機動警察パトレイバー:魔法少女、特車二課に着任す   作:ゆきざかな

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第20話:戦いの果てに――盾として立つ者たち

 民間人が入れぬ封鎖された交差点。

崩れかけたアスファルトの中央に、異形の影が二体、のしかかるように現れている。

 

 それは巨大な岩の塊だった。

身の丈は五メートル弱と、レイバーに比べれば一回り小さい。

だがその胴体は強固な岩塊のように重々しく、腕はまるでビルの梁、脚に至っては建築杭そのものだった。

全身が黒曜石と花崗岩を混ぜたような硬質な外殻に覆われ、動くたびに岩が擦れる不快な轟音を立てる。

 

 アースエレメンタル――魔術によって呼び出された土の精霊の戦士。

物理攻撃に特化し、特にレイバーのような構造体との肉弾戦を得意とする、最悪の相手だった。

 

 対するは、特車二課第一小隊。

AVS98――イングラムの後継機2機。

211号機に石和巡査部長と212号機に古賀巡査が、それぞれのコックピットに、搭乗している。

 

「くそっ、こいつら……岩のくせに、ちゃんと構えてやがる!」

 

 石和が叫ぶ。

正面のエレメンタルが腕を振るい、路面を叩き割った衝撃でレイバーが一瞬浮き上がる。

 

「踏み込みすぎないでください!  下手に組まれたら関節やられます!」

 

 古賀の警告が飛ぶ。

エレメンタルは感情を見せない。ただ、淡々と破壊行動を実行してくる。

 

 装甲を信じた突撃は、逆に破滅を招く。

すでに一発、石和機の左肩装甲が砕かれていた。

レイバーの堅牢さをもってしても、正面からの力比べでは分が悪い。

 

 だが、逃げる理由はなかった。

相手は二体。こちらも二機。

――同数なら、負けるわけにはいかない。

 

 脳裏をかすめたのは、かつての「黒いレイバー事件」だった。

対ハヌマーン戦――あのときは三機相手に、太田機を含むこちらも三機で挑んだ。

しかし古賀が一瞬の隙を突かれて二機がかりで倒され、さらに上層部の人間が人質に取られたことで、最終的に降伏という結末を迎えた。*1

 

 あれは、屈辱だった。

だが、今は違う――今回は、言い訳など通用しない。

 

 ここを突破されたら、封鎖区画の外――その先には、一般市民の生活圏がある。

たとえ一歩でも踏み込まれれば、直接の被害が出る可能性がある。

リボルバーも流れ弾の危険性があるので使えない。

 

 だが、それを止められなかったとあっては、警察としての矜持に関わる。

特車二課であろうと、通常の警察官であろうと、市民を守るという一点において、違いなどない。

 

 退けない。退いてはならない。

この場を守り抜くことが、彼らに課せられた最低限の使命だった。

 

「古賀っ、例のパターンで行くぞ!」

「了解ッ!」

 

 それは、先のハヌマーン戦で得た教訓から生まれた戦術だった。

古賀が倒されたあのときのように、今度は敵の連携にやられないよう注意し、逆にこちらが連携を駆使して各個撃破を狙う――そんな戦い方だった。

 

 石和機が囮役として、一歩前に踏み出す。

分厚い盾を構え、エレメンタルの注意を引きつける。

さらに、右腕の電磁警棒をしっかりと握りしめ、わざと大きく振り回して隙を見せ相手を挑発した。

 

 誘われたエレメンタルが石和機に、破壊の権化となる岩の拳を振りかぶる。

その瞬間――

 

「今だッ!」

 

 古賀機が、一瞬の隙を突いてもう一体のエレメンタルから距離を取り、反動を利用して跳躍した。

そのままエレメンタルの足元から腰、背中へと駆け上がり、勢いのまま後頭部へ膝蹴りのような加重突撃を叩き込む。

 

 鈍い衝撃音が響き、岩の巨体がぐらりと揺れて倒れ込んだ。

同時に、石和機が下から回し込むように右腕を振り抜き、電磁警棒をカウンター気味にエレメンタルの顔面へと叩きつける。

 

