夜の帳が明けきらぬ早朝、障子の向こうから射し込む曙光が、薄く淡い光の帳となって部屋を包み込んでいた。
古い柱のきしみ、静かな湯宿に漂う檜の香り。鳥のさえずりすら遠く、まだ世界は眠りの中にある。
その静寂を縫うように、一室の布団には二人の若者が、そっと寄り添うように身を横たえていた。
──アインと、マチュ。
布団は浅く乱れ、肌蹴た浴衣の合わせ目から、夜に交わされた熱の名残が、まるで空気に染み込んでいるようだった。
重なった足。
絡み合った指先。
互いの呼吸が交わるたびに、確かにあった昨夜の温もりを想起させる。
唇が触れ合い、肩を寄せ、肌を重ね──その瞬間には、誰も気づかぬ優しさと、年齢に似つかわぬ静かな覚悟があった。
それは、戯れでも、刹那の衝動でもない。
戦場を、政治を、未来を担ってなお、人として求め合い、確かめるような時間だった。
彼女の小さな肩が、まるで離れまいとするように、アインの胸元へと自然に寄り添っていた。
彼はその肩を壊さぬよう、静かに呼吸し、目を閉じて夜の帳を越えたのだった。
床には転がる六つのビール缶。
それは酔いの象徴というより、二人が少しずつ距離を縮め、心の襞を撫で合った証だった。
──たった一晩のこと。
けれど、永く張り詰めていた心の糸が、ゆるやかにほどけたような夜だった。
「お互い、二十歳だよね」そう囁くように確認しあったあの時間は、どこか夢の中の出来事のようでもあった。
朝。
アインはふと目を覚ますと、すぐ隣で眠るマチュの寝息を聞いた。
彼女の頬は、まだ少しだけ赤い。
昨夜の熱と、あのビールの名残だろうか。
その横顔を一瞬だけ見つめたのち、アインは静かに布団から身を抜いた。
掛け布団を直し、彼女の肩が冷えぬようにそっと包み直してやる。
音は立てない。
「……静かですね」
誰にも聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた声が部屋に溶ける。
その声には、どこか安堵と、少しの照れ、そしてほんの僅かな、幸福が混じっていた。
思えば、自分がこんな朝を迎えるとは、数ヶ月前までは想像もできなかった。
戦争と陰謀と政治と──そのすべてが日常だった日々の中に、こんな柔らかな時間が訪れるとは。
肌を通じて得られた安らぎは、何よりも確かな“生きている”という感覚だった。
息を吐くアインの目は、穏やかで、どこまでも澄んでいた。
眠るマチュの髪を指先で軽く撫でた。規則正しい寝息と、ほんのり色づく頬。
疲れと満ち足りた余韻の狭間で眠るその横顔は、どこか子供のようにあどけない。
──彼女は、自分を拒まなかった。
その事実に、アインの胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……ん」
撫でる指先の感触に、マチュが小さくうなった。ゆっくりと瞼を開けて、眠たげな目でアインを見上げる。
「……おはよ。なに、起きてたの?」
「ええ。少し早く目が覚めてしまって。……まだ眠れそうですか?」
「んー……頭、ちょっとぼーっとする。でも……なんとかなるかも」
苦笑しながらも起き上がろうとするマチュに、アインは手を貸した。
布団をのけると、互いに薄い浴衣の胸元がふと緩み、熱の残る肌に朝の空気がふわりと触れた。
「……お風呂、入ろっか。なんか汗……気になるし」
「ですね。部屋付きの露天風呂、ちょうどいいかもしれません」
言葉を交わしながら立ち上がろうとした瞬間だった。マチュの足がふらつき、重心を崩す。
「──っと!」
アインが支えようと手を伸ばしたその刹那、ふたりは柔らかな布団の上へと一緒に倒れ込んだ。
目を見開くマチュ。
浴衣の胸元がわずかにはだけ、思わず顔を背けるアインの頬が、赤く染まっていく。
「な、なにジッと見てんのよ……!」
