ジガンスクードは極東方面軍・伊豆基地へと預けられ、数時間後。
その巨体に代わって一行を運ぶのは、ごく普通のセダンタイプの黒塗り車だった。
揺れる木漏れ日、山の緑、歴史の古傷を湛えるような静けさの中、アイン・ムラサメは箱根へと向かっていた。
目指したのは、西暦から続く老舗旅館──創業は明治以前、文人や軍人も足を運んだという名高い宿。
それを知ってか知らずか、旅館の玄関前に颯爽と降り立った黒と金の軍服姿に、女将は一瞬だけ息を呑んだ。
「軍政大将様……ご足労いただき、光栄でございます」
「いえ、ただの視察です。軍用ではありませんので、形式張らずに」
微笑みながら応じたアインの言葉に、女将は安堵し、すぐに部屋へと案内を始めた。
「……おおー……」
「和室だね……!」
案内された部屋は、家族連れや団体向けの大部屋──畳敷きで、ふすまの奥には寝具がすでに敷かれている。
マチュとニャアンが感嘆の声を上げ、ミネバは凛とした佇まいのまま室内を見渡す。
ドゥーはふかふかの座布団に腰を下ろしてから、ごろりと寝転がった。
その中で、ひとつの疑問が浮上する。
「……ねぇ、まさかアインさんも、ここで一緒に寝るの?」
ニャアンが、半分からかわずに問うと──
「さすがに、それは別室を取ってありますよ」
と、アインは即座に答えた。
「……ちぇー」
残念そうに声を上げたのは、ドゥーだった。
「別にいつも一緒に寝てたのにー」
「こら」
アインが言いかけたその時。
「……え、なにそれ……もしかして──ヤッてんの?」
マチュがイジワルな笑顔で口を開いた瞬間だった。
ピシィッ!
乾いた音が部屋に響いた。
アインの手刀が、見事な角度でマチュの頭頂を直撃していた。
「痛っ!? なにすんの、軍政大将の癖にーッ!」
「公的な場では発言を選びなさい」
アインは無言で座り直しながら告げた。
その姿に、なぜかドゥーが「やっぱりアインは真面目なんだ」と誇らしげに頷き、ミネバはくすっと小さく笑った。
「で、何食べに行くの?」
荷をほどいた一行は、空腹に誘われて旅館近くの町並みへと出た。
午後一時半──宿での昼食は頼んでいない上、朝食も食べていなかったため、皆が小腹どころか本格的な空腹を訴えていた。
「なら……蕎麦だ」
アインが何の迷いもなくそう口にした。
「渋っ……!」
マチュが思わず目を見開いた。
「いや、もっとこう……“視察です”とか言って、料亭で会席料理とかじゃないの?」
「観光地において、蕎麦は文化でもある。地域の味覚を知ることは、視察における基本です」
「いやいやいや、地球圏動かしてる軍政大将の思考じゃないよ、それ……」
マチュがツッコミを入れると、隣のドゥーが「ふふん」と言いたげな顔で、彼女にドヤ顔を向けてくる。
「アインは、もともと“普通の人”だから」
「……なにそのドヤ顔……てか、だからって調子に乗るなー!」
マチュがドゥーの額を軽くはたくと、ふたりはくすくすと笑い合いながら蕎麦屋へと入っていった。
観光地価格とはいえ、蕎麦の値段は意外にも良心的だった。
冷たいざる蕎麦、山菜そば、天ぷらそば──。
木の香り漂うテーブルに湯呑と箸が並び、各々が頼んだ蕎麦が次々と運ばれてくる。
……が、その中で異彩を放つ人物が一人。
「いただきます」
淡々と告げたアインは、まるで水を吸うかのように、一気に一人前を完食した。
次に──二人前目。
そして三人前、四人前。
「え、ええええぇ!?!? 全部食べたの!?」
