機動警察パトレイバー:魔法少女、特車二課に着任す 作:ゆきざかな
午後の湾岸は、肌寒かった。
特車二課のヤードには、昼下がり特有の鈍い日差しが乾いた地表を斑に照らしていた。
空には雲が広がっていたが、雨の気配はない。
港の方角からは低く長い汽笛が響き、干潮のにおいを含んだ風が海から吹き込んでくる。
その風にあおられて、整備棟脇の青い無地のターポリンがひらりと揺れ、バタバタと不規則な音を立てていた。
整備棟に鎮座するのは、赤いラインで彩られている白い見慣れぬレイバー。
イングラムに似た輪郭を持ちながら、全体的に簡素で、関節周りの構造も露骨に省略されている。
コックピットから直接視認できるキャノピーが特徴だが、遊馬曰く心ともないとの評だ。
機体の名はエコノミー――実際にはイングラムの廉価レイバーに過ぎない。
イングラム1機を下取りに出せば10機は買えるとのことだ。
だが、今日の設定は違う。
そして、第二小隊の面々がぞろぞろとエコノミーの周りに集まる。
誰もがいつも通りに見えて、どこか、ほんのりギクシャクしていた。
遊馬は腕を組み、難しい顔をしてレイバーを見上げ、太田は無言で額に手をかざしエコノミーを眺める姿に。
熊耳は端末を開いて情報を読み込むふりをし、泉はハッチの上に立ち、操作パネルを調べているように振る舞っていた。
山崎と進士はエコノミーの足元で機器を調べているふりをする
整備棟の空気は、張りつめていた。だがそれはこの機体のせいではない。
これから慣れないことをする面々の緊張からだ。
やがて、整備棟の入口からミーシャ・アウレリアが姿を現す。
制服の裾を揺らしながら、まっすぐ歩いてくる。
彼女はレイバーの前に立ち止まり、ひと息置いてから、静かに告げた。
「……篠原重工が開発した、新型術式レイバーの第一号試験機ですね。
外部装甲こそ旧式機の流用品ですが、内部構造は完全に刷新されています。
術式を遮断するアンチラミネート構造、術痕の検出も可能な新型センサーの搭載。
さらに、詠唱を妨害する無音領域の展開機能まで備えています。
……術者が相手でも後れを取るどころか、むしろ優位に立てる性能でしょう」
その声に、遊馬が頷いた。
「明日、湾岸第十七ドックの実験区画で挙動安定性のテストを実施予定だ」
山崎と進士が後に続く。
「確かここから北の橋を渡ってすぐの広大な空き地だったと思います」
「はい、本庁との立会いで、午後二時と通達がありました」
その隣で、太田が首をかしげ、うなるように問いかけた。
「……で、第一小隊は明日予定入っているんだろ? 明日の警備はウチだけってことか?」
その問いに、熊耳は目を細め、わざと無関心そうに言い放った。
「非公式のテストよ。関係者以外知られていない……下手に黒い手の男なんかに襲われたら面倒だしね」
その言葉に、泉が大げさに頷いた。
「うん。せっかくの対術者レイバーを破壊されたら、洒落にならないよね。
この前の爆破事件の術者なんか、絶対来てほしくない!」
少し言い過ぎたかと気づいたのか、泉は口元を引き結び、レイバーから視線を逸らした。
その様子を見ていた遊馬は、思わず心の中で「あちゃー……」と呻いた。
顔には出さなかったが、声色から抑揚から、大げさすぎるぞと遊馬は指摘したかった。
とはいえ、今さら止めるわけにもいかない。
遊馬は何事もなかったように話題を流す構えを取った。
「……まあ、そんだけ重要ってことだな。
どっちにしても、万が一のために俺たち第二小隊だけできっちり守るしかないわけだ」
そして――ミーシャ・アウレリアは、最初の一言以降発声せず、その場に静かに立っていた。
その目は、他の誰とも違っていた。
彼女の視線は、仲間でもレイバーでもなく……空の一点を、顔を向けずに横目でじっと見つめていた。