「いえ、僕は……見てないつもりなんですが……その、視界に」
アインの困惑に、マチュも同じく顔を真っ赤にする。
だがそれは、不快ではなく、むしろどこかくすぐったい照れの色だった。
互いの鼓動が伝わるほどの距離。
昨夜の記憶が、ふいに、ふたりの間に甘く立ちのぼる。
マチュがぽつりと呟いた。
「……また、スる? なんてね。冗談、冗談」
けれどその言葉に、アインは言葉を返さず、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
耳まで赤く染まり、喉仏が小さく上下する。
──本当に、冗談で済ませられるのか。
そんな風に、自分を律するような沈黙。
その様子を見たマチュは、ふっと目を細めて、くすりと笑った。
「……なにそれ。アインって、ほんと可愛いよね」
そう言って、彼女はアインの頬に片手を添え、もう片方の手で浴衣の袖を握ったまま、そっと唇を重ねた。
驚いたようにわずかに目を見開くアインだったが、拒むことはしなかった。
むしろ、静かに目を閉じ、彼女の唇へと自分の意志で触れ返す。
互いにそっと、確かめ合うようなキス。
ふたりの間に流れる空気が、また少しだけ熱を帯びた。
やがて離れた唇の距離が惜しくて、アインの方からもう一度、マチュへと唇を寄せた。
それに応じるように、マチュの腕がアインの首に回る。
そのまま、浴衣の襟元が、そっと指先でほどかれていく。
「……朝風呂、後ででいっか」
マチュがそう囁いた時には、もうアインは何も言わずに、彼女をそっと抱き寄せていた。
ゆっくりと、布団へと引き戻されるふたりの影が、朝の光に優しく包まれていく。
昨夜と同じではない、でも確かに繋がっている──そんな、静かな続きの時間が始まろうとしていた。
◇◇◇◇◇
箱根の山並みを見下ろすようにしつらえられた、小さな露天風呂。
木造の縁に囲まれた湯船には、まだ朝の靄が薄く漂い、湯の表面には柔らかい光がきらめいていた。
宿の庭からは、かすかに草木の香りが混じる湯気が立ち上り、空気はひんやりとしていて、それが肌をなぞる湯のぬくもりを際立たせていた。
アインは背もたれに軽く体を預け、ふぅ、と一つ静かに息を吐く。
その肩に、重なる温もり──マチュが寄り添うように座り、湯に頬まで浸かりながら、彼の腕にそっと手を添えていた。
「ねぇ、こういうのって……なんか、不思議だよね」
ぽつりと呟くマチュの声は、湯気に溶けるように静かで、でもどこか微笑んでいる気配があった。
「何がですか?」
「んー……昨日の夜まではさ、ちょっとだけ、緊張してたのに。朝になったら、すっごく落ち着いてるっていうか……ふたりで、こうしてるのが、すごく自然で」
「……それは、僕も同じかもしれません」
アインは、湯に浸かる自分の指先を見つめながら、柔らかく頷いた。
昨夜の熱と鼓動がまだ体の芯に残っている。
けれどそれは、情熱というより、今は静かな満足感と安心に近かった。
マチュはその肩に、さらに頭を寄せる。
頬に触れる肌の温度が、今の自分の心の温度とぴたりと重なっている気がして、思わず目を閉じた。
「アインってさ、ほんと変わったよね。……いや、もとから変わってたけど」
「どういう意味ですか、それ」
笑いながらアインが返すと、マチュも小さく肩を揺らした。
「前はさ、もっと“遠い”感じだった。なんかこう、戦ってて、抱え込んでて……。今はちゃんと人間してるっていうか。ちゃんと“手が届く”感じになったっていうかさ」
アインは、少しだけ目を伏せて、その言葉を胸の奥で反芻する。
──手が届く。
その言葉が、少しだけくすぐったくて、でも嬉しくて。
「……それは、マチュが近づいてきてくれたからですよ」
素直な口調だった。
その声に、マチュはふいに視線を上げる。
