機動警察パトレイバー:魔法少女、特車二課に着任す 作:ゆきざかな
湾岸の風がようやく涼しさを含み始めた頃、特車二課の庁舎裏手では、ある恒例行事が静かに始まっていた。
まだ朝の9時半。陽は昇っているが、柔らかな光が地面に淡い影を落としている。地表には雑草がしぶとく根を張っていた。
静寂を破る音――シュッ、シュッ、と草を刈る音。
そんな中、特車二課第二小隊の庁舎裏手、ヤード奥に広がる空き地に、茶色の髪が美しい小柄な少女の姿があった。
ミーシャ・アウレリア――異世界より来訪した魔術師。国家公務員特例任用の元で、昨日仮配属されたこの地球の警察組織・特車二課の一員。
まだ新品の刃には朝露が光を反射し、小さく虹色の輝きを放っている。
彼女は黙々と草を刈っていた。丁寧に、慎重に。
◆
――時はほんの少し遡る。
朝の規定業務を終えた熊耳武緒は、運用マニュアルの作成方法について頭を巡らせながら、訓練資料の束を胸に抱えて廊下を歩いていた。
廊下の向こうからは、隊員たちの明るい会話が聞こえてくる。
熊耳の表情には、いつもの冷静さの中に、新たな課題への集中が浮かんでいた。
ふと、背後で少しかしこまった声がする。
「……あの、熊耳巡査部長。少し、よろしいでしょうか?」
振り返ると、そこには制服姿のミーシャ・アウレリア。背筋をぴんと伸ばし、なぜか顔がほんのり赤い。
きっちり結ばれたポーチの紐が、かすかに震えていた。
熊耳はそのミーシャの初々しい緊張ぶりを柔らかく受け止める。
「どうしたの? そんな改まって」
ミーシャはしばし言葉を選ぶように沈黙し、それから小さな声で、ゆっくり丁寧な口調で言った。
「その……雑草を、刈ってもよいでしょうか?」
「……え?」
まさかそんな要望が、飛び出すとは思いもしなかった。
新隊員の予想外すぎる申し出に、熊耳は平凡な反応しか返せなかった。
しかしミーシャは、そんな熊耳の戸惑いに気づく余裕もないまま、言葉を止めず、さらに次々と言葉を重ねていった。
「熊耳さんが昨日……特車二課で新入隊員は、周囲の雑草を刈り取る儀式を通過する……と言っていましたので……」
熊耳は一瞬きょとんとしたが、すぐに思い当たる節があった。
――昨日、訓練後の対話で、何気なく彼女に言ったひと言だ。
『まあ、特車二課ってのはね。新人はみんな、最初に雑草と格闘するところから始まるのよ。草を見て、仲間になるの』
確かに第二小隊と草むしりは、切っても切れない関係だった。
発足して三日ほどはレイバーが届かず、泉、太田、遊馬の当時の隊員全員で草むしりをしていたし、第三小隊の足掛かりとしてある警部補が出向してきた時も、やはり草むしりを全員で行った。
今でも雑草が伸びたら、暇を見てみんなで草むしりをする。
熊耳としては、それらを冗談半分の笑い話として軽口を叩いたつもりだった。
だが、ミーシャにとっては、それが業務依頼と受け取られたようだ。
彼女は熊耳の前に一歩踏み出し、真剣な眼差しで言葉を続けた。
「私は昨日付で、第二小隊の一員となりました。
それなので、その……雑草の刈取の儀式を通じ、特車二課の一員に早くなりたいと……」
ゆっくりだけど丁寧なミーシャの提案に、熊耳はぽかんと口を開け、それからふっと笑った。
「そんな神妙な草むしり初めて聞いたわよ。
……わかった。じゃあ、あそこに生えてるやつ、好きなだけやっていいわ。道具は倉庫にあるから」
「ありがとうございます……」
ミーシャが深く一礼し、足音も軽やかに駆けていく。その背中を見送りながら、熊耳は小さく呆れたようにつぶやいた。
