月の女神嫦娥を斬ったと同時に、施設の機能は完全に停止した。
嫦娥の持つ“月を司る力”によって放射をせき止められていた月の魔力が、正常な状態へと戻ったのである。
だが、月の運行状況には多少の変化が生まれてしまった。
これを修正するためには、非常に緻密な……かなり大掛かりな術を使う必要が出てくるだろう。
強引に月の軌道を捻じ曲げるだけならば簡単だが、月そのものにも耐久の限度というものがあるし、何より軌道というものはそう簡単に変更できるものではない。
また月の都の民が、それほどまでに複雑な運行操作を行えるとも期待していない。
悲しいことだが、月の公転周期についてはある程度の妥協が必要になるだろう。
しかし……だからこそ。
これ以上月を踏み荒らされてはならないからこそ、これで終わるわけにはいかないのだ。
「さて。次は首謀者か」
月は元に戻った。
あとは、ケジメを付けるばかりである。
施設を出ると、私が作りだした“小法界”には早くも綻びが生じ始めていた。
本来ならば原初の力で構築しなければならないところを、無理やり魔力で再現しているのだ。
持続性に難が出てくるのも無理のないことだろう。
「消えろ」
手にした氷の杖を破棄。
「“不蝕不滅”」
代わりに、月の地表に豊富に存在するレゴリスから“不蝕不滅”により杖を生成。
「解除」
その杖によって法界の壁を殴りつけると、“小法界”は不規則なねじれを瞬く間に解消し、元通り月の都の結界へと姿を戻していった。
「ふむ」
戻る結界。鮮明になる景色。
それによって私の目の前に広がったのは、半壊した都市の様相だ。
中華風の家屋が並ぶ月の都は、柱も壁も瓦屋根も、全方向からの圧力が掛けられたようにヒビが走っていた。
道も樹木も、無事なものは一つもない。
術や能力によって守られていたものは全て、その力そのものによって自らを傷つけ、圧迫する。
こうして荒んだ街の景色を見る限り、都は相当厳重に守られていたようである。
「う……うう……」
見回せば、そこらじゅうから神族達のうめき声が聞こえてくる。
神とはいえ、強力な封印に耐えられるわけではない。特に対人、対神族としての効果も強い法界に囚われれば、内部の者が無事であるはずもなかった。
もはやこの都には、弓を構える者も、槍を構える者もいない。
全生命は私の魔法を前に膝を折った。
「ははは」
愉快だ。思わず笑みが溢れてくる。
これで多少なれ、彼らの魔法に対する認識は改まったことだろう。
魔法を侮ってはいけない。魔法に歯向かってはいけない。
その基本理念が彼らの記憶に刻まれたのであれば、私はただただ満足である。
……が、まだ首謀者の姿を見つけていない。
意識の残った神族を尋問し、居場所を吐かせる必要があるか……。
「なんて……ことを……」
「うん?」
石の杖で肩を叩いて考え事をしていると、不意に路地から声が投げかけられた。
「こんなことが……許されるとでも……!」
それは、日本刀を持った少女だった。
何ら戦闘向きではないシャツにスカートは土で汚れ、長めのポニーテールにも砂がついている。
彼女もまた、法界に閉ざされ苦しんだ者の一人なのだろう。日本刀は随分と質の良さそうなものであるが、それを杖代わりにするほどだ。
しかし立ち上がるだけでも精一杯だというのに、彼女はなかなか根性がある。
「許すか許さないかは私が決めることだ。貴方達は許されないことをした。だから私が裁いたのだ」
「ふざけ……!」
「……魔法の効きが悪かったのか。もっと教えてやる必要があるな」
石の杖を掲げ、魔法を発動させる。
「あっ……!?」
すると少女の体が浮き上がり、私の目の前までゆっくりと運ばれた。
少女は必死に手足を動かすが、腰を基軸に浮かされた体勢は整うこともなく、また刀をこちらに振り回そうとも、切っ先が私に届くこともない。
「貴様っ! これ以上この都を壊してみろ! 私は――」
「“平伏”」
「ぐぁあっ!?」
言い切る前に、月魔法による局所的な高重力が少女を石畳に押し付けた。
強烈な圧力によって石畳はひび割れ、少女の身体が軋みをあげる。
「まだわからないのか。魔法使いの邪魔をしてはならないと」
「……死ね……!」
「“大いなる開墾”」
「――ッ!?」
重力魔法と同時に、土魔法を発動。
少女と共に押し付けられた地面が爆発したかのような勢いで跳ね上がり、辺りに土煙が舞い、月の砂が降り落ちる。
上からの圧力と、地面からの強大な爆発。
その衝撃は、生半可な爆弾では再現できないものだ。
「う……」
「それでも貴女たち神族は生きている。世の中不平等だな。地上の魔法使いがそれを手に入れるのに、どれだけの努力と時間を要するか、貴女にはわからないだろう」
月の都に生まれた小規模なクレーターの中央には、白い砂に半分近く埋もれた少女が倒れていた。
うめき声を上げているので、まだまだ彼女は元気だろう。
私は再び魔法を使い、彼女を浮かせて目の前まで移動させてやった。
「どう……して……」
「どうして?」
「何故……月の都を……襲った……」
少女は浅い息で愚問を口にした。