朝の光が差し込む中で、少しだけ頬を染めたアインの横顔は、どこか儚げで、それでいて凛とした強さを纏っていた。
「……あんた、たまにズルいって言ってるの、ほんとわかるでしょ?」
「自覚はあります。けど、マチュがズルいって思えるくらい近くにいてくれるのも……僕にとっては、大事なことです」
そう言って、アインはそっとマチュの手を握った。
湯の中で繋がる指先。
その温もりが言葉よりも確かに伝わってくる。
「……ずっと、こうしてたいな」
マチュがそう呟くと、アインは小さく笑った。
「……できますよ。たぶん、これからは」
「ほんと?」
「僕が……“ちゃんと生きていれば”、きっと」
その言葉に、マチュは少し驚いたように瞬きをして、そっとアインの手を握り返した。
強くではない、ただ優しく。
まるで“ありがとう”と“これからも”を一つにして包むような、穏やかな力だった。
まだ、朝は始まったばかり。
けれど、この一日のすべてが、すでに満たされているような錯覚さえ抱く。
木の葉が風に揺れ、ひとひら、紅がかった葉が湯面に落ちる。
寄り添ったふたりの間に、言葉よりも長く、静かな時間が流れていった。
◇◇◇◇◇
朝の柔らかな光が、障子越しに淡く部屋を照らしていた。
旅館の朝食処──畳の上に並ぶ座卓と、四人分の湯気立つ和膳。
炊きたてのご飯の香りと、味噌汁の香ばしさが空腹を刺激し、緩やかな空気に包まれていた。
まだ朝の早い時間帯。最初に部屋へ現れたのはミネバとドゥーだった。
ミネバは浴衣をきちんと着こなし、髪も丁寧に整えている。清楚で落ち着いた佇まいは、まるでこの空間の空気そのものを整えるようだった。
ドゥーはというと、明るい表情を浮かべながらミネバの後ろについて歩いてくる。眠気の残る目元をこすりつつ、「ふぁ……」と控えめに欠伸を漏らしていた。
「いただきます、の前に──あと二人ですね」
ミネバが静かに座卓に向かいながら言う。
その直後、障子が控えめに開かれ、ふたりが現れた。
アインと──マチュ。
ふたりとも、湯上がりの柔らかな空気を纏っていた。
髪にはまだわずかに湿り気があり、浴衣姿も整ってはいたが、どこか揃いの気配がある。
「……あ」
ドゥーが気づくのは早かった。
「ふたりで朝風呂入ってきたの? ずるい!」
率直な抗議のような声。アインは少しばつが悪そうにしながらも笑って軽く頬をかいた。
「おはようございます。少し、早起きして入りました。申し訳ありません」
「ほら、大将も謝ってるんだから怒んないの」
と、マチュは茶目っ気のある笑みを浮かべ、ドゥーの頭を軽く撫でた。
「ま、早起きと大人の特権ってことで、ね」
言いながらアインの方に視線をやる。
ふたりの間に流れる視線の温度を、ミネバは見逃さなかった。
何も言わず、ただその空気を受け止めるように一つ頷き、温かく微笑む。
──そして、もう一人。
ニャアンは、まだ朝食に手もつけていなかった。
ぼうっと箸を持ったまま、視線は座卓の上を泳いでいる。
昨夜──マチュは「ちょっと飲んでくる」と言って部屋を出た。
戻った気配はなかったし、朝になっても布団はそのままだった。
そして今、アインと一緒に朝風呂を終えて現れた彼女は、どこか“満たされた女の顔”をしていた。
(……やっぱり、そうなんだ)
マチュの頬には柔らかな赤みがあり、言葉の端々には余裕のある艶っぽさが混じっている。
アインもまた、どこかいつもと違う雰囲気を纏っていた。
ふたりの距離感、目線、呼吸の合い方……なにより、自然すぎる“共有された空気”に、ニャアンは胸の奥をざわつかせていた。
──あたしじゃなくて、マチュだった。
そう思うと、胸がちくりと痛んだ。
アインはあたたかい。
誰にでも優しいし、誰の話にも耳を傾けてくれる。
けれど、だからこそ、どこか“本当に近くなる”には一歩が遠くて──。