「いや、そんな熱意で草を刈る子、前代未聞でしょ……」
数分後。ヤードの奥では、ものすごい集中力で雑草を根元からきれいに刈り取っていく、ミーシャの姿があった。
◆
その部屋は、午前の光が斜めに差し込む静かな空間だった。
後藤喜一は、隊長室の古いデスクにもたれ、手に持った紙コップのコーヒーから立ちのぼる湯気を、ぼんやりと目で追っていた。
その手には資料の束。だが、それはもう三十分前に読み終えている。
今はただ、意味もなく同じページを開いたまま、ややくたびれたソファに体を預けていた。
そこへ控えめなノック音が響く。ノックの直後に開いたドアから、規律正しい歩調で熊耳が入ってくる。
彼女の口元には、どこか抑えきれない笑みがにじんでいた。
「失礼します」
後藤はカップを持った手を止め、顔だけを上げて熊耳に視線を向けた。
本日は特別な訓練や行事もなく、小隊は静かな立ち上がりを見せている。
ミーシャも熊耳も、配属や復帰の手続きがまだ整ったばかりで、本格始動はこれからだ。
そんな中での熊耳の入室に、後藤の目には「面倒な話じゃなければいいが」という空気が、わずかににじんでいた。
「あれ? なんかあったの?」
そんな隊長の空気を察して、熊耳は少し目線を柔らかくする。
びしっと決めた敬礼を保持したまま熊耳は、微笑ましい報告を後藤に告げた。
「アウレリア巡査が草むしりを始めました」
隊長室の空気が柔らかく動いた。
後藤は一瞬動きを止めるが、経緯をなんとなく察してやれやれといった感想を漏らす。
「真面目なのは結構だけどよ……自分から草むしりやらせてください、なんて頼み込む新人は初めてだぜ」
後藤の口元に苦笑が浮かぶ。まさか異世界の魔術師が、初仕事に雑草相手の奉仕を選ぶとは。
だが、そのズレた真面目さが妙にツボに入るのも、特車二課という場所のせいかもしれない。
「ええ、私も彼女のその真面目さを好ましく思っています。思ったより早く、あの子は特車二課に馴染むかもしれません」
後藤はしばし黙考し、窓の外を見やる。敷地の奥の草むらに小さな人影が蠢いている。目を凝らすと草むしりに励んでいるのが見える。
その姿を見て後藤がニカっと笑う。
「ま、うちの新人が草むしりから始めるってのは、悪くない洗礼だ。
みんなを集めよう。新人隊員との初めての共同作業だ。もちろん全員参加でいこうや」
熊耳は敬礼を下し、笑みを隠さないまま足早に隊長室を出て行った。
◆
裏手の広場には全員が集っていた。
突然のことで面食らっている遊馬、首にタオルを巻いた野明、
素振りをする太田、黙々と鎌を磨く進士、そして、全員分の飲料水をクーラーボックスで用意してきた山崎。
後藤と熊耳に集められ並んだ顔ぶれは、ノースリーブのシャツに作業ズボンといういで立ちだった。
「えー、草刈りって確かにそろそろやんなきゃいけないけど……なんでミーシャちゃんが来た次の日に!? 急ぎすぎじゃない?」
野明が疑問を口にし、鎌を持つ手をくるくると回してみせる。
昨日の夜、小さく寂しさに震えていたあの少女が、今日は黙々と草を刈っている。
その姿を見て、泉の心配性な性分が顔を出す。
まだ配属されたばかりのミーシャが、気を張りすぎて無理をしているのではないか――そんな予感が胸をかすめた。
進士はいつも通りの落ち着いた声で説明した。まだミーシャの真意を計りかねている様子であった。
「いや、あれ、本人から申し出があったんですよ。熊耳さんに『雑草を刈らせてください』って。自ら名乗り出たみたいですね」
太田は目を丸くして、いきなり大きな声を上げた。
「な、なにぃ!? 自ら雑草刈らせてくださいだと!? なかなかのやる気の持ち主だな!」