マチュが絶叫するころには、アインの目の前には“空のざる”が整然と並んでいた。
「食べ終わりました。きな粉アイスと、抹茶アイス、それと……わらび餅をお願いします」
追加注文までさらりと口にするその姿に、全員が一瞬、箸を止めた。
ミネバは頬に手を当て、静かに微笑む。
「ふふ……なんだか、可愛らしいわね」
ニャアンは口を半開きにしたまま、呆然。
ドゥーは「いつも通りだけど?」と言わんばかりに腕を組み、満足そうに眺めている。
そして数分後、アインがわらび餅を一口頬張り──
「山菜そば、もう一杯お願いします」
「まだ食うの!?!?」
マチュの魂のツッコミが、箱根の蕎麦屋に木霊した。
◇◇◇◇◇
食後の満腹感と、身体の芯に染み込むような疲労。
アイン・ムラサメは、旅館の露天風呂へと足を運んでいた。
湯気の立ち上る湯船に、静かに身を沈める。
眼前には雪の残る箱根の山々が広がり、淡く白い吐息が空へと昇っていく。
頭に乗せた手拭いが、ゆっくりと湿気を吸っていった。
金髪碧眼のその姿は、まるで絵画のような美しさを湛えていたが──湯に沈めた肩から腕の角度、石の縁に置かれた手拭いの扱い、そして天を仰ぐ視線の静けさ──そこには明確な“日本人としての所作”が宿っていた。
「……やはり、こういうのはいいな」
漏れる声は小さく、誰にも届かない。
軍政大将の入浴に際し、旅館側は露天風呂を特別に貸切とした。
「そんな大げさな」と本人は言いつつも、断り切れなかったのが実情だ。
無人の湯船に一人、ようやく肩の力を抜いて浸かる静謐の時間──
……だったはずなのだが。
「わぁっ、あったかそ〜〜っ!」
脱衣所の扉の向こうから、賑やかな声と足音が押し寄せてきた。
首を傾げるアインの視線の先で、勢いよく引き戸が開く。
「アインーっ、混ざっていい!?」
真っ先に飛び込んできたのは、ドゥーだった。
すでにタオルで身体を隠しつつも、気配だけは全開で湯船へ向かって駆けてくる。
その背後には、困惑顔のミネバ、やや引き気味のニャアン、そして悪ノリ気味のマチュの姿もあった。
「……待ちなさい、ドゥー」
アインの声が、静かに、だが明確に響いた。
「えっ……だめ?」
「いや、入るのは構いません。ただし──先に身体を洗ってからにしなさい。温泉のマナーです」
「……そっち!?」
ツッコミを入れたのは、動揺の色を隠せないニャアンだった。
「それは……まぁ、正論だけどさ……」
慌ててドゥーの腕を引っ張るマチュ。
「混浴とかじゃなくて、そもそも衛生面ってか、そういうとこ気にするの……大将……」
「当然です。日本式入浴には、順序と作法がありますから」
アインの即答に、ミネバが微笑みを浮かべる。
「では、私たちも。身体を洗ってきましょう」
「ふぅん、ちっこいのにちゃんとしてんじゃん」
マチュが言えば、ミネバはすかさず涼しい顔で返す。
「躾は、されておりますので」
──洗い場。
桶を取って頭からかぶるマチュ。
「ちょ、ちょっと! 胸触んなって!」
「…………デッカ…」
素直すぎる敗者の呟きを洩らすドゥー。
その横で、そっと胸を見下ろして小さくガッツポーズをするニャアン。
「…よし、勝った……ッ!」
なにに勝ったのか本人にもよくわからないが、テンションは高い。
その一方、誰よりも冷静なミネバはすでに髪と身体を手早く洗い終えている。
「さすがはお嬢様……」
感心するマチュの横で──
「わっ、泡がぁああッ!? ニャアン、どいて! 滑るっ!」
ズザッ!