(……でも、もしあたしも……)
妄想が頭をよぎった。
アインに抱かれるって、どんな感じなんだろう。
あの優しさに包まれたら、自分はどんな顔をするんだろう。
そんなことを考えていたまさにその時──
「大丈夫ですか?」
思考を断ち切るように、ふいに肩に触れる手。
アインだった。静かに、けれど優しく覗き込むように声をかけてくる。
「っ……な、な、なんでもないっス!!」
びっくりしたニャアンは、座卓から滑り落ちそうになりながら立ち上がると、思わずマチュの方へ駆け寄った。
──あの妄想がバレた、と思った。
まさかこんなタイミングで声をかけてくるなんて。
心臓が飛び出るかと思った。
「おやおや~? なに焦ってんの、ニャアン」
マチュは意地悪そうな顔をして、顎に指をあてる仕草。
その目は完全に“察している”。
「まさか……エッチなこと考えてた? あのタイミングで声かけられてビクッて、なんか怪しいな~?」
「そ、そ、そんなことないもんっ!!」
「へぇ~? じゃあなんで顔まっかかなぁ~?」
からかいながら、マチュはさらにニヤニヤと距離を詰めてくる。
ドゥーは味噌汁を啜りながら、「おいし〜」と一言、無邪気な彼女は相変わらずである。
ミネバはというと、笑顔を崩さないまま、茶碗を口元に運びつつ、ちらりとニャアンの方を見た。
その視線には──静かな好奇と、ほんの少しの心配が滲んでいた。
「もう……っ! バカ!」
ニャアンはそれだけ言い捨てて、自分の席へと戻る。
頬が紅く染まるその様子に、今朝のお味噌汁の湯気がそっと重なった。
「……あちっ」
味噌汁の湯気が目に染みたわけじゃないのに、ニャアンはそう呟いて、ゆっくりと箸を置いた。
和膳の上に並ぶ料理──焼き魚、卵焼き、小鉢に入った煮物。それぞれに心を込めた品々で、きっと美味しいのだろう。でも今は、口に運んでも味がしない。
(……やっぱり、そうだったんだ)
ふたりで風呂上がりに現れたマチュとアイン。
あの肌の艶、距離感、空気──なにより、マチュの満たされたような表情。全部が、昨夜の出来事を物語っていた。
妄想が膨らむ。
アインは優しい。普段からそうだ。
きっと、ベッドの上でもそうなのかもしれない。
大切に、大事に、抱きしめるようにして──そんな風に。
でも、一方で──。
(強化人間で、男の人で……それに、ずっと戦ってきた人)
そんな彼が、もしスイッチが入ったらどうなるんだろう。
冷静な仮面を外して、理性を飛び越えたら、ベッドの上では“ヤクザ”みたいな激しさで攻め立ててくるのでは──?
「……っ」
思わず足を閉じる。
隣ではドゥーがもぐもぐと卵焼きを頬張っていて、何も気づいていないようだが、ニャアンの頭の中はすっかり妄想の渦に呑まれていた。
(っていうか……)
心の底にあったものに、ようやく気づいてしまう。
──マチュに置いていかれたくない。
──アインが誰かのものになってしまうのはイヤだ。
好き、ふたりとも、大好き。
だけど、その「好き」が、どんな形をしているのか、言葉にはできない。ただ──
(仲間外れは……イヤ)
その気持ちが強かった。
ただの妬みじゃない。
独占欲と、依存と、寂しさと、全部がぐちゃぐちゃになって心に詰まっていた。
じゃあもし、マチュとアインに挟まれて──三人で、なんてことになったら。
(……ちょっと、いいかも)
マチュの熱いキスとアインの腕の中で、ふたりに包まれて、抱かれる自分。
そんな妄想が、するりと頭の中を過ぎった瞬間、ニャアンは自分の中のどこかが「ふにゃ」と蕩けるのを感じた。
「……あたしって、ホントバカ」
小声で呟き、味噌汁椀を手に取る。
すべてを──妄想も、独占欲も、情けない自己嫌悪も──熱々の味噌汁で流し込むように、そっとすする。
塩気が、胃の奥に広がった。
その味は──少し、しょっぱかった。