根性論を好む太田にとって、己から進んで汗を流すという行為は、警察官に必要な美徳のひとつとすら感じていた。
潮風が彼の声を引き延ばすように空に溶けていった。
遊馬は、その経緯を聞いて肩をすくめてみせる。
「いや、真面目すぎるって。あの子、草むしりが警察官になるための通過儀礼だと思ってるよ、絶対」
その口ぶりには9割の呆れと1割の微笑ましさが混ざっていた。
ただ、このままだと全力で勘違いしたまま突っ走りそうな気もして、少し心配でもあった。
その視線の先で、ミーシャは相も変わらず、手元の雑草に集中している。
姿勢を低く保った、手の動きはとても正確で無駄がない。
「……でも、すごく丁寧に刈ってますよね。鎌の角度とか、プロのそれですよ……」
ひろみは、そんなミーシャの姿を見つめながら、やさしく語り掛ける。
同じ現場で汗を流す仲間として、自然とミーシャを受け入れだしていた。
「まあ、草むしりはみんなでやる、これが第二小隊の伝統ってもんだよ。
東大出身のエリートだろうが、特殊技能の任用者だろうが、例外はねえ。
さて、巡査一人に任せてちゃ悪いだろ? さっさと始めよう」
後藤の宣言とともに、全員が黙々と草をむしり始めた。
乾いた土と根の感触、草の匂い、風の音――みんなで共同作業を行うと、不思議と一体感が生まれていくものだ。
ミーシャは、一瞥こそしたが、何も言わなかった。
ただ、コクンと遠慮しがちに礼をして、再び自分の作業に戻る。
みんなで作業を進める中、遊馬は何か考えに至ったような表情を浮かべる。
手を止めずに、手際よく草を地面から分離させているミーシャを、ほんの少し見つめた。
確かに手際は良い。だが、昨日の魔術の腕前を見せられた後では、今日のこの姿にどうにも違和感がぬぐえなかった。
「……なあ」
その違和感に逆らえず小声で遊馬が進士に話しかける。
「ミーシャって……魔術師なんだよな?」
「ですよね」
その進士の肯定を受け入れ、遊馬はさらに心に住まう違和感に踏み込む。
「じゃあ、なんで魔法でやらないの? 草枯らす呪文とかないのかな」
その疑問に、太田がすかさず乗ってくる。その目にやんちゃさの光が渦巻いている。
「除草魔術……浪漫があるな!」
遊馬は笑いながらも、ちらりとミーシャのほうに視線を向けた。
あれだけの魔術を使える彼女が、ただの草むしりに汗を流している。
「そうそう、浮かせて燃やすとかさ。地面にドカンとかさ――しないんだ?」
遊馬はこの際だと、草刈りの概念と化しているミーシャにそそくさと近づき直接訊ねた。
「なあ、ミーシャ。聞いてもいいか? 魔法、使わないのか?」
「ひゃう!」
いきなり声をかけられ、ミーシャの体が小さくびくりと跳ねるように、10センチほど浮き上がった。
ひきつった顔のまま手を止め遊馬を見る彼女。
呼吸を整え表情を和らげ、考え込むように、そっと視線を落とす。
そして、真面目な声音で静かに答えた。
「あの……魔術は使うと、どうしても消耗してしまうのです。
消耗した後は、長い休憩を取らないと、なかなか回復できませんし……
なので、自分の手でできることなら、できるだけ自分の手でやるようにしています……」
その答えに、全員が一瞬ぽかんとした。その間風が揺らす雑草の擦れる音だけが、草むしりの背景曲となる。
「……つまり、MPがもったいないってことですか?」
「え、えむぴー? 呪文スロットのことでしょうか?」
進士がよくあるファンタジーRPGの概念を持ち出すが、あまり意思疎通を得られなかったようだ。