 石が砕ける鋭い音とともに、エレメンタルの片膝が崩れ落ちる。

巨体は地面に叩きつけられ、亀裂の走ったアスファルトごと沈み込んでいった。

 

 残る一体も、すかさず対応に回る。

二機のレイバーが縦横無尽に入れ替わり、交差しながら正確な打撃を繰り出していく。

変幻自在のその動きに、エレメンタルの腕はただ空を切るばかりだった。

AVS98――イングラムの次世代機。その高性能に加えて、熟練の操縦技術が合わさった今、まさに鬼に金棒と言えるだろう。

 

 息を合わせた動きは、まるで双頭の獣のようだった。

そして――最後の一撃は、石和の電磁警棒が頭部に突き刺さり、エレメンタルの魔力核を砕いた。

 

 巨体が、崩れるように沈黙する。

土煙が舞い上がる交差点に、二機のレイバーが並び立った。

 

「……市民を守る戦いで負けるわけには、いかないからな」

 

 石和の息の混じった声に、古賀が軽く笑った。

 

「――当然です。俺たちは、警察ですから」

 

 その言葉が交差点に残る余熱の中で消えていく。

そこへ、無線が割り込んできた。

南雲しのぶの、いつも通りの落ち着いた声だった。

 

「こちら南雲。……石和君、古賀君。よくやったわ」

 

 一瞬、通信が静かになる。

それは言葉を選んだのではなく、感情を飲み込むための間――指揮官としての冷静さを崩さぬための、一拍の沈黙だった。

 

「すぐに機体チェック。済み次第、第二小隊の応援へ」

「了解!」

 

 二人の返事が重なった。

疲労の色は隠せないが、その声には新たな使命感が力強く宿っていた。

遠くには、炎の巨人とイングラムの激突が見える。そちらも、いよいよ決着の時が近いようだった。

 

 

 

 

 偽りのテスト会場は、すでに戦場だった。

地表は裂け、アスファルトがめくれ上がり、空気は熱と瘴気に焼かれ続けていた。

黒い煙と赤い炎が交錯し、都市の片隅が異界の断面のように染まりつつある。

 

 人の暮らす街の中に、明らかに人ではないものが顕現していた。

 

 身の丈、六メートルを優に超える。

構造物すら見下ろすその威容は、ただ巨大というだけでなく、周囲の空間そのものを圧するような存在感を放っていた。

 

 赤黒く輝く皮膚は、まるで焼けた鋼鉄のように硬質。

しかしその動きは、しなやかで俊敏――獣と戦士の二重性を併せ持つ異形だった。

背には炎をまとう灼熱の翼。

左手には巨大な魔剣、嵐を纏うように逡巡し、視界すら歪ませる。

右手には、生き物のように脈打つ炎鞭。まるでそれ自体が意思を持つかのように空を裂いて蠢いていた。

 

 その名は――バロール。

 

 魔界において、将軍級の戦闘存在として知られる破壊の魔族。

あらゆる次元戦闘で脅威とされ、存在自体が災厄とみなされる。

そのバロールが今、目の前にいる。現実に。東京に。

 

 その巨体の前に、真正面から立ち塞がるものがあった。

――モノトーンの装甲に包まれた、二機のレイバー。

人の理と技術が生み出した巨大な機械の騎士たち。

 

――イングラム1号機。泉野明、搭乗。

――イングラム2号機。太田功、搭乗。

 

 警察庁特車二課第二小隊所属の『イングラム』。

本来は治安維持のために作られたこの機体が、いま神話の悪魔と対峙している。

この国の都市のただ中で、現実と異界の境界が、今――試されている。

 

 コックピットの中で、野明と太田が息を揃え、視線を前に向ける。

その目には恐怖がないわけではない。だが、それ以上に強いものがあった。

 

 火花が走る。

 

 バロールの炎の鞭が振り下ろされ、衝撃波と共に紅蓮の閃光が弾けた。

その一撃を、イングラム2号機のクロスガード――両腕を交差して構えたシールドでなんとか受け止める。

 