ドゥーが洗い場で泡まみれになり、ニャアンと一緒にすってんころりん。
「いったぁ……」
「ぬれネズミなんですけど……」
一方その頃、露天風呂の縁に身を沈めたままのアイン。
背を石の枠に預け、空を仰ぎ、まどろみかけていた。
耳に届く、少女たちの賑やかな声と湯の音。
視線を向けることなく、ただ耳だけでその光景を感じながら──
「……平和だなぁ」
ぽつりと洩らしたその言葉は、誰にも聞かれず、湯けむりの彼方へと消えていった。
◇◇◇◇◇
風呂上がりの火照った肌がようやく落ち着いてきた頃。
旅館の和室には、浴衣姿の五人が卓を囲んでいた。
「……それじゃ、いくよ。ババ抜き、スタート」
マチュの掛け声で始まった勝負だったが──
──誰もカードを引かない。
いや、引こうとするのだが、誰もが引こうとした相手の“心理”を一瞬で見抜いてしまう。
気配、手の動き、視線、ほんの微かな表情の揺れ……強化人間とニュータイプに囲まれてしまっては、単純なゲームも推理合戦と化してしまう。
十数分経っても勝負はつかず、場は沈黙と睨み合いに包まれた。
「……だめだ、終わらない」
アインが静かに札を伏せると、マチュも項垂れる。
「カンが良すぎんだよ、みんな……!」
「むう……そもそも、カードが喋ってるようなもんだし」
ドゥーが首を傾げる。
「じゃあ、神経衰弱?」
次に試されたそれも、似たような結果に終わった。
五手先を読むかのごとき記憶力と直感の応酬により、あまりにも緊張感に満ちた展開に、逆に誰も笑えなくなっていく。
──ならば、と最後に試されたのが将棋だった。
その結果、完全な一人勝ちを収めたのは軍政大将、アイン・ムラサメである。
「角換わり腰掛け銀、詰みまで十二手。ありがとうございました」
「ぐぬぬぬぬ……!」
「ちょっとは手加減して……っ!」
──結局、トランプも将棋もダメ。
やることがなくなってしまった四人が畳の上にごろごろと転がり始めたころ、アインは静かに座布団に背を預け、目を細めていた。
「……やることがないのは、いいこと、なんだけどなぁ」
誰に言うでもなく呟かれたその言葉に、ほのかな安堵と困惑が滲む。
だがその瞬間、悪巧みを企むような目つきでニヤリと笑ったのはマチュだった。
「ふふふ……、こういうとこ来たらさ、やることあるでしょ?」
手に取ったのは部屋備え付けのテレビリモコン。
ピッ、と電源を入れると、最初に映ったのは地元局の夕方ニュースだった。
《──本日の特集は“若き軍政大将アイン・ムラサメ、その横顔に迫る”》
画面に映ったのは、黒と金の正装軍服を身に纏い、キリッと引き締まった表情で演説するアインその人だった。
「……うわっ、すごいギャップ」
マチュがテレビと浴衣姿の本人とを見比べて、目を丸くする。
──確かに、今のアインは浴衣姿で、表情もどこか柔らかい。
湯上がりで髪がまだ湿っているほどで、演説時の凛然とした軍人の面影は微塵もない。
「同一人物とは思えない……」
「今、目の前にいるのに、なんかすごく不思議な気分だよね」
ニャアンとドゥーがぽそりと呟く。
だが、当のマチュは特に興味もなさげにチャンネルを次々と回しはじめた。
「……どこか、もっと面白いの、面白いの──っと」
バラエティ、ローカル情報番組、子供向けアニメ──と切り替えていくその指先が、ある瞬間で止まる。
「……っしゃあ!」
何かを掘り当てたマチュが声を上げた。
そして空かさず聞こえたのは、いきなり響き渡った女性の喘ぎ声。
「──ッ!? な、なにごとッ!?」
半分寝かけていたアインが電撃のように起き上がったとき、そこにあったのは──画面一杯に広がる、例の、旅館ならではのアダルトチャンネル。
「……おいマチュ」
新聞紙を手に取ったアインの姿には、一切のためらいがなかった。
丸めた新聞紙の柄が、無言のままマチュの頭上に──ズバァッ!
「あたたっ!? なにすんのよ、軍政大将が新聞刀とか器が小さ……!」
「子供がいるのに、何を回してるんですか……!」
冷静な怒気すら滲む叱責と共にリモコンを奪い返し、ニュースチャンネルへと戻すアイン。
しかしその声の裏で──
「ふぎゃっ!? にゃ、ニャアン!? 指の隙間からガッツリ見てるじゃん!」
「み、見てないもん!?」
「……ふぅん、ああいうのが……なるほど……」
「興味持つなドゥー!!」
とにかく、部屋の空気はしばしカオスだった。
──テレビの画面には、再び報道特集が流れ始める。
《──こちらは、先週完成したヱクセリヲンです。2番艦“エグゼリオ”も既に最終調整に入っているとのことです、まだ正式発表はされていませんが、ついに我々人類は銀河系へ進出するための船を完成させたのです──》
「……もう完成してるのに、まだ発表しないの?」
マチュの問いに、アインは静かに頷いた。