「いや、まあ、要するに……あ、続けてください」
話しを促す進士にミーシャはうなずき、視線を再び草地に戻した。
「私の特殊技能のことですが……草むしりに魔術を使うのは、まだ特に決まりがなかったような気がして……
なので、物理作業を楽にしようと思って使うのは、良くないんじゃないかと、思うのですが……」
それは――あまりにも真面目な返答だった。
「ミーシャさん。そこまで考えるなんて……すごいなって思います」
ひろみは素直に感心して、その心の内をそのままに言葉にした。
ミーシャはその称賛に少し面食らった表情を浮かべるが、そこにはほんのりと照れが浮かんでいた。
自分の質問の意図が、ほとんど伝わっていないミーシャに、遊馬が再度口を挟む。
「あのさ、もう一回聞くけど……お前、魔術師だよな?」
ミーシャはきょとんとした顔になったが、すぐに律儀に答える。
「はい、あの……自称ではなくて、バルダーズゲートで師匠の下でちゃんと修了しておりまして……
ここで作ってもらった資格証も、特殊技能としてですが、警察庁に提出させていただいています。
なので、一応ちゃんとした資格なんです……」
「いや、だから。そういう意味じゃなくて……」
遊馬とミーシャのかみ合わない会話に割り込むように、泉が根本的な問いを投げつける。
「ミーシャちゃん、魔法ってさ……なんかシュバッてしてさ、バーン! みたいな、そーゆーんじゃないの?」
「……草刈り用の“シュバッ”や“バーン”といった呪文は、私の準備できるリストには……ありません……」
静寂が流れた。
次の瞬間、熊耳が笑いをこらえきれず吹き出した。それが起爆剤となり笑いの輪がじんわりと広がる。
「やっべぇ……思っていたのと違う!」
「魔術師の風格とか、どこかへ飛んでっちまったのか!?」
現代人が抱く典型的な魔術師像といえば、だぶだぶのローブに三角帽子、手には杖を携え、あらゆる問題を呪文で解決してしまう――そんなイメージだろう。
だが、目の前の現実はその幻想を容赦なく打ち砕くものだった。
遊馬と太田は、そのギャップに耐えきれず、まるで前衛芸術の一部のような奇妙なポーズで悶え始めた。
「変なのでしょうか……?」
みんなの反応に少し困惑しながら、ミーシャは誰の耳にも届かない声を唇から漏らす。
その困惑をよそに、第二小隊の面々は楽しげに作業を再開しだした。
◆
空の高さと光の傾きが自然と時間を告げていた。
正午。草刈りが一段落すると、庁舎裏に折りたたみ式の簡易テーブルとパイプ椅子がずらりと並べられた。
冷たいお茶の入ったポット、紙コップ、それに山崎が持参したクーラーボックスからは保冷剤の冷気が立ち上っている。
地面には、束ねられた雑草がいくつも積まれていた。
その積まれた草から漂う匂いが隊員たちの鼻をくすぐり、癒しの時間に彩りを加える。
ミーシャは刈り終わった草を整理している最中だ。
「いやぁ、まさか新人魔術師が一番の草刈り戦力とはな……」
後藤が椅子に座りながらつぶやく。一気に飲み終わったコップを置く音が立つ。
「いや、もう魔術師っていうより、庭師だったよな……」
遊馬はラストスパートをかけるミーシャの仕事っぷりを見ながら。
魔術師の幻想にすがることに対する、諦めの表情を浮かべていた。
「アウレリアさん。腰、大丈夫ですか?」
ほとんど休憩も取らず、ずっと前かがみの姿勢で草刈りを続けていたミーシャに、山崎がそっと声をかけた。
その言葉に応えるように、ミーシャは手にしていた草束から静かに手を放す。
軽く息を整えながらゆっくりと立ち上がり、腰に手を添えて、左右にそっと動かしてみる。
