カーディアスは思わず、沈黙した。
その目が、すべてを見通す者の深さを湛えて、アインの提示を見つめていた。
「……これを、すべて私に?」
アインは静かに頷いた。
「図面と基礎設計データはこの端末に。使用権も譲渡します。どう使うかは、あなたの裁量にお任せします。あなたならば、きっと“力”を“守るもの”に変えられると、僕は信じていますから」
その言葉には、軍政大将としての理性と、戦火を見続けてきた一人の青年としての覚悟が込められていた。
カーディアスはそっと立ち上がり、アインの正面に歩み寄った。
「……あなたは、“戦争を終わらせる手段”を、こうも穏やかに、こうも静かに、提示してしまえるのですね。これが、あなたの秩序か」
アインは否定も肯定もしなかった。
ただ、ほんの僅か、目を細めて笑った。
それだけで十分だった。
ビスト財団の主は理解したのだ。
この青年は“力を支配する者”ではなく、“力を委ねてでも未来を委ねる者”だと。
そして、自らが築き上げてきた財団のすべてを、この青年の歩む道に繋げる覚悟を──いま、ひそかに胸に決した。
「……受け取りましょう、アイン・ムラサメ大将。あなたの示した秩序、我々もまた守りましょう。白き機体が、戦火ではなく祈りの中に降り立つ日を信じて」
アインは静かに頷き、そして端末をそっと彼に差し出した。
その指先には、どの銃火よりも重い未来が託されていた。
◇◇◇◇◇
ヱクセリヲン開発宙域:技術ブロック・シロッコ私室
投影されたホログラムが、静かに回転していた。
その投影は、一体のモビルスーツ。
白と濃紺を基調とした実直なフォルム。
そしてその背面には、標準化された接続用コネクターがある。
「……まだ誰にも見せていません」
アイン・ムラサメは椅子に腰かけたまま、目を逸らさずに言葉を継いだ。
「名は、レイスタ。作業支援用MSです。地球再建、宇宙拡張、そして移民船団内での民生活動を見据えた──“暮らしの中のモビルスーツ”」
シロッコは、正面の立体映像に目を細める。
単純な作業用と片付けるには洗練されすぎている。
それでいて、明確な“戦意”は持たない。
「ほう……この背面ユニットは?」
「ストライカーパックシステムです」
アインは、別のホログラムを浮かび上がらせた。
そこにはいくつものパック──空間用、近接戦用、大出力火器搭載ユニット──が展開される。
そのなかに、ひとつだけ異彩を放つ白地の装備が表示された。
両肩にアーム、腰部に展開式医療シールド。
「ホスピタルストライカー。救急医療ユニットです。これを標準運用とし、他の戦闘用パックはロンド・ベル向けの提案用。市民向けは、完全非武装で通します」
シロッコは興味深げに映像を切り替え、もう一機体を確認した。
「こちらは……?」
「シビリアンアストレイ。レイスタよりも高可動な民間機です。軽作業、搬送支援、教育訓練用途を想定して設計しました。ストライカーパックには非対応ですが、その代わり工具拡張や港湾支援用ユニットなどに標準で対応します」
投影された赤と白のボディは、戦闘兵器のような姿をしながらも、どこか“人の暮らし”を映していた。
「……アイン。君は“創った”のか。人が、戦わなくて済むように」
「はい。ですがこれは、理想論ではなく構造計画です。銀河移民船団の一次居住支援MSとして、千機規模の初期量産を目指します。もし貴方に手伝っていただけるなら、設計の最終調整と、ストライカーパック全体の統合マウント規格を……」
そこまで言って、アインの言葉が止まる。
シロッコが、珍しく──微笑んでいた。
「……やらせてもらおう。これが君の“種”なのだな。私の知識など、すべて使えばいい。だがひとつだけ条件がある」
「条件……ですか」
「量産一号機のテスト機体は私に造らせろ。君の民衆のためのMSを、私の“技術”で産ませてやる」
その声音は穏やかで、まるで何かの未来を信じるようだった。
アインは一礼し、小さく「ありがとうございます」と呟いた。
◇◇◇◇◇
U.C.0088年1月25日
壇上の照明が落ちる。大型モニターに二機のモビルスーツの姿が映し出された瞬間、会場が静まり返った。
一機は白と紺を基調とした堅牢な機体──レイスタ。
もう一機は白と赤のスマートな機体──シビリアンアストレイ。
その中央に立つのは、黒の軍装に身を包んだ青年。
地球連邦軍・軍政大将、アイン・ムラサメ。
「皆さま、本日はお忙しい中、ご足労いただきありがとうございます。本日、私が発表させていただくのは、銀河移民船団構想における“民間支援機構”の第一段階。人が生き、暮らし、働くための新たな基準となる、民生型モビルスーツのご紹介です」
会場の記者たちがざわつき始める。
「一機目はレイスタ。建設、運搬、宇宙船内の整備作業など、多目的用途に対応した汎用作業MSです。
二機目はシビリアンアストレイ。軽量・高可動を特徴とした、教育・訓練用途を含む中軽作業用MSです」
アインは、ホロ投影で背部のユニット接続端子を指し示す。
「レイスタには、当庁技術部およびアナハイム・エレクトロニクス社と共同開発した新装備、ストライカーパックシステムを搭載しています。本日発表するパックは二種となります」
表示されたのは、白を基調としたメディカル装備。
「ホスピタルストライカー。宇宙空間や移民船内での応急処置・救命作業を支援するモジュールです。各種医療ツール、処置アーム、展開式医療ユニットを搭載しています」
続いて、建設用アームや大型クレーンを搭載したもう一種が映る。
「もうひとつは、ワークストライカー。工事現場や構造物整備、資材移送などに用いられる多目的作業支援ユニットです。重作業用アーム、工具モジュール、大型吊架装置を備えています」
ざわついていた会場が、次第に引き込まれていく。
誰もが予想していた“軍事的MS”ではなかった。
アインはそこで一歩前に出る。
「私たちは、兵器で暮らしを支えるのではなく、“暮らしを支える技術”としてのモビルスーツを提示したい。これは理念ではなく、制度であり、生産計画であり、社会構造そのものの再構築です。この計画の販売・運用業務は、アナハイム・エレクトロニクスが責任を持って対応します。連邦内外の開発拠点、移民宙域、そして宇宙港や工業コロニー向けに順次展開していく予定です」
質疑応答の時間になっても、多くの記者が驚きの表情を浮かべたままだった。
誰もが、「次も来るのは戦争兵器」だと予想していたからだ。
だが、アインが掲げたのは──「働くMS」だった。
「最後に。モビルスーツは本来、道具であるべきです。人の命を奪うのではなく、人の命を守る道具として、初めから設計することはできるのだ──と、私は信じています」
その言葉の背後、再びレイスタとシビリアンアストレイの姿が浮かび上がる。
新しい時代の“人のかたち”が、そこにあった。