 だが、ガードの上からでも威力は強烈だった。

シールドが一気にゆがみ、表面が焼けた飴のようにじゅうじゅうと溶けていく。

魔力による加熱と質量衝突のダブルパンチに、内部から金属の悲鳴が響いた。

 

 さらに反対側から繰り出される魔剣が1号機のそばで空を切る。

当たりこそはしなかったが、剣と同時に通り過ぎる雷撃はイングラムにとって致命的になるかもしれない。

 

「クソッ、全然ダメだ! 攻撃が鋭い上に威力がでかい! それに……熱い、生身だったら焼け死ぬぞ!」

 

 太田の怒声が無線に叩きつけられる。

機体越しでも伝わってくるバロールの体から発する異常な熱量。コックピット内は装甲がなければ灼熱地獄だろう。

 

「太田巡査! いったん距離を取って! 相手は飛行可能、今の位置は不利よ!」

 

 熊耳の冷静な声が通信を割って入る。

太田は舌打ちしながら不本意ながら後退する。

 

 その動きに合わせて、イングラム1号機――泉野明の機体も下がろうとした、まさにその時。

音もなく、空気を切り裂いて伸びてきたものがあった。

 

 バロールの右手。

まるで生き物のようにうねる赤い鞭が、蛇のようにイングラムのくるぶしへ巻き付く。

 

 絡まれたのはほんの一瞬だったが、足元から異音が響く。

コックピットの警告ランプが赤く点滅する。

装甲限界、油圧警告、電圧低下――無慈悲なアラートが泉の顔を照らす。

 

「泉さん、同じ箇所にもう一度は、絶対にやめてください。これ以上は、機体がもちませんから」

 

 進士の分析に悲痛な声が混ざる。長期戦はどうやら許してくれなさそうだ。

 

「やっぱり……あの鞭と剣に正面から向かうのは自殺行為!」

 

 泉が歯を食いしばりながら叫ぶ。

空中に浮かぶバロールの翼が、大きく羽ばたく。

そのたびに熱風が周囲を吹き抜け、空気が歪み、景色そのものが揺らいだ。

 

 圧倒的な力。

それでも、泉は冷静さを失わなかった。

その時、脳裏にある記憶がよみがえった。

 

――グリフォン戦。

 

 かつて遭遇した、異常な運動性を持つ黒いレイバー。

あのときも、純粋な性能の面では圧倒的にグリフォンが優位だった。

だが彼女は、ある一手でそれを崩したのだ。

 

「……そうだ」

 

 泉の目に、静かな光が宿る。

相手のスピードと火力に付き合わない。

真っ向からの戦いではなく、あのときのように殴りではいかない。

口元が引き締まり、目の奥に、闘志が燃え始めていた。

 

「私が寝かせる。――太田さん、顔面にブチ込んで!」

 

 その言葉と同時に、泉は機体からリボルバーを抜き取り、太田機へと渡す。

無線の向こうからは、一瞬の静寂を挟んで――太田の豪快な笑い声が響いた。

 

「言ったな! 撃つぞ、全弾ぶち込むからな!」

 

 その声に、泉は思い切り息を吸い込み、叫んだ。

 

「来なさいよ、魔界の将軍様!!! シゲさん! 飛行術式、解除お願い!」

「がってんしょうちぃい!!!!!」

 

 応える声はどこか楽しげですらあった。

整備班主任斯波繁男のドカンというボタンを叩く音が、無線越しからも聞こえる。

 

 レイバー改造案――“術式連動型推進補助翼”。

かつて、ミーシャが提案し、実験的に搭載されたそれは、今ようやく陽の目を見た。

 

 使い切り、時間制限あり。

だがこの一瞬――それで充分だった。

 

 魔術陣が機体の背中に展開され、そこから術式で構成された筋が伸びていく。

レイバーの背に広がる光の翼が、天使のように羽ばたいた。

 

