東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 天界から神々が移り住むよりも以前から、月ではとある先住民が暮らしていた。

 兎の眷属である彼らは“玉兎”と呼ばれており、今では月の都の奴隷として暮らしている。

 

 ちなみに奴隷ではあるが、その生活は決して厳しいものではない。

 そもそも月に移り住んだ神々は人間のように広大な農耕地を必要とはしていなかったし、領土争いに発展するほど両者の力が拮抗しているわけでもなかった。

 高天原からやってきた神々は玉兎達をあっさりと呑み込んで、雑用を片付けるための都合の良い手足としてしまったのである。

 

 とはいえ、神々が持ち込んだ技術や文化は玉兎たちにとって実に革新的なものであった。

 今やその文化は、彼らにとって欠かせない娯楽として根強く定着している。

 逆に、今更になって高天原の住民が“月を去る”などと言い出しても、困るのはむしろ玉兎たちの方であろう。

 

 なにせ玉兎達は、神族や魔族ほど特別強いわけでもない。

 彼らは月への侵略者から身を守るための、自衛の手段を持っていなかったのだから。

 

 

 

 

「月の回転を変えて、魔力を絞る、ねぇ……本当にそんなことで、侵略者の攻撃は止まってくれるのかしら」

「高貴な方々が決定したことでしょ。あの人達が言うんだから、どうにかなるんじゃない?」

「そうだと良いんだけどねー」

 

 月の裏側に近い場所、どこにでもあるような桃の雑木林で、二人の玉兎が団子やら桃やらをもちゃもちゃと咀嚼しながら歓談に興じていた。

 学生のようなブレザー姿に、長い兎の耳。高天原の神々がやってきたことによって、かつては原始的な装いだった玉兎達も一新されている。

 

 彼女らは今現在“裏”の月面の警備を任されている最中であるが、支給されたであろう光学銃は適当な枝の上に引っ掛けられており、甘味とお喋りに熱中するその姿からは警戒心など微塵も感じられない。立派なものを探そうとすれば、それは彼女たちが着こむブレザーくらいのものであろうか。

 とはいえ、これが普段からの玉兎たちの仕事風景である。

 むしろここにいる二人は自身の近くに銃を置いている分、他の玉兎達よりも“真面目”と言えるのかもしれない。

 

 

 

 現在の月には、“表”と“裏”が存在する。

 それは単純に、地球から見る部分が表だとか、地球からは見ることの出来ない反対側が裏だとか、そういった安直な事ではない。

 月の賢者たちが施した月の都の結界、その表側と裏側といった意味である。

 

 表の部分は現代人がよく知るものだ。

 水もなく渇いた地面ばかりが続く、将来的には足跡と星条旗と反射鏡が残されるであろう、何もない月を示している。

 

 逆に裏側の月というのは、その結界の内部のことだ。

 厳重な隔離結界の向こう側には確かに水を湛える“海”が存在しているし、桃の木が無数に自生しているし――なによりもそこには、“月の都”が存在する。

 

 この表と裏を生み出す結界により、月の都はこれまで幾多もの襲撃をいなしてきたし、様々な目から逃れ続けてきた。

 月の都は“表側”に乾き切った偽りの月を配置することによって、“裏側”の月を隠し、守り続けてきたのである。

 

 それは昨今から続く純狐の襲来時にも力を発揮しており、結界に仕組まれた難解な“突破方法”の数々は、強大な魔族である純狐を“裏側”に踏み入らせることなく、数えきれないほどの撃退に成功し続けている。

 玉兎たちが仕事をサボっているのは、そういった実績が裏打ちする平和に寄りかかった部分が非常に大きいと言えるだろう。

 

「まぁ、もっと安全になって私達の仕事が減るっていうなら、どんどんやっちゃって欲しいよねー」

 

 玉兎の一人が団子の最後の一個を食べ終えると、暗い空に満足そうな息を吐き出した。

 

 彼女たちがいるのは、地球に対する裏側の月であり、そして結界の意味でも“裏側”であった。

 この両方共に裏という場所は、月において非常に安全な場所である。

 地球からの襲撃があったとしても、月の裏面には流れ弾が飛んでくることなどありえないし、侵入者だって地球側の方へ降り立つだろう。

 更に今まで決して破られたことのない“月の都の結界”の内側であるともなれば、玉兎が慢心しないはずもなかった。

 

 

 

 彼女らがこうして裏の裏を警備しているのは、月の都から御達しがあったからである。

 

 曰く、“大掛かりな術によって月の運行を変更し魔力の放出を抑えるため、その間警戒を強化せよ”とのこと。

 

 玉兎達にその指令の詳しい内容や経緯などはわからなかったし興味もなかったが、今よりも安全になって仕事が楽になるのであれば、その警備を勤めるフリをするのも吝かではなかった。

 純狐の度重なる襲撃は、か弱き玉兎にそこそこの恐怖を抱かせていたのである。

 

「お団子無くなっちゃった。ちょっとお餅持ってくるわねー」

「ええ、お願いねー」

 

 間食用の団子が尽きたので、一人の玉兎が小走りで林を去っていった。

 残された玉兎はゆらゆらと手を振ってそれを見送ると、彼女もまた、自分が齧っていた桃はもう既に食べ終わっていたことに気づく。

 

「はー……どっこいしょ」

 

 のんびりし過ぎて立ち上がることも億劫であったが、一応は兵士の端くれとして素早く起き上がり、枝にひっかけておいた光学銃をその手に取る。

 そこらへんで大きめの桃を採るついでに、いつ“上司”が来ても大丈夫なように警戒態勢を装うことも忘れない。真の怠け者は、怠けることにかけては妥協をしないものなのである。