その仕草からは、自分の体の疲労具合を丁寧に確認する、彼女らしい几帳面さがにじんでいた。
「問題ありません。体を動かすのは慣れていますから」
ミーシャは、悪くない結果にうんうんと納得している様子だ。
エプロンには土の汚れがうっすらとついている。
その「慣れている」という言葉に泉が「あー」と声を上げ、何か思いついたように指を鳴らした。
「そっか ミーシャちゃんの世界ってやっぱりないんだよね? 車とかクレーンとか」
こくりとうなずくミーシャ。その目は少し思い出に浸るような色を帯びていた。
「なるほど、機械とかないから、現代人より肉体労働が身近なのか」
「そーだぞ。篠原。普段だらけてないで、少しはアウレリア巡査を見習え」
太田と遊馬のいつものやり取りが始まりだす中。
ミーシャは刈り終えた草を丁寧にまとめ、最後に一本だけ残っていた小さな雑草を見つけ抜き取った。
そしておずおずと熊耳のもとに赴き。採点を待つ学生のような顔つきで声をかける。
「……これで、よろしいでしょうか……?」
彼女にとって任務だったことを思い出した熊耳はうなずいて、微笑む。
「合格よ、アウレリア巡査」
「……ありがとうございます」
柔らかく、ほっとしたような笑みが、ミーシャの顔に浮かぶ。
これが、彼女が初めて行った「通過儀礼」だった。
◆
小隊総出の草刈り後に集ったオフィスは、午後の陽射しが柔らかく差し込む静かな空間だった。
机の上には、突然の肉体労働の疲れを癒すように、コーヒーやお茶のカップが並び、隊員たちはそれぞれの席でくつろいでいる。
今日の騒動の原因であり立役者でもあったミーシャ・アウレリアは、今は熊耳とともに運用マニュアルの打ち合わせで席を外しており、
オフィスには残った隊員たちの穏やかな会話が流れていた
しばしの沈黙の後、泉が今日の草刈りのことを思い出すように口を開いた。
「ミーシャちゃん、本当に真面目だよね。二日目なのに、自分から草刈りを申し出るなんて」
その声には、ほんのりとした感心と、少しの杞憂が滲んでいた。
そんな泉の反応を見て、遊馬がいつものように口元を歪める。
いたずらっぽい視線を泉に向けて、すかさずいつもの呼吸で茶々を入れた。
「おたけさんにわざわざ草むしりの許可を願っていたんだよな。
川で大量の一万円札拾った時*1、誰にも報告せずに、一人で事件調べに行っちゃったお前さんとは大違いだな~」
過去のやらかしを蒸し返されて、泉はむっとしたふりをしながらも笑い返す。
「へっへー! もう成長したもんねー」
その言葉には、茶化し半分、でも確かに「今の自分なら大丈夫」という自負も込められていた。
だが太田がその泉に向かって、びしっと指を向けて指摘する。
「そこだ! アウレリア巡査はそん時のお前に似ている」
「へ? 私に?」
意外な指摘に、泉の目が泳ぐ。
そこへ山崎が、控えめな声ながらも自分の感じていたことを丁寧に言葉にする。
「そうですね。アウレリアさん少し思い詰めている感じがします」
進士は、山崎の言葉に頷きながら、状況を捉えるように口を開く。
「役に立てるのかどうかですかね? でも配属2日目ですし、昨日訓練で見せた実力は本物です。あの技ほかにも応用が効きますしね」
泉は、隊員のみんなに視線をぐるりと巡らせ、今朝からずっと胸の奥に引っかかっていた不安をぽつりと漏らした。
「あの子とっても心配なんだよ。だってこの世界では知り合いもいない……独りぼっちなんだもん」
その泉の発言を最後に、オフィスにしばしの沈黙が降りる。
それぞれがミーシャの立場に思いを馳せる。