 金属の巨体が宙を舞う。

今、この瞬間だけイングラムは、泉野明の意志で自由に空を飛ぶ――天翔ける騎士となった。

 

「行っくよおおおおおおおお!!!!」

 

 重力を振り切るように、機体は一直線に空中のバロールへと突進した。

大悪魔ですら虚を突かれたのか、わずかに動きが鈍る。

その一瞬の隙を逃さず、背後から全力で体当たりを叩き込む。

衝突の瞬間、広場全体が揺れるほどの轟音が響き渡った。

 

 イングラムのコックピットに熱気が充満する。

計器が狂い、警報がけたたましく鳴り響く。

だが泉は怯まない。

 

「――今だ!! 組み付けっ!!」

 

 アームが動く。

右腕がバロールの剣を握る手首をクラッチし、左腕がその腰に回り込む。

巨体を引きずるように――重心を制御し、地面へ向けて押し倒す。

 

「イングラム式・奥義――空中ッ! バックドロォォォォップ!!!!」

 

 鉄の巨体が、信じられない軌道で反転した。

空を裂く。大悪魔の身体が逆さになり、イングラムの全体重と推進力を乗せて――落ちる。

 

 音叉のような破砕音と共に、バロールの巨体が地面に叩きつけられた。

コンクリートが砕け、広場の床面がめくれ上がり、破片と黒煙が吹き飛ぶ。

バロールの身体が建物の一部をなぎ倒し、魔剣と翼をばらまきながら横転する。

 

 そこに――待ち構えるのはイングラム2号機。

すでに両腕にはリボルバーを2丁。

銃口は迷いなく、バロールの顔面へと向けられている。

 

 ゼロ距離。逃げ場はない。

太田功が、歯を剥いて吼えた。

 

「この野郎――現代の火力、舐めるなァァァァァ!!!!」

 

 金属弾が怒涛の勢いで叩き込まれる。

自慢の牙が砕け、肉体が削がれ、顔面がめくれ上がるように裂けていく。

 

「太田さん! 掴まって!」

 

 1号機が飛行術式の残滓を振り絞りながら、2号機を抱え込み上空へ離脱を開始する。

次の瞬間、バロールは断末魔の中、巨体をひしゃげさせて果てた。

 

 目と口から逆流する蒼白の魔力――悲鳴の代わりに閃光がほとばしり、直後、凄まじい衝撃が広場を襲う。

魔族の巨体は熱と衝撃波にのまれ、広場中に飛散した。

 

 灰と火の粉が夜空に舞い、灼けた風が湾岸を吹き抜けていく。

やがて、爆風が過ぎ去り、静寂が訪れる。

 

 黒煙が立ちこめる中、熱風で装甲の表面が所々剥がれた二機のイングラムが、無言でその場に立ち尽くしていた。

重苦しい静けさの中、泉野明がふっと力の抜けた声で通信を開く。

 

「ねぇ……レイバーで投げ技って……やっぱ無茶だね……」

 

 数瞬後、通信越しに返ってきたのは、普段よりも数段元気な太田の声だった。

 

「バーカ! 二回もやって、いまさら何言ってんだ!!」

 

 そして――二人の笑いが、無線に乗って湾岸の空に響いた。

 

 

 

 

 床には、かつて敷かれていた赤いカーペットの名残が、朽ちた島のように点々と散らばっていた。

その上には、砕けたガラスの破片、崩れ落ちた天井材、そして誰のものとも知れぬ紙資料が風に舞い、折り重なるように積もっている。

 

 壁に掛かっていたはずの案内板は落下し、裏返ったまま転がっていた。

その傍らに、小さな木札――「受付」の文字だけがかろうじて判別できた。

それは、この場所がかつて人の営みの場であったことをかすかに示していた。

 

 窓枠の割れ目から忍び込んだ風が、床の紙をひとひら持ち上げ、再び落とす。

遠くで、なにか古い金属の鎖が、ゆるく揺れる音がした。

 

 その朽ちたロビーの隅に、ミーシャ・アウレリアは立っていた。

 

