古代ローマには大規模な共同浴場が存在する。
その事実は漫画や映画で有名だったので、私の数少ない歴史知識としても知っていたことだ。テルマエと呼ばれるやつである。
しかしまさかその規模が、現代のスーパー銭湯にも匹敵するほどだとは……。
ローマの共同浴場には温泉、冷泉、サウナ、スチームサウナ……とにかく様々な風呂の設備が揃っている。
内部では食事も売られているらしく、サロンらしきものもあるのだという。金にさえ余裕があれば風呂で生活することも不可能ではないだろう。
ふわふわエレンことエレン・ふわふわ頭・オーレウスもこのローマの浴場が大変お気に入りらしく、ほとんど毎日通っていた。
彼女曰く、“このために市民になった”とのこと。
……気持ちはわからないでもない。
「失礼、オーレウス殿は……」
私が一人で薬草を挽いていると、裕福そうな格好をした男性が家を訪ねてきた。
エレンは今、共同浴場に出かけている。当然私はお留守番だ。ミイラが風呂に浸かってたらそのテルマエは事故物件になりかねない。
「エレンは出かけています。私は彼女の手伝いをしているライオネルという者。彼女に御用ですか」
「は、はい。オーレウス殿にお頼みしたいことがありまして……」
「ふむ」
新規のお客様か。それとも新たな注文か。
まぁ、値段交渉にさえ入らなければ話を聞くだけなら問題ないか。
「ライオネル殿は、ヴェスヴィオ山を訪れたことが?」
「ヴェスヴィオ山」
といえば、ローマの近くに存在する比較的大きな山だ。
これが数億年前なら真っ先に訪れて調査しているところなのだが、エレンへの魔法講義で私は周辺調査を怠っていた。
「いえ、直接訪れたことはありません」
「然様ですか。……ヴェスヴィオ山の麓では、葡萄農家が多く存在します。そこの葡萄は品質も良く、ワインの原料として我々も取り扱っている商品なのですが……」
「何かその農家で問題でも」
「はい。まさに……」
そこまで話して、玄関が開いた。
「ただいまー……ってあら、お客様? いらっしゃい」
ようやくエレンが戻ってきたのである。
風呂あがりでほかほかと湯気が立っている。髪の毛のふわふわ感も、いつもよりちょっとしっとり気味だ。
「これはオーレウス殿、丁度いいところに!」
「ん? どうしたの? そんなに焦って……」
「ええ、ライオネル殿にもお伝えしようかとも思っていたのですが……実はヴェスヴィオ山が少々、厄介な事態に陥っているのです」
「なにそれ」
「お願いします、オーレウス殿。そしてライオネル殿。魔法使いであるお二人に、どうか我々を助けていただきたいっ……!」
商人の男は必死の形相で床に蹲り、勢い良く頭を下げた。
どうやら只事ではない。と感じながらも……私はエレンの言った“なにそれ”が多分、ヴェスヴィオ山の存在そのものを指しているのではなかろうか、とも思ってしまうのだった。
私としては魔法の講義とエレンの体質改善の研究に力を傾注させたかったのだが、エレンはローマ市民である。
人の社会に魔法使いとして溶け込み、力を振るう。これは実に素晴らしいことだ。
私には私の目的があるものの、こうした彼女の生き様は優先されるべきであろう。
人の役に立つ魔法使い。魔法が溶け込んだ人間社会。
もうちょっと魔法が一般に広まってくれれば良いのだが、それはまぁこれからを楽しみにするとしよう。
このローマのような魔法使いの立ち位置も悪くはない。
「ここが麓の葡萄農園?」
「はい」
私とエレンは、商人の馬に乗ってヴェスヴィオ山にまでやってきた。
商人は相当な富裕層で、ほとんど貴族と変わらない財力と権力を握っていたらしい。
馬も毛艶は良く、周辺地域もさほど物騒ではなかったので、山の麓まで来るのにそれほどの時間はかからなかった。
「随分、荒れてるわねぇ……」
「というより、焼き畑だな」
しかしいざ目的地へついてみると、葡萄農園らしき影は跡形も無い。
一部に生き残った葡萄はあるものの、ほとんどは雑草と土の中に埋もれており、再び農業を始めるには結構な時間がかかりそうに見える。
「ここは、この区画で最も大きな農場でした。ですが一週間ほど前に不審な火事が発生し……壊滅。働いていた者たちも立ち去り、今や手入れもされずこの有様です」
「えー、それじゃあここを元通りにしろって言うの?」
エレンはどこか不服そうである。
しかし気持ちはわからないでもない。この農地の復旧であれば、時間はかかっても人さえいれば充分に解決できるからだ。わざわざ魔法使いを呼ぶまでもない。
「いえ……魔法使いのお二人には、この農場の原因を作った者を調査していただきたい」
「それは、不審火を放った者の捜索……ということだろうか?」
「そういう調査も、私達よりお城に言いなさいよー」
うむ、これもまた国の仕事……っていうかエレンよ。君、相手がそれほど格好良くないと結構しょっぱい対応するね。
私はそういうあからさまなの良くないと思うな。
私達がそんな態度を見せていると、男は決まりの悪そうな顔にぎこちない笑みを浮かべた。
「も、もちろん、真っ先に一度は国に訴え出ました。……それで、派遣された退魔師の方々がこの惨状を見たところ……どうも妖魔の仕業らしいと」
「妖魔ねぇ」
「……ふむ」
妖魔。それはかつての魔族であり、西洋におけるモンスターであり、東洋における妖怪だ。
そういった連中が原因では、ただ復旧すれば良いというわけでもないか。
「なるほど。妖魔の仕業となれば、兵士の手には負えないな」
私は焼けた土の一部を手に取って、サラサラと下へ零してみた。
湿気を失った砂の軽さと、幽かに残る硫黄の香り。
……ふむ、言われてみればこの火力も、ただの火事で成せるものではない。
妖魔が原因だというのも頷ける。
「うーん、妖魔退治ねぇ……」
「どうかよろしくお願いします。解決しなければ、農業に従事していた若い男衆の生活も……」
「わかったわ! 私たちに任せてちょうだい!」
「おお、ありがとうございますオーレウス殿! さすがはローマ一の魔法使いだ……!」
うん。まぁいいけどね。うん。