「月の運行に手を出したから。そして、月の魔力を封じたからだ」
「……そんなこと――」
無詠唱による地面の爆発が、再び少女の身体に土を浴びせる。
当然ながら、言葉はそこで途絶えた。
「貴方達は何も理解していないようだな。月の運行を動かすこと。月の魔力を封じること。それが一体、どれほど運命を捻じ曲げてしまうのか」
「……?」
頭から流れる血が少女の右目を伝い、地面に落ちる。
しかし私の言葉には反応を示している。話せないわけではないのだろう。
「貴方達は月の禁忌に触れた。その罪を自覚させるために、私はこうして貴方達の歴史に今日という日を深く刻み込んでいる」
「……歴史に……刻む……?」
「そうだとも」
杖を振り、少女をそこらの家の壁面に叩きつける。
その衝撃によって壁はひび割れ、少女は小さなうめき声をあげ、地に伏せた。
「このような残念な事件を二度と起こさせないように、この都を、貴方達神族を根絶やしにするのは簡単だ。あまりに簡単なことだ。“血も涙も亡き魔法軍”でも使えば、貴方達は二十秒以内に滅んでいたことだろう」
私は目の前に血の書と涙の書を浮かべ、それぞれの特定のページを同時に開く。
すると私の周囲に複雑な魔法陣の輪が何重にも形成され、魔法の起動準備が整った。
少しでもここに魔力を注いでやれば、あとは無数に、無限に増え続けるドクロのゴーレム達が、血の書と涙の書の大魔法を使いながら、すみやかにこの月面を静かな世界に変えてくれるだろう。
「い……いやっ、やめろっ……やめて……!」
「月の都の終焉。それでも平穏は訪れるだろう。だがそれはあくまで、一時的なものに過ぎない。根絶やしにするのも私の感情としては悪くないのだが……それはあまり良い選択とは言えないのだ」
涙を流しながらこちらを睨む少女を尻目に、私は二冊の書を閉じた。
同時に魔法陣は消え、物騒な魔法の始動準備も消失する。
「貴方達を見て確信したよ。もしもここで貴方達が跡形もなく滅んだとしても、きっとまた近い未来、数百万年後か数千万年後には、貴方達のように月を弄ぶ愚か者が現れるのだとね」
日本の神が滅んだとしても、またこの月に新たな神族や魔族が根付かないとも限らない。
それが魔のタブーを知らぬ愚かな者であったならば、再び月の運行と魔力は危機に晒されてしまうかもしれない。
月の魔力が消失すれば地上に生きる数多の魔に関わる生物が大きな変容を迎えるだろうし、月の運行が大きく変われば、魔に類するものに限らず全ての生態系が歪み、大きな絶滅の時に晒されるだろう。
何よりも、魔法使いにとって月の変化は致命的だ。
「だから私は、あえて貴方達を生かすのだ。この先何億年経っても、絶対にこの日の事を忘れられないように。自ら月を守りたくなるようにね」
「……!」
わざとらしくケタケタと笑ってみせると、少女は引きつった顔で、更に大粒の涙を流してくれた。
「さて。なので私はその歴史づくりのために、この月の変容を生み出した首謀者を見つけなければならない。モニター越しに見たが、確か……銀髪の女だったはずだね。彼女は今、どこにいるのだろうか?」
「な……!?」
私は少女に石の杖を差し向けながら、その先端に魔力を込める。
「知っているのであれば、教えて貰えると助かるな。もちろん貴女の命も助かるだろう。ああ、もちろんあの首謀者の命だけは、絶対に保証してやれないが……」
「だ……だめ……! それだけは、絶対に……!」
少女は力なく首を振り、口を噤む。
「そうか。知っているのであれば話は早い」
「絶対に言わない……! そんな、そんなことは! お願い、やめて、それだけは駄目なの……!」
「“夢想のマッチ”」
「嫌! 殺して! やめなさいよッ! 殺すなら私をッ!」
杖から発せられた魔法が少女の頭部に取り付き、淡く輝く靄となる。
痛みはなく、意識の変化もない。これは対象に何らかの負担を強いる魔法ではないのだ。
「な……なにをしたの……」
「いや、場所を思い浮かべてくれるだけでいいんだ。この事件の首謀者がどこにいるのかを知りたいだけだから」
「……!?」
直線的な質問を投げかけた瞬間、少女の頭に取り付く靄に変化が生まれた。
靄は蠢きながら形を変え、次第に一本の細い紐となって、月の都の路地を進んでゆく。
「あ、ああ……!?」
「ありがとう」
靄の動きを目にして、少女はこの魔法がどのようなものかを悟ったらしい。
そうしてはっきりとこの魔法の狙いを自覚することによって、“夢想のマッチ”は更にその変形速度を上げてゆく。
「別の事を考えて隠そうとしても無駄だ。色づいた恐怖と記憶は、上辺の思考によって阻まれることはない」
「駄目! 駄目なんです! お願いです、許してください……!」
「私は“ありがとう”と言ったのだ。礼くらい素直に受け取りなさい」
「嫌! 逃げて! 皆様、聞こえてるなら早くシェルターから――!」
「“逃れ得ぬ宵闇”」
「は――」
意識と魔力を奪う魔法により、小うるさい少女は暫しの眠りについた。
残り僅かな魔力は私の手元に回収され、再び月の都に静寂が訪れる。
「シェルター。そうか。この様子だと、都の外にあるのだな」