東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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「……気配が消えた」

 

 私が能力の発動を続けていると、纏わりつくような視線が消え去った。

 多少は効果があったのだろう。気配は唐突に消え、今では少しの不快感も感じられない。

 

 湖畔の辺りを見回しても、誰もいない。妖力も神力も感じない。

 相手方に何があったのかはわからないが、これは好機と見るべきだろうか。

 

 思い立ったらすぐ行動。

 私は蒲をかき分けながら、素早く茂みの中へと飛び込んだ。

 

「ちっ……」

 

 せっかく久々に水浴びしようと思ってたのに、まさか草の中へ飛び込むことになるとは。とんだ災難である。

 

 しかし、私を見ていた奴が何者かは知らないが、あれほど集中的に“視て”いたのだ。おそらく只者じゃああるまい。

 もしもそれが月の連中で、私の存在に気付いたのだとしたら厄介なことである。

 せっかく長い間、知らぬ存ぜぬで逃げおおせて来たというのに、今更捕まるだなんて冗談にもならない話だ。そもそも私は、今はまだ何もやっていないのだから。

 ……この土地は当分の間動くつもりはなかったが、その予定も変更する必要が出てくるだろうか。

 

「……いや、それはできないね」

 

 草むらに身を隠しながら、それでもここは動くまいと、首を振る。

 この土地にそれほどの愛着を持っているわけでもないが、見知らぬ場所で再び眷属を作ってやり直すのは大きな危険を伴う。

 それに、激しく動いて敵を撒こうなんてのは馬鹿のやることだ。頭の良い奴はちょっとだけ動き、ひらりと回避するもの。

 ただのウサギは長生きできないが、私はただのウサギではない。

 私の本能は、“ここを動くべきではない”と言っている。

 

 そもそも、私が全く気付けないような奴に視られているとして、もしもそんな最悪の状況に置かれているのだとしたら、私はもはやどう逃げることもできないはずだ。

 そんな相手が実在するなら、神と同じ程度の力を持っているに違いない。

 “視ること”を司る神に本気を出されたなら、さすがの私でもお手上げだ。

 

 だったら最後まで堂々と、目立たずにいた方が、まだ可能性はある。

 たとえ捕まってもシラを切り通し、一匹の化けウサギとして振る舞ってやれば良い。

 その方がきっと、この地上に残される眷属のためにもなるだろう。

 

「! 何か来る……!?」

 

 私は迂闊なことに気を緩めていたが、幸運なことに敏感な両耳は、上空から鳴り響く微かな音を拾ってくれた。

 いや音……ではない。音の如き遅いものではなかった。

 私の耳が感じ取ったのは、音が届くよりも先に察知すべき、とにかく不吉な予感だったのだ。

 

 

 

「――東京じゃないけど、まぁ良しとしよう」

 

 雲ひとつ無い晴天の空から、灰色の煙が舞い降りてきた。

 

 霧でも、霞でもない。

 それは確かに煙であって、また灰でもあった。

 山を丸ごとひとつ燃やして作ったかのような膨大な量の灰が、まるで火山灰や豪雪のように、突然に降ってきたのだ。

 

 その中央に、人影らしきものを携えて。

 

「おお、凄いな。見たことのある植物ばかりじゃないか」

 

 濛々と立ち込める灰塵の中、人影は地の底から擦り出すような低い声で、何か喋っている。

 それが何語かは、声の質や距離もあって聞き取れない。少なくとも、この私の知る言葉とは大きく異なっているように感じられる。

 

 未知。そして不可解。不気味。

 現時点でこの場から動く選択肢は、私には無かった。

 

「“月時計”」

「!」

 

 突然、煙の中の人影が力を展開した。

 妖力とも神力とも似つかない、奇妙な力だ。それは周囲に満ちた神秘性をも巻き込んで、強引に一つの形へと収束させてゆく。

 

 二回ほど瞬きする間に組み上がったのは、人影を中心に広がる大きな夜空の模倣。

 立ち込める煙の中に、夜空の星を象った輝きが配置され、擬似的な小さな星空を創り出す。

 

 神秘的で、壮大な光景だった。

 知っている星、知らない星。様々な星が、煙の中にぼんやりと浮かんでいる。

 私はその時、深く警戒することも忘れ、思わず見入ってしまっていた。

 小さいとはいえ、あの謎の人影は、完全な夜空を生み出してしまったのだから。

 

 そして私は同時に……それが恐ろしいとも思った。

 あんな場所で夜空を組み上げて……アレは、一体何をしようというのだろう。

 

「……この並び……紀元前五千年か。よしよし、計算通りに帰ってこれたみたいだ」

 

 段々と煙が薄れ、晴れてゆく。

 その中に佇む人影の姿が、より鮮明になってゆく。

 

「ピラミッドの建設現場にも興味があるけど、まぁそれはとりあえず世界を一周してればわかることだろうし……」

「……ひっ」

「ん?」

 

 煙が晴れて、姿が見えた。

 見えてしまった。

 灰色の靄の中から現れた長身痩躯。その頭部が……生者にあるまじき、乾ききった骨のようなものであることを。

 

 そして、私の驚愕は思わず声に出てしまった。

 声を出したつもりはない。肺が勝手に縮んで、声になってしまっただけだ。

 いや、言い訳などしている暇はない。

 重要なのは、その声が奴に聞かれてしまったということである。

 

「そこにいるのは……」

「っ……!」

 

 迷わず、脱出。全力疾走。脱兎の如し。

 

 見つかったならば仕方がない。とにかく全力をかけて走る他に手段はない!

 

 ついさっきまではシラを切ってやるとかなんとか考えてもいたが……それは話の通じそうな奴に限っての話だ!

 あんな見るからに妖魔な奴となんて、悠長に喋ってられるものか!

 

 長生きの秘訣ってのは要するに、やばいと思ったらすぐ逃げること!

 このくそったれた世界じゃあ、判断を鈍らせた奴から死んでくのさ!

 

 

 

 

「……ウサギに逃げられる体質でも持ってるのかなぁ……まぁいいけど。とりあえず、魔界に戻るか……」

 

 


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