その瞬間だった。
風も光も変わらぬ中で、ミーシャの瞳がかすかに動く。
空に浮かんでいたそれ――
だが、周囲の誰にも、その存在は見えていなかった。
あれが見えていたのは、ただ一人、ミーシャだけだった。
その透明な輪郭が、ふっ、と霧のように淡く揺らぎ、やがて完全に消え去る。
ミーシャはそっと息を吸い込み、静かに宣言の言葉を口にした。
「……黒い手の術式《
ミーシャの静かな宣言とともに、張り詰めていた空気が一気にほどけた。
それまで黙っていた隊員たちが、思わずいっせいに息を吐く。
泉は肩から力を抜いてしゃがみ込み、「ふう~~~~~っ」と大げさに声を漏らした。
「む、無理……緊張しすぎて変な汗出た……!」
泉の脱力を尻目に、熊耳は演技で使用した端末をしまいながら、軽く首を回した。
「ま、なんとかバレずに済んだ……と思いたいわね」
進士は汗でずれ落ちかけた眼鏡を直しながら真顔で言う。
「泉さん、ちょっと『絶対来てほしくない!』があからさますぎて怖かったです」
「えっ、うそ!? 本音っぽく言ったつもりだったのに!」
と泉が慌てて言い返すと、すかさず遊馬が手をひらひらさせながら茶々を入れた。
「いやー、あの調子で絶対って言われたら、逆に敵が興味持ちそうな気がするからいいんじゃね?」
「うう、余計なこと言わなきゃよかった……」
と泉がうなだれると、今度は太田がぶっきらぼうに言った。
「ふん、芝居なんかしなくても、俺が正面からかかってこいっと叩きつければよい話だ」
「はいはい、脚本無視しないの!」
と熊耳がいつも通りに注意する。
そのやり取りを聞きながら、遊馬がため息をついた。
「全員、演技に向いてないな……ってか俺もか」
「ぼくは本番に強い方じゃないんで……」
と山崎が真顔でぼそっと漏らすと、全員が微妙な顔になり――
次の瞬間、全員が顔を見合わせて、吹き出した。
「……ダメだこりゃ」
遊馬がそう言って頭をかいたとき、ミーシャが一歩だけみんなの方に近づき、小さく口を開いた。
「いいえ、そんなことはないですね。皆さん結構良い演技でした」
その言葉に、第二小隊の面々はそれぞれ、どこか気恥ずかしそうに頷いた。
ミーシャはもう一度だけ、静かに空中を見上げる。
もうそこに視線はない。
その手応えに、彼女はそっと目を閉じた。
――ここまで、計画通り。
すべての始まりは、爆破事件の当日夜の隊長室だった。
◆
昼間の爆発事件の興奮も落ち着きはじめた特車二課。
徹夜を覚悟した整備班の嘆きと、機械の修理音だけがわずかに響いていた。
日が沈んだばかりの隊長室には、その音すらすっかり飲み込まれている。
壁に掛けられた時計が、静かに「コッ」と針をひとつ進めた。そのわずかな音でさえ、やけに際立って聞こえるほどだった。
書類をめくる紙の音。椅子の脚がわずかに軋む音。
それだけが、後藤喜一という男の時間の証明だった。
火をつけることのないタバコを、無意識のように唇に咥えたまま、後藤は書類に目を走らせていた。
デスクの片隅に積まれた報告書――いずれもやや湿気を含んで、少し波打っている。
海沿いの建物ではよくあることだ。
彼の視線の動きに、感情はほとんど乗っていなかった。
ただ、次へ、次へとページを繰る。
それだけの所作に、妙な静謐さがあった。
その時――
小さく、だがはっきりと、ノックの音が響いた。
「……いいよ」
間を置かず返された声は、相変わらずの気の抜けた調子だった。
だが、扉の向こうにいた者は、礼儀正しく一拍の間を置いてから姿を現した。
ミーシャ・アウレリア。背筋を伸ばして静かに入室する。
ゆっくりと歩みを進める彼女は、一言も発しない。
無言のままデスクの前に立ち、きっちりとした敬礼をしてみせた。