 制服の肩は焦げ、袖口には裂け目が走っていた。

額には血が滲み、手はわずかに震えている。

視界はうっすらと霞み、瞳の光も濁っていた。

 

 向かい合わせに立ちはだかるは、黒い手の男。

その首元には、ひときわ目立つ、ベイン印のペンダントがぶら下がっている。

 

 抑圧と支配を信奉する、圧制の教義の実践者。

最初から、彼がすべての攻撃の主導権を握っていた。

 

 ミーシャにはわかっている、本気で殺そうとしていない。

その気ならこの小さな命など、すでに簡単に摘み取られているのだと。

ミーシャの意識は、その圧倒的な差に折れそうになった。

 

 それでも、彼女は堪えてきた。立ってきた。踏みとどまってきた。

足を地に着け、視線を逸らさず、呼吸を整えながら、敵を見据えていた。

 

『本当に……君は面白いな』

 

 それは、冷笑と好奇の入り混じった、嫌悪感を催す響きだった。

 

『技量で劣るくせに、欠陥品のまま勝てるとでも思ってるのかい?』

 

 黒い手の男が、羊毛を一つまみはじきながら《マイナー・イリュージョン(初級幻術)》の呪文を発動する。

 

「……うぁあぁ……あぁ……」

 

 その身振りに呼応するように、断末魔がミーシャの耳元に広がる。

それはかつての仲間、カリーンの声だった。

 

 過去の迷宮の惨劇が、まぶたの裏にフラッシュバックする。

仲間の叫び、焼け焦げた地面――そのすべてが、現実と虚構の境界を曖昧にしていく。

 

『君はもう、過去に人を殺した。それでもなお、手を汚すのを拒むのか?』

 

 男の声は愉悦に満ちていた。

だが、それは嗜虐心だけではない。どこか、憐れみに似た傲慢さすら感じさせる。

 

 ミーシャは、苦しげに息を吐く、呼吸は荒く喉が焼けるようだった。

だが、彼女は顔を上げる。

その目に、恐れはなかった。

 

 刹那――。

 

 遠く、彼方で轟音が響いた。

テスト広場の方向――雷のような破裂音、そして鼓膜にまで届く衝撃波。

魔力の流れが激しく震え、空気そのものがざわめいた。

 

 男がぴたりと動きを止める。

その鋭い目がわずかに揺らぎ、額をわずかに動かして遠方を意識した。

 

『……バロールが……? まさか、倒された……?』

 

 その呟きは、思わず漏れた思考の言葉。

瞳に、初めて戸惑いという感情が走る。

 

 額に血と汗をにじませたままのミーシャは、そのわずかな揺れを見逃さなかった。

冷ややかな眼差しで男を見据え、かすかに口角を上げフェイルーン共通語で発した。

 

『どうしたの? 怖くなったの? ――ねえ、もう少し近くで、その滑稽な顔を見せてよ』

 

 その彼女らしからぬ挑発に、男の目が細くなる。

足取りを慎重にしながら、じりじりとミーシャへにじり寄る。

怒りではない。恐れと警戒――明らかに、戦況が彼の側から傾き始めていた。

 

 男とミーシャの距離が、あと数歩というところ。

床に無造作に描かれている、ごく小さなマジックペンでの目新しい印が彼の足元にかかる。

 

「今です! 山崎さん!!」

 

 ミーシャが鋭く叫んだ。

上空、梁に取り付けられた細工からカチッという音が鳴る。

 

 それは、山崎によるリモコン操作だった。

彼は戦いが始まる前から、この建物のロビーから見えない死角に身を潜め、慎重にタイミングを計っていた。

緊張に満ちた空気の中、わずかな身じろぎも許されないまま、ミーシャからの合図を待ち続けていたのだ。

 

 そして今――山崎は手にしたリモコンのスイッチを、ためらいなくオンにした。

信号は天井の梁に設置されたマニピュレーターに伝わり、上空に浮かんでいる棒――今では親しみを込めて『先生棒』と呼ばれる《イムーヴァブル・ロッド(不動のロッド)》――のボタンを、機械が正確に操作する。

