飛び去っていった竜を追うため、私はふらつく身体を押して、渓谷を進んでゆく。
湿った岩肌は足を滑らせ、激流から吹き付けてくる濃霧は体力を奪う。しかし、そんなものは障害ではなかった。
「何故……」
私の身体と精神は今、“役目を果たせないかもしれない”というただ一点によって、酷く摩耗していた。
私は、自分の旅の理由を思い出した。
そして、それはかの竜と出会うことで、終わるはずだった。彼ら“竜”と出会うことによって、私の役割は全うされるはずだったのだ。
けれど、出会った竜は首を振り、私が捧げた竜骨を受け取ろうとしない。
そしてそのまま、私への興味を全て失ってしまったかのように羽ばたいて、渓谷の向こうへと飛び去ってしまったのだ。
納骨の拒絶。それは、まるで自分の存在が否定されたかのようだった。
私に纏わる氣は一気に削げ落ち、力は衰え、袋を保護する力も消えてしまった。
――役割と共に、力を失ってしまったのか。
おそらくその通りなのだろう。我々の存在は、我々の精神や魂に、深く関わっている。
自らの根源にあるものが取り除かれれば、存在そのものへの致命傷となるのは必然だ。
だが、私はここでただ朽ち果てるわけにもいかない。
ずっと、ここに来るまでずっと旅を続けてきたのだ。諦めきれるはずがあろうものか。
「……届ける」
残った力を全て使い切っても構わない。
あの竜の飛んでいった先に、行き着かなくてはならない。
私は
紅き竜の亡骸より生まれた、竜の魔族。
この世に生まれてきたからには、ただでは死ねない。
どうせ散るのが運命ならば、その華を咲かせてから、散ってやる。
もはや保護の消えた袋を頭に乗せて、細い濁流を跨ぎ、岩場を飛び越え、時には流され……。
打ち付け、傷つき、転び……。
それでも私は死ぬこと無く、前に進み続けた。
無限に続くかと思えるような、激流の渓谷。
しかし私は、苦しみも虚しさも全て踏みつけて、何日も何日も進み続けて……。
やがて、静かな場所へとたどり着いた。
「……」
全身、傷まみれ。場所によっては、骨も折れている。直す力も、残ってはいない。
そんな満身創痍の私が、あるひとつの大きな岩を通り過ぎた時であった。
「……ぃ……」
凄い。
言葉は出なかったが、確かに私はその一瞬だけ、痛みも消耗も忘れて、見とれていた。
荒々しい岩の陰から覗いた向こう側の景色。
それは、これまでに延々と続いていた渓谷ではなく、微細な石の彫り物によって全てが構築された、あまりにも美しい町並みであった。
渓谷の只中に作られた、あまりにも異質なその空間。
地面は平坦でありながらも、緻密な彫り物によって模様が加えられており、目にする建造物の石煉瓦のひとつひとつが、一体どれほどの集中の時間を必要とするのかもわからないほどの微細な刻印によって彩られている。
細部に目を走らせれば、きっと私の一生涯を費やすことになるだろう。
そこまで考えると、私は美しいというよりは、むしろ恐ろしくなって、町並みの詳細から焦点を外し、頭を振った。
「……誰も、いない」
町は美しかった。しかし、無人であった。
もはや私に氣を探るだけの力は残っていなかったが、それでもわかる。
この町には、生活というものが存在していないのだと。
彫り物によって整備された川も、平坦な道も、窓の多い大きな家屋も、外に出されたテーブルのセットでさえも。
利用するものは、誰もいない。何者も、この町に根ざしていない。
見てくれは綺麗だ。実に美しい。
だが、ここも渓谷と同じ。何者も虫一匹さえも存在しない、虚無の土地だ。
ここが、魔界の中央たるセムテリアなのだろうか。
魔界の中央には、誰もいないのか。
「誰が、こんなものを、……!」
初めて目にした感動から一転、殺風景としか感じられなくなった町並みを淡々と歩き続けていたその時、私は大通りで足を止めた。
「……うん? ああ。居た」
無人の大通り。
何者の気配もない町の中。
その大きな十字路の曲がり角に、一人の“遺骸”が道の中央に立ち、言葉を発していた。
黒ずんだ濃灰色の身体。くすんだ色の長いローブ。
高い背丈のそれは、見た目に似合わず正された背筋で、猫背の私を少し見下ろすような形で、じっと見つめている。
「ようこそ、
「……」
魔人か魔族かも判然としない遺骸は、私に訊ねる。
彼を覚えているか。そう問われたようだったが、記憶を掘り起こしてみても、それらしいものは浮かんでこない。
これまでに魔界で倒した悪しき魔族の成れの果てかとも疑ったが、そうだとするには体格が違いすぎる。
「結構前の事だったから、覚えていないか。紅が最初に魔界へ来た時、私は神綺の隣に立っていたんだけども」
「……」
神綺様の隣に立っていた者。
それはつまり、魔界側の者だ。
……記憶がぼけている。誰かがいたことは覚えているのだけど。
しかし、思い出せるのは、強く印象に残っている神綺様と、“死の天使”サリエルだけだった。
「まぁ、思い出せないならそれでも大丈夫。私は、ここで貴女が来るのを待っていたんだ」
「……私を……?」
「そう」
遺骸は頷くと、枝のような手を軽く掲げて、道の向こう側を指さした。
そこには路上にテーブルと、二つのチェアが配置されている。
閑散とした町並みの随所で見られる、無人の屋外家具だ。
「とりあえず、疲れているだろう。向こうで座るといい」
「……」
私は答えなかったのだが、遺骸のそいつは勝手にそちらへ歩き出し、私がついてくることが当然であるかのように着席してしまった。
……休んでいる暇はない。
だが、疲れを誤魔化す程度にはなるだろう。
私は自分を納得させて、枯れ果てたそいつの座るテーブルへと追従した。