そのまま、目を合わせるでもなく、彼女の視線は脇のパソコン画面へと向けられていた。
後藤はその仕草をいぶかしみつつも、咥えていたタバコを指先でくるくると回しながら、視線をパソコンへ移した。
画面には、第二小隊オフィス共用端末からの新着メールの通知。
差出人は――ミーシャ・アウレリア。
内容を開いた後藤の目が、ゆっくりと文章を追っていく。
▽
拝啓 後藤隊長殿
突然のご報告にて失礼いたします。
本日の事件において、私の感知する術式にて不可解な挙動を確認いたしました。
この挙動から判断し、術式《スクライニング》の術式が行使されている可能性が高いと考えられます。
現時点において、私は黒い手の男による断続的な監視下に置かれているものと推察されます。
術式《スクライニング》は、対象の近距離に透明な感覚器官を出現させ、見聞する術式です。
効果時間は約10分。術式レベルも5と高く、かなりの熟練者でも1日2回が限界とされています。
そして、この術式は関係が近いものほど成功しやすく、私を対象にした場合ほぼ失敗はないでしょう。
なので、今後もおそらく私を見るように使用すると思われます。
これに対抗する手段として、《シー・インヴィジビリティ》、つまり不可視を視認できる術式を用いることで、感覚器官の有無を把握し、逆探知的利用も可能です。
つまるところ、当該術式の作動中に限り、私の存在を通じて意図的に偽情報を流す等の対抗措置が可能になると考えられます。
以上、取り急ぎご報告申し上げます。
敬具
警視庁警備部特科(特殊)車両二課 第二小隊
ミーシャ・アウレリア巡査
▽
整いすぎている文面。硬すぎる言い回し。
まるで模範解答そのままだ。
おそらく彼女は、ここの本棚で見つけたビジネスメールの教本か何かを読み、そのサンプル文を鵜呑みしたのだろう。
後藤は思わず口元を緩め、苦笑を漏らした。
ゆっくりと顔を上げると、そこにミーシャの姿はもうなかった。
いつの間にか、無言で退出していたのだ。
……いや、当然か。と、後藤は心の中で頷いた。
この文面からして、彼女はすでに見られていることを前提に動いていた。
ならば、言葉は不要。無言で去る方が余計な情報を与えずに済む。
報告をメールで済ませたのも、そのためだ。
筒抜けになる会話より、文面のほうが術式の目と耳をすり抜けられる。
「……おそらく、大柄な山崎あたりの影を使って書いたな」
その場にいたわけでもないのに、後藤にはなぜか、はっきりと思い浮かんだ。
オフィスの一角、共用端末の背後――
探知感覚器官の死角になるよう、山崎がさりげなく立ち位置を調整している。
その陰に身を隠し、ミーシャが無言で端末を操作している姿が、すっと脳裏に浮かんできた。
ミーシャが去っていたそのドアに向かって、後藤は楽しげに呟いた。
「……へえ。見てるってわかってるなら――見せたいものをこっちから流せるってわけか」
火をつけないままのタバコが、口元でふるふると揺れる。
後藤の目には、どこか愉快げな光が灯っていた。
「いいね。芝居は得意だ。――よし、みんなで演じようか」
立ち上がった後藤は、デスクの受話器を取った。
迷いのない動きで番号を押し込む。
「すみません。特車二課の後藤ですが、松井警部補がもし――」
その声が電話線を通じて遠ざかっていく頃には、
湾岸の夜の帳が、ゆっくりと建物を包み込もうとしていた。
◆
――そして、時は再び現在へと戻る。
近くの倉庫の端に眠っていた共用部品取り出し用のエコノミーを引っ張り出し、所定の位置に配置する。
あらかじめ各自の演技と動きを決めておき、ミーシャは《シー・インヴィジビリティ》でみんなの視界外で監視を担当。