 

 その瞬間、《イムーヴァブル・ロッド》の空中固定機能が解除される。

ロッドに結び付けられ、青いビニールシートで覆われていた瓦礫――鉄骨、崩落材、コンクリートの塊――そのすべてが一気に重力の支配に囚われ落下していく。

 

 男が叫ぶ間もなく、全身を打ちつけるように巨大な瓦礫が襲いかかる。

罠だった。ミーシャは、この瞬間のためだけに、戦ってきたのだ。

 

「ア………ガ………!!!!!」

 

 男の膝が沈む。

ひしゃげた瓦礫に囲まれ、体勢を崩しながらもそれでもなお魔力を練ろうとする黒衣の男に、ミーシャが、全てを断ち切るように、術式を唱え始める。

 

 長い迷いの時は、終わった。

選んだのは――守るために、破壊を選ぶという選択だった。

その詠唱は、声に、意志に、力に満ちていた。

 

蒼雷よ、我が指先に集え(セリフィア・ザル・テンペリウス)!!」――《ライトニング・ボルト(電撃)

 

 瞬間、雷鳴のような轟音とともに、室内の空気が一気に圧縮される。

ミーシャのポーチから取り出された、小さくちぎられた毛皮とガラス棒――その隙間から、青白い光がほとばしり、空気を鋭く切り裂いた。

雷光と化した魔力の奔流が男の胸を貫き、その背から抜けた。

 

 目を見開く男。その瞳に宿っていた自信も、嘲りも、全てが砕け散る。

ローブの内側、胸元に抱えていた黒革の魔術書が、その勢いで外へ飛び出した。

爆風にあおられて焦げ付き、ページがめくれ、やがてゆっくりと千切れ落ちていく。

男は、ひとつ、咳のように乾いた笑みをこぼした。

 

『……なんだ、殺せるじゃないか』

 

 血の混じる息を吐きながら、それでもどこか愉しげに言葉を続ける。

 

『残念だけど……これはこれでよしだ。君が自分の意思で人を殺した――その傷は、きっと深く残る』

 

 かすれる声が、皮肉げに囁いた。

 

『……《ベイン》は、いつでも君を待っているよ……』

 

 その言葉を最後に、黒い手の男は、魔術書の灰と共に音もなく崩れ落ちた。

だが、ミーシャの顔に浮かんでいたのは勝利者の笑みではなかった。

ただ、静かに一言だけ、彼女はフェイルーンの共通語で呟いた。

 

『大好きな仲間を守ること――それが、私の全てに優先するの』

 

 ミーシャが「すべてが終わった」という合図を山崎に送ると、それを受けて山崎が物陰から飛び出してきた。

心配そうな表情で、真っ先にミーシャのもとへ駆け寄る。

彼女は、よろめく足を踏みとどまり、制服の襟元を直し、丁寧に頭を下げた。

 

「山崎さん。罠のタイミング、申し分ありませんでした。……すべて、そう、すべてが終わりました」

 

 額から血が伝い落ちる。

傷の痛みも、疲労も、全てを受け止めたまま――彼女は、深く一礼していた。

 

 その背後では、魔術書の一部が空中をふわふわと舞い、黒焦げ破れたページが、廃ビルのロビーから外へと、風に乗って滑るように昇る。

そして、吹き流されるまま黒い塵となり、空に溶けて消えていった。

 

 

 

 午後三時を過ぎた湾岸の空気は、冷たく澄んでいた。

海から吹き上げる風が、無人の屋上を撫でていく。

空はまだ明るく、陽射しは傾き始めているものの、青空には薄く白い雲が流れていた。

低くなりだした太陽の光が斜めに差し込み、ロビーの絨毯を淡い黄金色に染め上げている。

 

 遠くで聞こえる波音は、現実を引き戻すにはあまりにも穏やかで、まるですべてを嘘にしようとするかのようだった。

その光に照らされて、ひとつの影が地面に横たわっていた。

 

