月の騒動も一段落し、数日。ようやく私は落ち着いた。
事件以後、散発的に神族達が魔界を訪れては何やらゴニョゴニョと質問やら確認やらを求めてきたので、私と神綺はその対応に追われていたのである。
やはり今回の月の事件は、他の神族達にもそこそこの影響を及ぼしていたらしい。
それまではなるべく他の神々や人々に対して干渉しないように気遣っていた私であったが、公転周期を弄るとかはさすがにちょっとシャレにならないと思うし、月での大暴れは特にやりすぎとも思っていない。
どうにか誤差の範囲内で収まってくれたからいいものの、あのまま月の都の考えの通りに月が動かされていたとしたら……ひょっとしたら、私の未来は訪れなかったかもしれない。
いや、それでも結果として私の知るような範囲で問題は解決した。
そう考えると、私が手出しをするところまで含めて、やはり……運命の螺旋は同じ軌跡を描いて進むのだろう。
それはまるで、一本の精密なネジを差し込むかのように。
さて。月の異変の中で、私はエレンの魔法技術が想像を遥かに上回るレベルで高いことを確認できた。これは今回の不毛な事件の唯一の副産物と言ってもいいだろう。
多数の触媒を上手く組み合わせ、膨大な魔力を圧縮し、臨界させる。材料費が馬鹿にならない方法ではあるが、自らの魔力をほとんど使用せずに行った彼女の魔界移動は、私が目を見張るほどに高度なものであった。
もはやエレンには、私から何かを教える必要はない。
彼女ほどの才能があれば、あとは時間が勝手に彼女を精錬し、研磨し続けてくれるはずだ。
たとえ“研忘の加護”によって記憶をゆるやかに蝕まれようとも、エレンはきっといつか、素晴らしい魔法使いに上り詰めるだろう。
私に出来ることは、ほんの少し彼女の不便な生活を支えてやるくらいである。
「えーっ、ライオネル、もう先生やめちゃうの?」
ふわふわエレン魔法のお店。陽もとっぷりと暮れたその時間に、私は店の中でエレンと向き合っていた。
私とエレンの他には、エレンの飼猫……もとい使い魔のタレースしかいない。なので私はペスト医師のマスクを取り去り、髑髏の素顔を晒していた。
「ああ、火山でも思った事だけれども、私からエレンに教えるようなことはほとんどないと確信したからね」
「そうかしら? まだまだ私の知らない魔法が沢山ありそうだけど……」
「うむ。けど、魔法は数を覚えていれば良いというものでもないからね」
これは方便ではなく本音だ。別に私がエレンへの教師を辞めたいからと、適当な理由をでっちあげているわけではない。
エレンは既に優秀であるので、本当にわざわざ教えるような技術がないのである。
マーカスとしてはエレンの体質改善を願っていたのかもしれないが、そちらは難しい上に博打にもなってしまうので、安易に手出しはできなかった。結局の所、私がエレンにしてやれることなど微々たるものしかなかったのだ。
「そう……お店のお手伝いがいなくなると、なんだか寂しくなっちゃうわね」
「いや、お手伝いじゃないんだけど」
……考えてみれば、私はほとんど彼女の店の手伝いばかりをしていたなぁ。
最後なんかは一緒に魔族退治……もといドラゴン退治の仕事についていったし。
本当、何しに来たんだろうか、私は。
「……うん、でもあなたに立派な魔法使いだって認めてもらえると、なんだか嬉しいわ。ありがとね、ライオネル♪」
エレンは見た目相応にふわりと柔らかな笑みを浮かべ、そう言った。
感情豊かで優しい魔法少女、エレン・ふわふわ頭・オーレウス。
彼女との生活は、短いながらもこれで終わりだ。
「うむ。……私もエレンのような魔法使いに出会えて良かったよ。貴女のおかげで、忘れかけていた魔法の側面を見つめなおすことができた気がする」
「うふふ、ちょっと大げさじゃない?」
「そんなことないよ。本当の話」
「そこまで凄いことしてないのに……でもまぁ、ありがとね」
魔法を使わなくても済むならば、使わない方がいい。
それは、魔法使いの考え方を根底から揺するような生き方ではあったが……もし我々が魔法だけではどうにもできない状況に立たされてしまった時などは、彼女のような考え方が己を助けてくれるのかもしれぬ。
「その事に気付かせてくれたお礼……というわけではないが、エレンに贈り物をしようと思う」
「えっ、何々、プレゼント?」
「いかにも」
私が木製の背負い箱をドンと机の上に乗せると、エレンは“プレゼント”という言葉の響きが嬉しいのか、きゃっきゃと声を上げて喜んでくれた。
商人風の装備として偽装した、大荷物を収納することのできる木製の箱。
実は魔界からこのローマへと戻ってくる際に、この中にエレンへの贈り物をちょこちょこと詰め込んでいたのである。
せっかくの卒業式なのだ。少しは形に残る贈り物があっても良いだろう。
それが忘れっぽいエレンであるならば、尚更に。
「まずは……エレンが魔界に来るときに使った触媒をあげよう。はい」
「……」
木箱に納められていた、商売用の滑らかな木板達をテーブルの隅に追いやって、目当ての物をエレンの前に並べる。
とりあえず最初に渡すのは、沢山の布袋達だ。
エレンが魔界にやってきた時に消費した膨大な数の触媒は、もちろんタダで得られるものではない。私の都合で彼女に消費させてしまったところがあるので、この補償はある意味魔界からのものであった。
「うーん……せっかくなら私、魔法関係じゃないものが良かったなぁ……」
「すまんなエレン、まだあるけれど、こっちも魔法関連だ」
「えー」
やはりエレンは魔法に愛着を持っていないらしい。