《スクライニング》による透明監視器官を見つけたら、ミーシャがそのまま視界外から合言葉で知らせる。
合図と同時に、全員がミーシャの視界外を通ってエコノミー周囲に配置される。
そして、最後にミーシャが《スクライニング》の「目」を連れて、堂々と登場という段取りだった。
思い思いの感想に盛り上がっているさなか、不意に整備棟の裏手から足音がした。
ふらりと現れたのは、後藤喜一。隊長であり、仕掛け人でもある男だ。
ズボンのポケットに手を突っ込み、歩調も気だるげなその姿に、思わず遊馬が口を開いた。
「……本当に、あれで釣れたんですかね?」
それは率直な疑問だった。
敵が、ここまでの芝居を本気で信じたのかどうか――。
すると後藤は、整備棟を見上げるようにして答えた。
「来るさ。明日、所定の場所に……七分、いや八分くらいの確率でな」
その声音には、不自然な力みはなかった。だが、確信のような何かがこもっていた。
「……術式《スクライニング》って、一日二回、合計二十分しか使えないんでしょ?」
進士が半ば呆れたように言う。
「そんな貴重な術式、ここを覗くために簡単に、使うものなのですか?」
後藤は、「おっ」と声を漏らしそうな表情で、目を光らせた。
まるでいいところに気がついたとでも言いたげな顔だった。
「だからこそ、使ったんだよ。
限られた時間しか覗けないなら――その短い時間で、本人にとって最も価値ある情報を拾いに来る」
後藤の視線は、誰を見るともなく、整備棟の天井の鉄骨へ向けられていた。
それは、あの今までの記憶をなぞるような眼差しだった。
「わざわざ第二小隊しかいない日を狙って、金庫の扉を粉砕し、証言者まで残していく。
まるで、アウレリア以外にも術者がいますよとアピールするかのようにな。
そして――次も同じだ。
第二小隊だけが動いている日を選び、隊員を襲い、アウレリアを術式で監視する……」
後藤は指を空中でくるくる回しながら、視線を細めた。
「……状況的に見ても、彼女がここに来る直前のときも、似たようなものだったのだろう。
わざわざ幻術まで使ってお膳立てし、アウレリアに狙いすました不幸を降りかからせた。そう考えるのが自然だ。
どうにも、こいつは――彼女に固執してる。
それも、ただ事じゃない執着だ」
短く息をついて、後藤は言葉を継いだ。
「つまりだ、黒い手の男に取って。巡査とその関わる事柄が一番欲しい情報なのさ」
「目立つのが好きで、挑発が好きで……何より、自信家だ。こっちを完全に舐めてやがる。
そんな奴が、巡査に執着して、何度もこそこそ覗き見しては、ちょっかいを出してくる。
だったら――わざとらしいエサでも、きっちり撒いてやればいい。きっと飛びついてくるさ」
遊馬は、内心で唸った。
今回の一連の作戦――それが、敵のプライドを逆撫でするよう綿密に仕組まれていたことに、ようやく気づいたのだ。
張られた舞台。与えられた主役。演出の一つひとつが、黒い手の男をその気にさせるための仕掛けだった。
そんな遊馬の感心を読み取ったのか、後藤はおどけるように両手を軽く上げ、わざとらしく笑って見せた。
「とまぁ、勝手な推測だがね……ま、コケたらそのときは別の策を考えるさ」
アウレリア巡査以外の術師がいてテロまがいのことをやった。
事情を知っている政府上層部や庁内は大慌てだろう、だが、特車二課以外は術式絡みの事案に対して明確なマニュアルを持っていない。
だったらこちらから早急に動くしかなかった。
遅ければ市民に被害が及ぶ。
ならば、多少の無茶も、賭けに出るしかない――
後藤はそうした現実を口には出さず、ただ冗談めかした言葉で濁してみせる。
いつものように――肩の力を抜いた、軽い笑みの裏に、本気を潜ませながら。
その瞬間、不意に背後のドアが開いた。