異世界から来て、誰ひとり頼れる人もいない場所で、彼女は今、どんな思いでここに立っているのだろうか。
その静寂を破ったのは、やっぱり遊馬だった
「ま、新人ちゃんのフォローは、俺たち先輩の義務ってことで。ぶっちゃけ、太田さんの暴走よりは全然楽さ」
その一言で、空気が軽やかに動き出す。
「なんだと このやろー!!」
8割がた本気で、ヘッドロックを遊馬にかけようとする太田。
山崎は困った顔を浮かべながらそれを止めようとする。
いつもの第二小隊の姿がここにあった。
◆
そんな遊馬と太田の、いつものじゃれ合いが続く中で、窓の外の陽射しは徐々に傾きを見せはじめていた。
白々しく輝いていた光は、今では柔らかな黄色味を帯びて、室内の壁や机に長く淡い影を落としている。
あくせく動いていた一日が、静かに幕を下ろそうとしているようだった。
「で……思ったんだけどさ」
「ん、なに?」
太田のヘッドロックをやっと脱した遊馬がぽつりとつぶやく。
いぶかしげな表情で泉が顔を覗き込む。
「【魔法】って言っちゃっていいの? こう、公の場とかでさ。
建前上ミーシャは帰化した特殊技術者で、異世界のエルフ魔術師じゃないんだろ?」
その疑問に対し進士が得心したように説明する。
「……確かにそうですね。魔法って言葉、職務記録には入れにくいし、口頭報告でも誰が聞いているかわからないですから」
遊馬はその答えに満足し話を続ける。
「だろ? なんかこう、正式に使えるコードネームとかあったほうがいいんじゃないかな」
山崎が、その性格通りの差し障りのない候補を上げる。
「うーん、『技能』はどうでしょう?」
しかし太田は腕を組んで即却下した。彼は腕を組み、眉を吊り上げながら言い放った。
「それ、普通すぎて耳に引っかかんねーぞ。決め台詞ってのはな、ドカンと決めてなんぼだろ!」
隊内随一の情熱家は、命名にも気合を込めていた。
進士はすかさず書類棚から関連資料を引っ張り出し、既存の記録表記を読み上げる。
「業務記録上では、既に【特殊技術由来技能】って表現でまとめるみたいですね。
【特殊技術式支援】【非接触抑制手段】なんかも一部使ってます」
遊馬が、その日常会話実用性皆無な単語の羅列に、げんなりした顔をする。
「うわ、超お役所語……いやまあ、実際役所だけどさ……」
『これは使えない』――その共通の認識が、誰の顔にも言葉を奪い、微妙な沈黙が静かに広がっていく。
その重さを打ち払うように、泉がふと思いついたようにお茶のカップを持ち上げ、ニカッと笑った。
「じゃあ【術式】【術者】とかにしておけばいいんじゃない?
なんか派手な技能って感じするし、『あの術式、助かった』『術者に支援を要請』とか言えば第三者に聞かれてもボカせるし」
なかなかの言葉のチョイスに、オフィスは感心のどよめきで埋め尽くされる。
「おお、それだ! よく異能バトル漫画とかでありそうな感じじゃん。なんかサイバー系っぽいし。……いいなそれ」
遊馬が一気に乗り気になる。そのちょうどよさに、全員がすぐにうなずいた。
仰々しすぎず、かといって地味すぎず、現場で使うにはもってこいの言葉だった。
進士が記録台帳にさらりと書き込みながら、業務的な確認を添える。
「じゃあ、隊内では術式で統一。【術式で支援】【術式が展開】【術者の配置】……うん、いけます。隊長に申請してみます」
「はい! けってーい!」
最後に泉が手を挙げて笑顔で締める。
オフィスは、ささやかではあるが、重要な議題が解決したことによる、達成感に包まれていた。
かくして、書類上魔法は「術式」、魔術師を「術者」という名称で記述されることとなった