不得意ではないはずなのに、本当に変わった女の子である。
「まぁまぁ、そう渋い顔しないでおくれよ。こっちはきっと、エレンも気に入ってくれるから」
「……本当?」
「ああ。……エレンには、この魔導書をあげようと思う」
「うん……?」
次に私が木箱から取り出したのは、一冊の大判の書物。
エレンにとっては抱え込まなければいけないほどのサイズではあるが、この書物だけは絶対に、彼女が持っているべき書物だと思ったのだ。
「……“読める人は読める魔導書”?」
表紙を読み上げたエレンが、可愛らしく首を傾げる。
「うむ。後ろも見てごらん」
「……“オーレウス”。オーレウスって? 私の家系の?」
「そうだ。それはエレンの、遠いご先祖様が書いた魔導書だよ」
その魔道書は、かつて私が出会った最初のオーレウスが自らのために書き上げた、魔法に関する備忘録である。
エレンと同じ“研忘の加護”をその身に宿したオーレウスが魔法を忘れまいと作った、遠い遠い過去の記憶だ。
「私のご先祖様……?」
「ああ。私はかつてオーレウスと出会い、短いながらも彼らと共に過ごしていたことがある。これは……彼らとの出会いのきっかけになってくれた品物だよ」
この書物がなければ、私は地上に生きる魔法使いの一族について知ることはなかっただろう。
そういった意味では、この書物を見せてくれたクベーラには深く感謝しなければならないな。
「……うん、読みやすいし、わかりやすいわ。それと、不思議ね。なんだかこの本を読んでると、とっても心が落ち着いてくる」
「……どうだろうか。気に入ってもらえたかな」
「ええ、とっても!」
エレンは大きな本を抱きしめながら、心から嬉しそうに笑いかけてくれた。
彼女の遠いご先祖が遺した記憶の欠片は、どうやら現代にも受け継がれるようだ。
エレンやかつてのオーレウスの記憶は、まるで立てかけた板を流れるかのように、滑り落ちてゆく。
この魔導書はきっと、エレンの再学習を助ける良い味方となるだろう。
最初のオーレウスは命を燃やし、愛のために死んでいった。その選択を、きっと彼自身は後悔していなかったと思う。
だからというわけではないが、もしもあのオーレウスが今のオーレウスを……エレンを見ていたとしたら。きっと彼もまた、にっこりと微笑んでいるに違いない。
「そして最後にもうひとつ」
「まだあるの? そんなに沢山、なんだか悪いわ」
「いやいや。これも絶対に、エレンに受け取ってほしいから」
触媒。そして魔道書。それともう一つ、エレンに渡さなければならないものがある。
「貴女にこれをあげよう」
「……リボン?」
私が差し出したのは、何の変哲もない白いリボンだった。
「そう。見た感じ、今エレンが髪につけているリボンと同じ要領で使えるはずだよ」
「……ん、そうねえ。ちょうどいいかもしれないわ。生地も綺麗だし。でもこれって、何なの?」
「それもまた、私が出会ったオーレウスのものだよ」
エレンに渡したリボンは、私がオーレウスと最後に交わした物々交換で得たものだった。
あの時、オーレウスは私にガラス瓶を求め、私は彼の持っていた使われていない白いリボンを求めた。これはその時に交換した物である。
オーレウスの封じた古い棚に眠っていた、来歴不明の白いリボン。
私にはその由来も、本来の価値も、かつて秘められていたかもしれない想いも読み取れなかったが……ずっと魔界の蔵に眠らせておくよりは、誰かに使われていた方が幸せだろう。
「そう、これも私のご先祖様が……」
エレンは白いリボンを手に取ると、どこか遠い目でそれを眺めた。
その時の物憂げな表情は、十といくつかにしか見えないエレンの雰囲気を、不思議とずっと大人に見せていた。
「ねえねえ、ライオネル」
「うん?」
が、そんなミステリアスな雰囲気もすぐに霧散して、いつもの溌剌としたエレンが戻ってくる。
「このリボン、色がちょっと地味だから茜色に染めても良いかしら?」
「えっ」
「せっかく茜も出来たんだし、丁度いいでしょ?」
「いやまぁその、うん? まぁ、そうだね」
「よーし、じゃあさっそく染色しちゃおーっと。今つけてるリボンもやってみたいけど、上手く染まらなかったら困るしねー」
「……」
まぁ、道具なんてものは使われてなんぼである。
だが、まさかもらった瞬間に今使っているリボンのスペアばりの扱いをされるとは思ってもいなかった。
「上手く染まらなかったら、タレースにつけてあげるからねー」
「ンニャァ」
「あんたすぐに首輪とっちゃうんだから、しょうがないでしょー」
「ニャァ」
「……ま、別にいっか」
そう、道具は使われてなんぼだ。
魔法も道具も同じ。使われてこそ意味があるし、意義がある。
オーレウスがどんな顔をするかはわからないが、きっと悪い顔はしないだろう。
何よりエレン・ふわふわ頭・オーレウスとは、そんな魔法使いなのだから。
「ねえねえライオネル」
「ん?」
「もし私が赤いリボンをつけたら、似合うかしら?」
茜色の水に手を突っ込みながら、どこか期待するような顔でエレンが訊ねた。
「そりゃあもちろん、似合うと思うよ」
「ホント? 嬉しいわ。ふふふっ。それじゃあ、上手く染めないとねー!」
「ニャー」
忘れっぽい魔法使い、エレン・ふわふわ頭・オーレウス。
彼女と過ごす時間は、結局最後の最後まで、ほんの少しも湿っぽくなることはなく、ずっとふわふわしたままであった。
茜色の陽がローマの果てに沈み、藍色の空に月光が灯る。
きっと明日もまた、エレンのお店は盛況することだろう。