現れたのは、福島課長。書類の束を片手に、疲れたように目元をこすりながら、聞き捨てならないと歩み寄る。
「ったく、こんな面倒な芝居、二度は勘弁してほしいよ、後藤くん」
後藤は口元で笑い、軽く課長に手を挙げて返す。
「感謝してますよ、課長。隊長の無茶な上申、ちゃんと上に通してくれたんですから。
うちの隊、嫌われてるんで、裏口からじゃないといろいろ動けなくてね」
その軽口に、福島課長はわずかに眉をひそめたあと、ふっと笑った。
「やるって決めた以上、言い訳は通じんぞ。――特車二課の意地、見せてみろ」
短く放たれたその言葉には、芝居ではない本気の期待が込められていた。
この期に及んでなお逡巡を見せる上層部に抗い、福島課長は現場を預かる責任者としての矜持をもってこの場を整えてきた。
その誇りは、彼の声の端々ににじんでいた。
後藤はしばし無言でその視線を受け止めた。
からかうでも、ごまかすでもなく――真正面から。
そして、ゆっくりと右手を上げ、きびすを返すようにして敬礼を送る。
「……了解しました、課長」
その背中を見ていた第二小隊の面々も、次々と姿勢を正した。
遊馬が最初に敬礼し、太田が続き、他のみんなも静かに右手を上げる。
整備棟の空気が、厳粛な空気で張り詰める。
さっきまでの芝居がかったやり取りはもうそこにはなかった。
◆
夜の特車二課棟は、海から吹き込む潮風にわずかに軋む音を立てながら、静かに沈んでいた。
建物の輪郭が、月明かりに淡く照らされている。日中の喧騒とは打って変わり、今はただ、深く、重い静寂だけが漂っていた。
第二小隊オフィスに灯る明かりの下には、三人の人影があった。
山崎ひろみは、明日に向けて必要な機材のリストをチェックしている。
背の高い体を小さく折りたたむようにして、作業用端末と格闘する姿は、普段よりいっそう頼もしく見えた。
進士幹泰は、テーブルに広げた一枚の明日の術式リストを静かに見つめていた。
その横に立つのは、グリーンの瞳を落ち着かせるように瞬かせる少女――ミーシャ・アウレリア。
数分間、三人の間には言葉らしい言葉はなかった。
進士はリストを目で追いながら、明日の展開を、戦術の可能性を、頭の中で組み立てていた。
しかし、ある一点でその視線が止まる。
リストの最終行――そこには、新たに追加された術式と、その簡潔な効果説明が記されていた。
その記述を前に、進士の目がわずかに細められる。
そして静かに、言葉を選びながら、問いを投げかけた。
「……最後の一式。変更するなら、今のうちですけど」
ミーシャは進士の問いに、ほんの一呼吸おいて、しかし揺るがぬ声音で答えた。
「必要です。……たぶん、明日は」
それだけだった。余計な説明はなかった。だが、その短い言葉には確信が宿っていた。
進士もまた、それ以上を問おうとはしなかった。
ただ、頷いてその言葉を受け入れる。そして、穏やかに目を細めながら無言で応じた。
そのやり取りを見守っていた山崎が、作業の手を止めて立ち上がる。
大柄な体を揺らしながら、ゆっくりと彼女の背後に近づき、やさしく、しかし力強く言葉をかけた。
「アウレリアさんがそう決めたのなら。それでいいと思います」
その声に、ミーシャは思わず微笑みそうになった。
何度となく、この優しい巨人に、勇気をもらってきたことを思い返す。
だが、次の瞬間には、その表情を静かに引き締める。
軽く目を閉じ、額にそっと指先を当てた。
進士は、その所作を見てすぐに察した。
「この前の術式感知、もう一度見せてください。レポートにするので」
進士は、ミーシャのやりたいことを先取りし、もしすでに監視されていても違和感がないように、術式を促す。
そのやりとりに言葉はいらなかった。隊員同士の呼吸は、すでに整っていた。