「三月中旬に式典予定です。先に“シロガネ”の式典を済ませて、お偉方の機嫌を取っておいた方が、後々が楽ですから」
「なるほど。あー、やだやだ。なんか政治ってめんどくさい」
「それが政治というものです」
ミネバが“ミネバ・ラオ・ザビ殿下”としての気品を漂わせながら言い切る。
だがその直後、アインの手からリモコンをスッと抜き取ると──
「せっかくの休暇なのですから、仕事の話は禁止です」
ピッ、とテレビを消した。
「……了解しました」
アインは、少しだけ苦笑して、素直に頷いた。
◇◇◇◇◇
露天風呂の余熱が残る体を、ゆったりとした浴衣が柔らかく包んでいた。
アイン・ムラサメは静かに障子を開け、旅館の一室、広縁の椅子に腰を落とす。
目の前に広がる空は地球の大気に遮られながらも、仄かに宇宙の気配を残していた。
淡く滲んだ月光が硝子越しに床を照らし、静寂の空気を一層際立たせる。
何もない、ということが、これほどまでに贅沢に思えるとは。
そのまましばらく宇宙を眺めていると、ふと、障子がわずかに音を立てて開いた。
「入るよ、大将」
現れたのは、マチュだった。
髪はまだ少し湿っており、彼女もまた浴衣姿。
手にはすでにプルタブを引いた缶ビールが握られていた。
「日本の法律では、お酒は二十歳からですよ」
やんわりとした口調で注意するアインに、マチュは肩をすくめて返す。
「関係ないよ。私はスペースノイドだし……っていうか、もう二十歳だし」
「じゃあ問題ないですね」とアインが応じると、マチュは自分の飲みかけのビールを差し出した。
「でさ、そんな黄昏れて何してんの?」
言いながら、アインの隣に腰を下ろす。
受け取った缶からひと口含むアインに、マチュは茶化すように笑う。
「未成年じゃなかったの~?」
「連邦の懇親会で、魑魅魍魎に飲まされるんです。平気ですよ。……それに、もう僕も未成年じゃありませんから」
そう言って、再び夜空を見上げるアイン。
その視線の先には、月と、霞んだ星々と、あるいは彼だけに見えている未来の影があった。
彼は静かに語り始めた。
「一年前、僕はただの少尉で、ムラサメ研究所の強化人間でした。命令に従って、戦って……それだけの存在だったんです。でも、気がつけば、階級が上がって、責任が増えて、気づけば戦争の終結や地球圏の秩序、未来の構想まで背負うようになっていて」
マチュは黙って聞いていた。
「……たった一年。けれど、一生分働いたような目まぐるしさでした。こうして“なにもしない”という日が来ると、ふと考えてしまう。“まだ一年か”って」
アインの声は穏やかだったが、そこには澱のような疲労と、感情が滲んでいた。
「だからこそ、働き詰めの方が気が楽だって思ってしまう自分がいて……。そういうの、ちょっと、嫌ですね」
「ふーん……」
マチュは静かに返事をした。
そして、缶ビールを交互に飲むうちに、その内容量はみるみる減っていき――
「……あー、なくなっちゃった」
と、マチュがこぼした。
「冷蔵庫に、まだしこたまありますよ」
アインの淡々とした返答に、マチュは一拍置いて笑う。
「……なんだ、用意いいじゃん。……てか、今日、帰れないじゃん」
「返さないって言ったら?」
からかうでもなく、静かな声音で。
マチュはむっとした顔でアインを睨む。
「……スケベ」
そう言いつつも、彼女は立ち上がり、冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出した。
そしてそのまま、今度はアインのすぐ隣──肩が触れ合う距離に腰を下ろした。
再び缶を開け、今度は黙ったまま回し飲みを続ける二人。
ゆるやかに、けれど確かに、互いの肩が寄りかかり、頭まで預け合うようになっていった。
その缶が、マチュの手元から、ころん、と転がり落ちた。
「……あ、ヤバッ」
思わず顔を上げたマチュの目に映ったのは──
月明かりに照らされたアインの横顔だった。
浴衣の襟元から覗くうなじ、頬に宿る仄かな赤み、そして金髪の下で透けるような瞳。
その横顔があまりにも“きれい”すぎて。
マチュは、思わず──
唇を、重ねていた。
不意の接触に、アインはわずかに目を見開いたが、拒むことはなかった。
むしろ、次の瞬間には、今度は彼の方から静かに、もう一度唇を重ねた。
長くも短くもない、けれど確かに想いの通うキスだった。
口づけのあと、そっと目を開けたマチュは、少しジト目でアインを見た。
「……スケコマシ」
「そうですね。酔ってるのかも」
「なら、仕方ないなぁ」
そう呟いたその声に、責めるような色はなかった。
むしろ、照れと許しと、ほんの少しの嬉しさを滲ませながら──
マチュは、もう一度、アインと唇を重ねた。
箱根の夜は、まだ静かに、ふたりの上に流れていた。