 黒衣の男。顔はわずかな歓喜に染められ、胸には焼け焦げた跡。

かつてベインの信徒を名乗ったその男。今は眼も口も黒い手も動かない。

 

 ミーシャ・アウレリアは、その傍らに静かに座っていた。

制服の肩には砂埃と煤が貼りつき、頭には包帯が巻かれている。

それは、山崎ひろみが慣れぬ手つきで施した応急手当だった。

 

 ミーシャはまるでその場に根を下ろすように、微動だにしない。

腕は膝に添えられ、背筋はかすかに丸められている。

 

 戦いは、数十分前に終わっていた。

 術式の余熱ももう感じられない。レイバーの駆動音も遠ざかり、警備線は既に再編され、現場は片付けに移行している。

 

 それでも、彼女はそこから動かなかった。

戦った相手のなれの果てを前に、ただ、そこにいた。

 

 山崎の「今こっちに向かっているみたいです」という声に対しても、ミーシャは小さく、首を縦に動かすだけだった。

 

 そこに――足音が近づいてきた。

風の音と同化するような足取りで、彼女の背後に現れたのは――泉野明だった。

 

「……あ、泉さん」

 

 山崎が声を上げるが、ミーシャは振り返らなかった。

その肩は静かに揺れていたが、それは風のせいか、それとも彼女の疲労の蓄積によるものかは、誰にもわからなかった。

 

 湾岸の冷たい風が、二人の髪を撫でていく。

ヘルメットを手に持ち、頬に火花の煤をつけたままの姿。

作戦の熱と緊張がまだその身体に残るまま、泉は言葉もなく、ゆっくりと彼女に近づいてくる。

 

 音を立てずに足を止めると、泉は黙って、倒れた男を一瞥した。

その視線には断罪も侮蔑もない。ただ、現実を受け止めようとする、強いまなざし。

 

 そして、彼女はミーシャに目を向ける。

その目には、詮索も、疑問も、答えを求める色もなかった。

 

 ミーシャはようやく口を開いた。

声は掠れていたが、確かだった。

ひとつひとつを噛み締めるように、丁寧に発せられる言葉。

 

「……この人は、死を……人の命を、ただの手段としてしか見ていませんでした」

 

 風がミーシャの包帯をひらりと揺らし、静かに舞い上がって、また肩に落ちる。

 

「……あの世界では、強い者がすべてを支配し、弱い者は沈黙する。

誰もそれを疑わず、誰も声を上げようとしない。

それが当然のものとして、当たり前のように受け入れられている。

――そういう理が、世界中のいろいろな場所に潜んでいます」

 

 彼女は少しだけ唇を噛みしめた。

噛みしめたのは、彼女がかつていた世界が持つ理と、今いる世界が持つ秩序、その狭間に立たされた者としての苦い選択だった。

 

「……その人がその理をこの世界に持ち込んだのなら……

その理を断ち切る責任は、その理を知っている私です」

 

 ミーシャは、静かに息を吐いた。

その吐息には、戦いの名残も、恐れも、安堵すらも感じられなかった。

顔を上げた彼女の瞳に、涙はなかった。勝利に酔う誇りもなかった。

 

「彼は、野明さんたちを……私たちの仲間を、殺そうとしました」

 

 彼女の指が、ほんのわずかに拳を握りしめる。

震えではない。そうすることでしか、気持ちを整えられなかったのだ。

 

「だから私は、止めました。……命を奪うことが、その手段だったとしても」

 

 その声は、沈痛だったが、逃げもなかった。

言い訳も、赦しを乞う言葉もない。

ただ選び、受け入れ、そして今――誰にも背を向けずに、そこに立っている。

 

 ミーシャが、もう何も言えなくなった時――泉は、ためらいなく、そっと歩み寄った。

音もなく、床に散っている砂を踏む音すら立てずに、彼女のそばに立つ。

 

 言葉はなかった。

ただ、そっと、静かに――ミーシャを抱きしめた。

細い肩を、そのままの勢いで引き寄せるのではなく、相手の心の重さを量るように、丁寧に、ゆっくりと。

まるで壊れものに触れるような、慎重で優しい力加減だった。

 