 

「さて……もう月操作の術は発動してるのかしら? 確か、いつもとは違う時間に違う星が見られるようになるって言ってたけど……」

 

 玉兎は桃を探すついでに、暗い宇宙をキョロキョロと見上げた。

 暗黒の宇宙に散りばめられた、無数の星々。玉兎とはいえ多少の教育は受けているので、そのうちのいくつかの星の名を言うことはできたが……あいにくとさほど勉強家ではない彼女には、どの時間にどの場所でならどの星が見られるか、というような情報は記憶していなかった。

 

 彼女が退屈そうに星を眺めていた、その時である。

 

「あっ、伝令が来た」

 

 彼女の耳に、同じ玉兎からの伝令が届く。

 玉兎は種族の特性として、遠く離れていても同族とコミュニケーションを取ることができ、それによる迅速な情報共有が可能なのである。

 

 耳に届いたのは“計画実行”という簡潔な言葉。

 それは、月の運行操作がたった今より行われたことを意味していた。

 

「変わった……とはいうけど……んー、わかんないわね……」

 

 上司から聞いた話では、月の運行が変わって見える景色も変わるとのことだ。

 しかし多少角度が変わったところで、大きな違いが専門家ではない彼女にわかるはずもなかった。

 

 もう既に月は普段と違う動きを見せているのかもしれないが、彼女がそれを知覚するのは難しかったようである。

 

「ま、どうでもいいや」

 

 月の動きが変わる。

 それは、地球から月を見上げればそこそこ違いを楽しめるのかもしれないが、月の上で暮らす兎にとってはほとんど興味の惹かれないことであった。

 

 実際、景色に目に見えるような大きな変化が出ていないことに気付くと、彼女は空を見上げることをやめ、大きな桃の実を探す頭に完全移行していた。

 新鮮で甘い果実をもぎ取って一口齧り付けば、後は運行が変わる計画そのものすら忘れてしまうかもしれない。

 

「あ、これ結構いいかも……」

 

 そんな風に、いつものように呑気に果実をもぎ取ろうと背伸びした、その時であった。

 

 

 

「――え」

 

 すぐ向こう側の地面から発生した異常に、意味のない声を漏らしてしまった。

 

「な……」

 

 最初は、炎かと思った。

 月の白い地面から立ち上る、3m以上の高さはあろう、大きな青い炎。

 

 しかし眼の良い彼女はそれは炎ではなく、強い波長を持った“魔力”であることに気付いてしまう。

 

「あ、あ……?」

 

 そして更に、彼女はその青白く立ち上る魔力の姿を見て、ついに恐怖を覚えた。

 

 濛々と煙のように吹き上がる魔力。

 青白く妖しく輝く不可解なオーラ。

 

 その謎の力が……おぼろげではあるが、ヒトの頭蓋骨を象っていたのである。

 

「い、いやぁーッ!」

 

 その不吉さに気付いた彼女は、甲高い声で叫んで逃走した。

 先程まで薄っすらと残っていた仕事の意識などは既に無く、光学銃さえ投げ出しての全力逃走である。

 彼女には最初から、何かに“抗戦する”という意志も覚悟もなかったのだ。

 

「なっ、なにあれ、なにあれぇっ……!?」

 

 数秒だけ垣間見た禍々しいドクロの輝き。それは、笑っているようにも、大口を開いてゆらゆらと揺れるそれは、表情筋などついていないであろうにも関わらず、怒っているようにも見えた。

 

 月の都の住民たちは、穢れを忌避するものである。

 穢れにも様々なものがあるが、死はその最たるものであろう。あのドクロが何者かのイタズラだとするならば、それはあまりにも度が過ぎている。

 

 だったらあれは、あの禍々しいモノは一体何だったのだろうか。

 一体誰が、どのような目的で、どうやって生み出したのだろうか。

 

 わからない。

 

 恐怖に支配されつつある頭で考えてみても、その答えは出てこない。

 

「はぁ、はあっ……!」

 

 彼女はただ全力で走り、未知なる恐怖から距離を取ることしかできなかった。

 

「はっ……はっ……は……ぁ……」

 

 彼女は走り続け、やがて、月の裏面から表面へと辿り着いた。

 そこまでくれば、暗い空の中に大きな青い地球の姿を拝めるようになる。

 

 ほとんどの月の民や玉兎は“穢れた星”と揶揄するが、彼女にとってはそこそこ美しいと思える星がそこに浮かんでいるはずであった。

 

「え、あ……ぁあ……!?」

 

 肩で息をつき、ふらつく足取りでやってきた彼女は、暗い空を見上げたその瞬間、身体を大きく震わせた。

 

 手で口を覆い、恐怖からこみ上げてくる吐き気は辛うじて堪えたが、疲れ、震え竦んだ脚は少しも言う事を聞かず、彼女はその場にへたり込んでしまう。

 

「ひぃっ……いや、何っ……なんなのぉ……!?」

 

 

 

 青く美しいはずの奇跡の星、地球。

 

 しかし彼女の目に映ったものは、清廉な輝きを放つ宝石のような惑星ではなかった。

 

 

 

 それは、“赤い瞳”であった。

 

 暗黒の空には、真っ赤に輝く“地球であるべきはずの星”が浮かんでいる。

 

 赤黒い毛細血管のような樹形状の筋が無数に浮かび、瞳のような黒点を中央に据え……それは確かに、一個の“眼”となって、“月を見ていた”のだった。

 

 


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