ミーシャは、瞳を閉じたまま、低く、息を吐く――
「
術式の感覚が捉えようとするのは、見えざる視線の器官――《スクライニング》による目の存在。
数秒間、ミーシャは沈黙のまま周囲を見回した。
だが、視界に何も映らない。気配もない。
「……今は、いません」
静かにそう告げてから、ミーシャは一度部屋の外へと出ていった。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、金属製の細長い棒――通称「先生棒」と、リモートアクチュエータが握られていた。
このリモートアクチュエータは、手元の操作で機器のボタンを遠隔から押すための装置だ。
術式で作成された「先生棒」は、感知範囲内にいると邪魔なため外に置いていたのだ。
ミーシャはそっとその二つを山崎に差し出す。
「山崎さん。今夜中にお願いしたいことがあります。
多分、その術式があっても一対一になったら……勝てないと思いますから。もう一押し用意します」
その声には、恐れも、不安もなかった。
宿命に押しつぶされることも、迷いに足を止めることもない。
ただそこにあったのは――自分に託された役割を果たそうとする、未来への渇望だった。
◆
誰も足を踏み入れない、廃ビルの最奥。
外界から遮断されたその空間は、音も温度も、色彩すらも失われていた。
天井も壁も、奥行きも定かではない。
ただひとつ、そこに確かに存在していたのは――中央の床一面に描かれた魔法陣だった。
幾何学的な紋様が精密に刻まれ、淡い紫の光が脈動するように灯っている。
それはまるで、この空間に心臓があるかのような錯覚を覚えさせた。
蝋燭も灯りもないはずの空間に、わずかな明かりをもたらしていたのは、陣の周囲に浮かぶ微細な魔力の光。
それらは風もない中をふわりとただよい、かすかに軌跡を描いていた。
その魔法陣を、ひとりの男が見下ろしていた。
灰色のローブを纏い、陰影に溶け込むように椅子に腰を下ろすその姿は、まるで影そのもののようだった。
そしてその男の胸元には、新たにペンダントがかけられている。
ペンダントの中心部には、五本指を揃えた黒い手が浮かび上がるように彫られており、
その指先がわずかに動いているように見えたのは、単なる気のせいではなかったかもしれない。
それは、信仰の印ではない。忠誠でもない。
破壊の使徒であることを示す――烙印だった。
そのペンダントを首にかけるということ――
それは自分こそがこの世界に死をもたらす者であると宣言する行為だった。
男は片膝を立て、その上に右肘を乗せる。
その手は、光を一切通さず、漆黒の石のように冷たく沈んでいる――慈悲という概念すら塗り潰された黒い手だった。
口元にはかすかな笑みが浮かんでいる。
だが、目は笑っていなかった。
黒い手の男――この異常な空間に、異様な静けさと不気味さを纏わせる存在。
「……新型レイバーの試験運用……ね」
誰も返事をしない。
それも当然だ。男は、答えを求めてなどいなかった。
わずかに肩が揺れ、息がもれる。それは笑いともため息ともつかぬ、あいまいな感情の発露。
「たとえ見破られているとしても構わない――
そう承知のうえで、あえて仕掛けて来ているのだろう。
……自信があるなら来い、そう言いたいわけだ」
男は静かに目を細める。
思考は冴え、言葉は静かに毒を含んでいた。
「たしか、後藤……だったか。理詰めの情報分析と現場由来での勘、その両方を器用に使いこなす指揮官。
ソード・コーストでも、ここまでやる奴はなかなかいなかったよ」
皮肉めいた口調でその名を呟くと、笑みはわずかに歪み、冷ややかさを増す。
次の瞬間、魔法陣の一部が脈打ち、淡い明滅とともに低い唸りが立ち上がる。
