東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 不倶戴天の敵、嫦娥。

 かの神族は忌々しき月へと昇り、月の神々に匿われ、身を隠しているという。

 

 嫦娥は羿の妻だ。

 嫦娥の姿を見たことはない。しかし奴は羿の妻だ。腹立たしい。だから殺す。

 そして羿の妻、嫦娥を匿う月の神々。なぜさっさとこちらへ引き渡さないのか。許しがたい。だから連中も殺す。

 

 殺すには殺意が必要だ。

 より強い殺意と意志で以って力を煮詰め、月の者共にぶつけてやらねばならない。

 

 憎い。忌々しい。

 怒りの心を凝集し、私は今夜もまた天空にて闇を仰ぎ、月の賢者に牙を剥く。

 

「!」

 

 しかし突如として、私の浮力が大きく磨り減った。

 前触れ無く訪れたそれは気のせいでも風のせいでもない。先程まで身体に満ちていたはずの妖力が、明らかな弱体化を見せている。

 

「なに……」

 

 私がいる場所は、雲すら超えた空の彼方。

 身体はゆっくりと降下しているが、落ちて死ぬことはないだろう。力は減衰していたが、その程度の浮力は維持できている。

 

「……おのれッ、嫦娥か!?」

 

 しばらく降下しているうちに、力が衰えた理由に気付く。

 それは間違いなく、先程まで空から降り注いでいた月の力が著しく弱まったことにあるのだろう。

 豊富に感じられていたはずの力の素が薄れ、いつもと同じ勘で妖力を操作できず、出力不足に陥っているのだ。

 

 しかし、まずい。月への攻撃はかなり高めの高度でなければ真価を発揮しないのだ。

 このままでは術を月へぶつけるどころか、その準備を整えることすら難しい。

 

 今まで何度も術を放ち、順調に月の連中の守りを崩し続けていたというのに……!

 

 ……だが……まさかこのような手を使ってくるとは。

 流石は月の賢者。羿が言っていた通り、なかなかの知恵者らしい。

 

「……ふっ、どうやら今回も私の負けみたいね」

 

 これ以上の抵抗は無意味と、私は全身を弛緩させ、重力に頭を垂れて落ちてゆく。

 浮力と攻撃の調整には膨大な時間がかかるだろう。力を純化するにせよ、精密な力の調整を行うためには、これまで通りのやり方では不可能だ。

 再度襲撃を行うためには、一から手法を切り替えなければならない。

 

 全く小賢しい反撃ではあるが……なかなか効いた。

 

 おのれ、嫦娥。

 おのれ、月の民。

 

 今この時ばかりは退いてやろう。

 だがこの怒りはまたいずれ、貴様らの命に牙を剥く。

 

 決して忘れるな。

 

 決して……。

 

 

 

「!?」

 

 ゆっくりと落ちゆくばかりの身体が、悍ましいほどの悪寒に震えた。

 全身を射抜くような眼差しに、私は萎みつつあった怒りを再び燃え上がらせて振り返り、発生源であろう地上を睨む。

 

「は――」

 

 だがそこにあったのは、既に私の知る地上ではなかった。

 

 青い大洋は赤く染まり、大陸のような黒い眼は私を視て――。

 

『遮るな。そこをどけ』

「……!」

 

 腹の底まで響くような低い声が聞こえたかと思えば、私はそれ以降何を知覚することもできず、次の瞬間には……おそらく大地に叩きつけられ、気を失った。

 

 

 

 

 

 

 静かの海目掛け、一筋の黒い彗星が墜ちてきた。

 彗星は黒に覆われており、煙のような靄の尾を引きながら、凄まじい速度で月面へと向かってくる。

 それは常人が遠目に見たとしても、異常だとわかる程には凶星らしかった。

 

 予想落下地点は、あろうことか月の都。

 それも最重要施設目掛けて、寸分の狂いもなく飛んでいるではないか。

 

 あれは間違いなく“狙っている”。

 

 月の都には結界が張られているし、意外なことに防御機構もまだ多くが生き残っているが……不思議とあの黒い彗星は、都に近づけてはいけないように思えてしまう。

 

 ……月の都が陥落する?

