私は数多くの言語を習得しているが、その中に英語は含まれていない。
何故かといえば、答えは簡単。私が習得した言語の多くは、そのほとんどが魔界語や魔族語、または神族語であるからだ。
確かに私は抜群の記憶力を持っているし、数々の言語を習得する中で、そのコツというものを掴んでもいるのだが、さすがに知らない単語までは覚えていないし、未来の未知のものは、そっくりそのまま発明しようがない。
洋楽を聞いているだけじゃね、英語は上手くならんのですよ。
「さて……」
私の目の前にいるこの半透明の女性は、英語によるコミュニケーションが可能らしい。
金髪だし、眼の色は少々特殊なようだが、顔立ちも含め総合的に欧米っぽい感じがする。
ここで私が英語を扱えれば何も問題にはならなかったのだが、残念なことに私は簡単な英文以外は作れる自信がないし、正直言ってもう今すぐにでも“I don't speak English”とプレートを出して軽く会釈したい気分である。
私にできる英語など所詮、最寄り駅へ案内するためのボディランゲージだけなのだ。……うん? 英語じゃないなこれ。
……ともかく。
相手は、英語を扱える。
言語とは、文化と密接に関わるものだ。それなりの文化がなければ、アルファベットを用いた英語は生まれなかったはずだ。
この子は英語を理解できることから、今よりも未来の……西暦中の現代人である可能性が、極めて高いと言える。
それが何らかの要因か、または事故によって、魔界のこんな場所にまで飛ばされてしまったのであろう。
私は上手く英語を扱えないし、私と相手の間には音らしい音が発生しないようなので、音声によるコミュニケーションも困難だ。
だから私は、言葉以外のツールを用いた交渉術を使わなければならなかった。
「“You Born?”」
『!?』
私は一枚の文字プレートを出現させて宙に浮かべると、0~9までの魔光文字列を4列分だけ作り出し、女の前に浮かべてやった。
四桁の数字。そして、私自身これに文章として成り立っているかの自信はないが、“あなたの生まれ”みたいな意味を持たせた文章。
少し頭の回る子であれば、なんとなく察しはつくだろう。
女は相変わらず浮かび上がった文字に驚いていたが、私の意図をすぐに理解したのか、おそるおそるといった手つきで、浮かんだ文字列をひとつずつ指差していった。
「ほうほう、二千……うん?」
しかし、指し示された西暦であろう数列は、私が生きている時代よりも先である。
だが、二千年代。無意味に、または別の意図をもって示したとは思えない数だった。
……まぁ、驚くことでもないか。
彼女は今よりもずっと未来からやってきたのだ。私が元々いた時代より先から来たのだとしても、それは特段驚くべきことでもない。
私にとって、また今の彼女にとっても、一番重要なのは、どのような理由でここまで来てしまったのかということだ。
「“Want go home?”」
私の問いに、彼女は激しく首を縦に振る。
そりゃそうだ。私だって誰も知らない場所に突然閉じ込められたら、すぐにでも帰りたくなる。
……しかし、こうして意思疎通できる相手を見つけられたからか、金髪の彼女の表情は、どこか希望を得たように、明るいものに変わっていた。
……正直、私の力を持ってしても、この半透明な状態の彼女を外因的なものでどうにかする手立てはないのだが……まぁ、気休め程度に、会話は続けておくとしよう。それも彼女のためになるはずだ。
「“Stay?”」
ステイのスペルはこれで合っていただろうか。そもそも、これが“故郷”を示す単語だっただろうか。
そういった疑問も浮かびはしたが、私はこの問いかけと合わせて、空中にいくつもの国旗の像を生み出して、ばら撒いた。
アメリカ、ロシア、中国、そして、うろおぼえなドイツとかフランスとかイタリアとかイギリスとか、正直縦に三色分けている国旗のほとんどは正確に記憶していなかったが、私は記憶の片隅に残っている限りの国旗を魔力で表現し、彼女の周りに呈してやった。