「でもね――こっちにも切り札があるのさ。この世界に来る前に、神官様から盗んだアーティファクト級の禁断の召喚陣」
床からじわじわと湧き上がる魔力のうねり。
紫の光がゆらめき、陣の縁が静かに輝きを増していく。
「あんなおもちゃ……機械の騎士だかなんだか知らないが、こいつをぶつければ一発だ。
せいぜい正義とやらにすがってみるんだな――無力な、幻想にすぎないそれに」
魔法陣の中央に、まだ何も存在していない。
だが、何かが来ようとしている気配は、空気のひずみとなってこの空間全体を満たしていく。
空中に一つ、また一つと、魔術文字が浮かび上がる。
それは古く、精緻で、そして……おぞましいまでに邪悪だった。
「来たまえ……この世界に」
男が囁くと同時に、陣の縁が光り、空間そのものが軋むような震動をはじめる。
重力の向きすら変わってしまったかのような感覚。
魔法陣は鼓動のようにドンと強く脈打ち、次の瞬間――
何かが、返事をした。
空気が重くなる。空間が圧し潰されるような威圧感。
それでも男は微動だにせず、むしろ両腕を軽く広げ、その圧を歓迎するかのように微笑んでいた。
「ふふ、いい子だ……でも、もう少しだけ待っていてくれ。明日、君にふさわしい相手がいる場所へ呼び出してあげよう」
彼の声には、すでに狂気に似た喜びがにじんでいた。
「ミーシャ・アウレリア。こいつで君の騎士の最期を、その目に焼き付けてやろう。
そしてそのあとで……絶望の海に沈んだ君の命を、この手で摘み取ってやる」
その瞬間、魔法陣の光が一度だけ激しく跳ね、そして沈んだ。
空間が闇に呑まれていく――異世界から来た狂信者が、世界の理をねじ曲げる。明日は盛大な祭りとなるであろう。
《スクライニング》 ―― 念視
呪文レベル:5レベル
キャスト時間:10分
コンポーネント:詠唱(V)、身振り(S)、材料(M:焦点具として水晶玉・銀の鏡など、価値1,000gp以上)
持続時間:10分(要・集中)
あなたは、同じ次元界にいる特定のクリーチャーを1体選び、その存在を視覚と聴覚で観察できるようになる。
対象は【判断力】セーヴィング・スローを行い、あなたがその対象をどれだけ知っているか、あるいはその対象との物理的なつながり(髪の毛や私物など)によってセーヴ難易度が修正される。
セーヴに失敗した場合、呪文は対象の10フィート以内に「透明化されたセンサー」を出現させ、そこを通してあたかもその場にいるかのように見聞できる。
「透明化されたセンサー」は目標の位置に合わせ移動する。
対象がセーヴに成功した場合、この呪文の効果は及ばず、その対象に対しては24時間は再使用できません。
〇対象に対する知識修正値
間接的な情報(うわさ程度、聞いたことがある):+5(=セーヴしやすくなる)
直接会ったことがある(一度でも会った):±0(=変化なし)
親しい関係・深い知識がある(親友、長年の敵など):−5(=セーヴしにくくなる)
〇対象との「物的なつながり」による修正
あなたが所持している物による修正値
肖像・似姿(写真、絵など):−2(=セーヴしにくくなる)
所有物・衣服など(最近使った物など):−4
身体の一部(髪の毛、血、爪など):−10(=非常に効果的)
《シー・インヴィジビリティ》 ―― 不可視視認
呪文レベル:2レベル
キャスト時間:1アクション
射程:自身
コンポーネント:詠唱(V)、身振り(S)、材料(M:物質:滑石粉一つまみと、銀粉一振り)
持続時間:1時間
呪文の持続時間の間、通常の視覚のまま、不可視状態のクリーチャーや物体を見ることができる。
それらは半透明の姿で視認される。
また、エーテル界に存在するクリーチャーや物体も、あなたの視界内に入っている範囲で視認できる。