霧の扉を抜ける。
踏みしめた一歩目は、平坦な感触。岩場ではない。
魔界ではあるようだが、先ほどの渓谷とは違う、別の場所へと繋がったのだ。
「……ここって」
見回せば、辺りは極めて平坦な石の広原。
近くに建造物はなく、植物さえ一本も生えていない。当然、生き物などの影も見られなかった。
「ここは、
私がくぐり抜けた霧の扉からライオネルが現れ、そう言った。
「法界?」
「そう。魔法によって強力に隔絶された、魔界最高の大封印施設だ」
魔法。封印。
どちらの言葉も、しっくりこない。
何故ならば、辺りには何も存在しないのだ。
それらしい圧迫感や力の気配は感じられないし、施設と呼べる障害物も見当たらない。
……アマノ。
私は、それを求めている。彼女を求めている。
確かに私は、直接には一度もあの人を見ていない。でも、この広い空間のどこにも存在しないであろうことは、私にもわかる。
……からかわれていたのだとしたら、許せない。
私が怪訝そうに見回していると、不意にライオネルは一歩前に出て、虚空に枯れた手を伸ばした。
「強力な力を携えた結界は、その存在を誰にも悟らせない。内部と外部を完璧に隔絶してこそ、真の結界だ」
彼は語りながら、夥しい量の力を虚空へと注ぎ込む。
「結界を見るためには、魔力によって一部の機能を活性化させるか、敷設者が直接可視化状態に切り替える必要がある」
その凄まじい魔力の奔流は、私の中における彼の評価を、何段階も引き上げざるを得ない、恐ろしいものであった。
直接身に受けるだけで身体を引きちぎられてしまいかねない、凶暴な魔力の束。
氣を操る程度の私の力でも、彼のこの単純な“放出”を真似ることさえ難しいだろう。
「ほら。私の魔力によって、隠されていた法界の全容が見え始めた」
周囲に風さえ巻き起こすライオネルの魔力放出によって、彼の翳した手の先には、七色に輝く壁面が現れていた。
不規則に流れ続ける、多重構造の虹色の壁。
それはライオネルが力を注ぐほどにその姿を明らかにし、どんどんサイズを広げてゆく。
「すごい……」
無限に続く、魔法の壁。
姿を消していなければ、きっとこの壁は、遥か向こう側まで続いてゆき、魔界のどこに居ても見えるような、非常に目立つものになってしまうのだろう。
私が呆然と眺めていると、不規則な方向に動き続けていた多重魔法壁の紋様のひとつが、目の前で停止した。
それは、丁度丸のような形をしているだろうか。
幾重にも続く多重構造の壁の全てが、“丸”の紋様を私達の目の前で停止させ、重なってゆく。
「さあ、限定的な解除は完了した。紅、私と共に法界の中へ」
「……」
何十メートルも続く円形のトンネル。
私は、その向こう側から吹き付けてくる懐かしい“風”を受け、躊躇する前に足を進めていた。
埃っぽい香り。
強すぎる瘴気。
前進するごとに増してゆく、圧迫感。
けれど、不快ではない。
引き返したくもない。
私は、この懐かしい風を求めていた。
この先にあるものを、ずっとずっと待ちわびていた。
「ある偉大な神は世界を救ったが、バラバラに砕け散り、各地へ飛散した」
冷えた溶岩のような黒っぽい足場へ降り立ち、私は結界の内側に広がる世界を見て、呆然と立ち竦んだ。
「破片は地上に降り注ぎ、その偉大な力を数多に分かち、様々な存在と交じることで、無数の神々へと変容したが……破片の持つ力が、唯一そのままの形で漂う空間があった」
見渡す限り、黒い薄靄に包まれた死の大地。
えぐれ、ひび割れ、荒みきった黒い岩石の世界。
「それこそが、地上に降り注ぐ彼女のいくつかを受け止めた、この法界なのだ」
黒く険しい大地。過稼働し続ける魔力が及ぼす毒々しい瘴気。
下からも、上からも発せられる、暴力的なまでの“抑圧”の力。
隣に立つライオネルは涼しい様子だったが、私はあまりにも危険な空間に思わず片膝をつき、咳き込んでしまった。
ほどなくして、咳に血が混じる。
喀血。手先が震え、呼吸が乱れ始める。
「……や……」
私はかすれた声で、口を開いた。
「やっと……あなたの元に、辿り着けたのですね……」
死にかけていた、尽きかけていた力が、わずかに戻る。
魂の奥底から、存在の力が漲ってくる。
ここは、死の世界だ。しかし同時に、私はこの肌で、確かな“母”の気配を感じ取った。
ちゃんと、ここにいる。
姿は見えずとも、生きていなくとも、この過酷な空間の中に、私が求め続けていた“アマノ”の存在を感じる。
「大変遅く……なりました」
気がつけば、私は立ち上がり、荷物を背負い、震える脚で斜面を下り始めていた。
引きずる脚。短い呼吸。鈴のようにカラカラと鳴り響くズタ袋。
四方から襲い来る封印結界の圧迫感は強かったが、蘇った“使命”によって得た活力は、私のこの身を、どうにか危ないところで支えている。
この結界の中は、私でさえ、耐えるだけで精一杯だ。
しかし、これっぽっちも苦ではない。
母と共にある。母とともにいられる。それだけで、私の他の全てが満たされていたのだから。
私は窪地までやってくると、ズタ袋の中身をそこへ広げ、黒い大地に跪いた。
大きな骨の一本一本を手に取り、骨同士がお互いを支えるように組み上げてゆく。
その行動に、どのような意味があったのかは、私にはわからない。
だが私は本能で、こうしなければならないのだと確信していた。
また、この行為こそが、全ての目的でもあったのだとも。
「ああ……」
やがて、骨で組み上げた焚き火のようなものが出来上がり、思わず笑みが零れた。
木材でもなければ火もついていない焚き火だったが、私は組み上がったこれこそが、自らの全てなのだと悟った。
「……ただいま、戻りました」
焚き火を前に瞑目し、その場に胡座を組んで、座り込む。
吹き付ける瘴気。
冷たい岩の地面。
過酷な封印世界。
けど、ここには母がいる。
私を見守り、私が護るべき、尊き母がここにいる。
なら、私の居場所はここだけだ。
他の場所に行く必要はないし、行く価値もない。
「……ちょっと、だけ……休みます……」
全身は、氣によって外圧を耐えることのみで精一杯。
そのかわりに、私は不思議な程の充足感と安心感に包まれていた。
ごうごうと鳴り響く強風の中で、私は心地よいまどろみの中へと沈んでゆく。
薄く開けた視界の中で、黒の中に一際映える白い薪が、私を癒してくれる。
意識を手放す間際に、誰かの優しい声が聞こえた気がした。
――お疲れ様。ありがとう
「……」
……当然のことを、したまでですよ。