 ありえない。何を考えているのだ、私は。

 そのようなこと、絶対にありえない。

 

 その証拠に、ほら。彗星は馬鹿正直に月の都へとやってきているではないか。

 直接月夜見様や嫦娥様を狙おうとしているらしいが……八意(やごころ)様の智謀の前では、穢れの力など一切が意味を成さない。

 それに加えて、我々を含む高位の神々が直接動くのだ。

 月の都を襲撃するなど、一体何者かは知らないが……せいぜい、返り討ちにあってもらおう。

 

「菊理、そろそろよ」

「わかってますよ。私は後ろで控えています」

「深追いはしない。合図を出したらすぐに退散する」

「もちろんです」

 

 私は菊理媛(きくりひめ)、接続の神。

 そして純白の双翼を持つこの女神は、天探女(あまのさぐめ)

 

 私達の役目は、遭遇者の運気を可能な限り乱し、引き下げることだ。

 今はそのために、黒い彗星が向かう静かの海からは離れた、危難の海にいるのだが……。

 

 何も問題はない。全ては八意様の思惑通り。

 

「始まった」

 

 彗星がいざ静かの海へ落ちようというその時、月は急激な“回転”を見せた。

 表層を塵ひとつ揺らすことなく月そのものの向きを大きく回す、この不可解かつ大胆な現象。やはり、この力は素晴らしい。

 

 月自体を動かすことによって、侵入者やその攻撃の着弾地点を自在にコントロールする“月操作”。

 月夜見様と八意様が装置を再起動させ、月の都への直接攻撃をいなしてみせたのだ。

 

 敵の規模は不明だが、相手も月の表面位置そのものがここまで大きく変わるなど思ってもいなかっただろう。

 

 彗星は思惑通りに静かの海から危難の海へと落ち、私達の視界に捉えきれるまでになった。

 危難の海が大きな飛沫の柱を上げて、招かれざる客の来訪を告げる。

 

「“私たちは穢れない”」

「ふふ……」

 

 彗星の着弾と同時に、探女が呪言を漏らす。

 彼女は自らの語る言葉によって、世の運命を動かすことが可能なのだ。

 普段扱う言葉に呪いを乗せることはほとんどないが、こうして力を開放した時の彼女の影響力は、月の都でもかなり上位に食い込むだろう。

 思うがままに結果や過程を操作できるわけではないらしいが、彼女の一言が月の勝利を後押しするのであれば、聞いているこちらとしては実に頼もしい。

 

「“帰還は成る”、“傷を負うことはない”、“不意は突かれない”……ま、ひとまずこのくらいか」

「ありがとうございます。流石ですね」

「ふ、ただごちているだけよ」

 

 これで私達の安全の確立と、与えられた役目の達成は決まったも同然だ。

 後は相手に可能な限りの不運を上乗せし、一度都へ帰還するのみ。

 

「……それにしても……」

 

 危難の海に飛来した物体は、たったのひとつだった。

 月の運行操作はかなりのエネルギーを必要とするので多用はできないが、回転だけであれば何度も発動できる。

 飛来物が複数あっても、回転によって落下地点を自在に操作できたのだが……どうやらこの様子だと、他に飛来物はないらしい。

 

 ……何が落ちた?

 

 爆発物? 穢れ?

 

 敵の目的は、一体……。

 

 

 

「また動かしたのか」

「!」

 

 準備を整え、身構えた私達よりも遠い海面から、黒い影が姿を現す。

 影は小さく、細い。

 それは我々女神よりも少々背が高い程度の、か弱そうな痩身であった。

 

 影は水面から完全に姿を露出させると、老いて枯れ果てた老人のような低い声で語る。

 

「月をずらしたな。月の魔力を奪ったな。我々魔法使いにとって最も重要な星を、こうも安々と、身勝手に」

「……(むくろ)?」

 

 その人影は、水気のほとんどが飛び、風化したかのような顔を持っていた。

 黒っぽい皮膚のほとんどは無く、眼窩は暗闇で、骨が露出した箇所も少なくない。

 