彼女の出身を明らかにする。とりあえず、最初はこの作業からやっていくのが一番だと思ったからである。
「さて、まぁ中国って見た目ではないけど、貴女はどんな国の出身なのかな……って」
『っ! っ!』
「日本って柄でもないでしょうよ?」
彼女が指さしたのは、なんと日本の国旗。
私は思わず突っ込んでしまった。
「“日本語わかるんだ?”」
首を縦に振り、“はいそうです”とのこと。
それならそうと、早く言ってくださいな。
さて、相手の女が日本語を扱えると判明したことで、いくつかの質問を交わすことにより、彼女がここへ迷い込んだ経緯を、漠然とではあるが知ることができた。
まず、彼女は人間であるということ。
私が示した“人間? 神族? 魔族? 悪魔? 魔人?”というプレートに対しては、間髪を容れずに人間を指したので、これは間違いないだろう。
まぁ、この混沌とした古代においては人間以外のものが豊富すぎてアレなのだが、私の生きていた西暦では、それが普通である。
そして彼女は、何かが見えるらしい。
何度も自分の目を指差す彼女は、自分には特異なものが見えると言いたかったようで、それによってこの古代の魔界へと通じる何かに接触してしまったのだそうだ。
その場で行える軽い実験を試したところ、彼女は濃度の高い魔力と、活性魔力が希薄な空気の境目を指で示してみせた。
私は特に体や腕を動かさず、自身の感覚のみで魔力の濃度をあらゆる場所で増減させてみたが、彼女はその魔力量の変化をしっかりと目で追えている。
ただし直接高濃度の魔力を示すのではなく、あくまでも高濃度と希薄の境目を指差していたので、彼女は極端に大きな差を持つ部分を知覚できる目を持っているのかもしれない。
しかし、私が“私は魔法使いです”というプレートを見せてやると、彼女はひどく驚いていた。
不思議なものが見えはするものの、扱える環境にはいないようである。
「ふーむ……」
しばらく問答を続け、判明したのは“よくわからない”ということ。
彼女はその時ほとんど寝ぼけたらしく、自室の隅が変に明るいことに気づき、そこへ不用意に近づいてしまったところ、気付けばここまでやってきてしまったのだとか。
……霊魂は、たとえそれが肉体を持ち生けるものであったとしても、睡眠時にその霊魂単体が思わぬ挙動を見せることがある。
そして異界にほど近い場所に存在する霊魂は、稀にその欠片を切り離し、異なる場所へと飛んでいってしまう。
彼女は現在、それを体験しているのかもしれない。
つまるところこれは、とても鮮明で、珍しいタイプの幽体離脱なのだ。
「“多分、時間が経てば元の場所に帰れるよ”」
私は確信を持って、その結論をプレートでもって彼女に示してやる。
すると彼女は安堵したのか、胸に手を当て、大きな溜息をついたようだった。
彼女は不安そうだったり、慌てたりはしていたが、結局一度も涙を見せることはなかった。か弱そうな姿をしているのに、なんともたくましい精神を持った子である。
……現状、彼女は幽体離脱に近い状態にある。
夢からさめれば、きっと元いた場所に戻っていることだろう。
その時に、ここにいた記憶がしっかりと残っているかどうかは保障できないが……。
『……!』
なんてことをしている間に、半透明な彼女の体が、更にだんだんと希薄になり始めてきた。
足先から膝、膝から腰。
自らが消える現象に女は驚いていたが、その意味がわかると、私に対してペコリとお辞儀をしてくれた。
「“今度からは変なものに触らないようにね”」
苦笑い。彼女はサラサラな金髪を掻いて、可愛らしくぺろりと舌を出した。
そして、ついに最後には顔も消えて、女の陽炎は完全に見えなくなる。
その場に取り残されたのは、私一人。
「……日本、国際化したのかなぁ」
私はそんなどうでもいい独り言を呟いて、しばらく日本での慎ましい日々を思い起こすのであった。