 ミーシャは、驚いたように一瞬だけ固まった。

けれど、次の瞬間には、その胸に顔を押し付けるようにして、小さな呼吸を震わせた。

息が乱れるほどでもなく、声が漏れるほどでもなかった。

けれど、それは紛れもなく、声を出さない泣き声だった。

 

 涙は見えなかった。だが、泉の胸元に当たるミーシャの指先が、かすかに震えていた。

その震えだけが、彼女の内に押し込められていたものを、そっと物語っていた。

 

 遠くではまだ、広場の方角で消火活動の灯りが回っていた。

炎は消え、警報も鳴り止んだが、赤と青の回転灯だけが、事件の余韻を今なお訴え続けている。

 

 けれど、見上げた空には、いくつもの雲が薄く流れていた。

冬の陽光に照らされたそれは、どこかのんびりとしていて――それでも確かに、澄んだ青が広がっていた。

 

 そして――その柔らかな陽射しの下で、泉の手が、ミーシャの背をゆっくりとさすった。

優しく。決して急かさず。言葉のないまま。

慰めるのではない。弱さを赦すのでもない。

ただ、今ここにあなたはいると伝えるためだけの、手のひらだった。

 

 ミーシャの声が僅かに空気を震わせる。

 

「……ありがとう、野明さん」

 

 泉は、その礼に応えるために、腕の力を少しだけ、強くした。

それだけが、返事だった。

その小さな抱擁が、この日の戦いで最も優しく、最も強い答えだった。

 

「さあ、帰りましょう。みんな待ってますよ」

 

 最後まで穏やかに見守っていた、山崎のいつもの柔らかい声が、二人をそっと包んだ。

それは、事件の終わりを告げる合図ではなかった。

誰かが戻ってこられる場所が、まだここにあることを、知らせる声だった。

*1
サンデーコミックス21巻 第19話イングラム




《マイナー・イリュージョン》 ―― 初級幻術
呪文レベル:初級呪文
キャスト時間:1アクション
距離:30フィート
構成要素:動作、材料(M:物質:少しの羊毛)
持続時間:1分
効果
術者は距離内に音か物体のイメージを持続時間の間作り出す。
この幻はアクションとして消し去るかこの呪文を唱え直しても終了する。

 音を作り出す場合、その音の音量は囁き声から叫び声までの範囲を取れる。
その音は術者の声や他者の声、ライオンの咆吼、ドラムのビート、あるいは術者の選択したその他の音である。
その音は持続時間中継続して鳴るが、術者は呪文が終了する前にその音を消し去ることができる。

 物体のイメージを作り出す場合―椅子や泥だらけの足跡や小さな箱のようなもの―、それは5立方フィート以内に収まっていなけれ
ばならない。このイメージは音も光も臭いもその他の感覚的効果も作り出さない。

 イメージへの物理的な干渉はそのものがすり抜けてしまうため、幻であることがばれる。

 もしクリーチャーが自身のアクションを使用してその音やイメージを見抜こうとする場合、そのクリーチャーは幻だと思う物を特定して【知力】〈探索〉判定を術者の呪文セーヴ難易度に対して成功させる必要がある。
もしあるクリーチャーがその幻を何であるか見抜いてしまうと、そのの幻はそのクリーチャーに対してはぼやけてしまう。

《ライトニング・ボルト》 ―― 電撃
呪文レベル:3レベル
キャスト時間:1アクション
射程:自身から100フィート
コンポーネント:詠唱(V)、身振り(S)、材料(M:物質:毛皮の切れ端と琥珀、ガラス棒、または水晶棒)
持続時間:瞬間
効果
一条の雷光が君が指名した方向に、幅5フィート・長さ100フィートの直線状となって炸裂する。
範囲内のすべてのクリーチャーは8d6の雷ダメージを与える。
敏捷度セーヴに成功でダメージは半減する。
範囲内の可燃物(着用・所持されていないもの)は着火する。
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