 言うなれば、乾ききった、古びただけの死体だった。

 それが灰色の襤褸を纏い、危難の海水を全身から滴らせながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 

 ――見るからに悍ましい、黒い煙を伴って。

 

「探女、あれはおそらく」

「穢れだろうね」

 

 骸が纏うあの黒い靄は、見るからに不吉だ。

 おそらくは、触れただけでもただでは済まない類の、強力な地上の毒に違いあるまい。

 

 ……とはいえ、そのようなことも想定済み。

 穢れの対策は整っているし、今更あれに怯える理由などひとつもない。

 

 探女は不敵に笑みを零し、白い両翼を大きく広げて、一歩前に踊り出た。

 

「月へようこそ、侵入者の方。歓迎はしません。できれば“すぐに帰っていただきたい”」

 

 呪言が放たれる。眼には見えず、知覚することも難しい運命の干渉が世界に響く。

 が、骸は宙に浮いたまま、静かにこちらへ近づくことをやめていない。

 

 流石に呪言とはいえど、“帰れ”の一言で大人しく踵を翻すことはなかったか。

 しかし探女の言葉だ。今の一言だけでも、充分にあの骸を月の都から遠ざけたことだろう。

 

「“止まりなさい”。“ここはあなたの居ても良い場所ではないのです”」

「……ほう? 何故?」

 

 骸はその場で動きを止め、首を傾げる。

 早くも効果が現れたか。

 

「この先に存在するのは月の都。高貴なる神々が住まう、穢れ無き者にのみ許された極楽浄土なのです」

「それで」

「地上の民は穢れています。故に、“ここから先へ向かうことはできません”」

「だから」

「“地上へ帰りなさい”。本来であれば地上の民は“月に踏み入ることもできない”のですから」

 

 探女が呪言を重ね、敵はそれに適当な相槌を打っている。

 敵としては、ただ言葉を交しているだけなのかもしれない。しかしそれはこちらの策だ。

 会話を重ねれば重ねるほどに、敵の足は月より遠のいてゆく。

 

「“貴方は月の神々に勝てません”。“必ず敗北するでしょう”。それでもあえて、月に牙を向けようというのですか?」

 

 黒い骸が俯き、額に指を置いた。

 何か深く悩んでいるかのように、指を何度も額に当てて、硬質な音を響かせている。

 

 攻めあぐねている。

 ……侵攻の計画そのものが頓挫に向かいつつあるのか。

 

 これは都合が良い。

 であれば更に呪言を積み上げ、地上に叩き返して二度とこのような――。

 

「黙れ」

 

 私が薄く微笑んだその瞬間、骸が静かに吠えた。

 

 言い知れぬ恐怖に身体が硬直し、同時に探女の言葉も遮られる。

 

「口語に交ぜて愚痴愚痴と、姑息な呪いを吹き付けやがって」

 

 骸が顎を開き、虚ろな眼窩の奥を青白く輝かせた。

 細い身体は小刻みに震え、表情が無くとも怒りに悶えているのがよくわかる。

 

 それにこいつ、さっき、呪いが……。

 

 ――まさか、探女の呪言が効いていないとでも!?

 

「探女、すぐに撤収……!」

「ま、まだ我々は何も。退くわけには……!」

 

 私は探女の裾に手を伸ばし、彼女から発せられない撤退の合図を催促する。

 しかし探女は、未だ呪言に効力が及んでいないことに焦りを感じているのか、ここから動く気配がない。

 

 でも、私の本能が発しているのだ。

 このままここに居ては、きっと……!

 

「お前の吐き出した魔法を返してやろう――“逃れ得ぬ裁断”」

 

 骸がその言葉を告げたその瞬間、敵の周囲に蠢く黒煙が渦を巻き、不吉な嵐は私達を包み込んだ。

 

 黒と灰色に染まる視界。

 全身に吹き付ける未体験の悪寒。

 

「ぃ……あっ……!?」

「なに……これ」

 

 直後、私達の身動きは、どういうわけか完全に封じられ。

 

「長生きしたければ、私の質問に答えてもらおう」

 

 すぐ目の前には、青白い炎のように揺らめく……長さにして二十メートルはあろう巨大な剣を手にした骸が立っていた。

 

 

 


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