東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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魔法使いの憂鬱と決断

 過去の世界。魔界。

 

 色々なことを考えながら、私は神綺様の後ろをぼんやりとついて歩いた。

 

 赤い絨毯に赤い壁。赤だらけのどこか不気味な廊下を、神綺様は宙に浮きながら進んでゆく。

 神綺様の服も、同じ鮮やかな赤色だ。私の目線は自然と、流れるように揺れる銀髪を追っていた。

 

「本当は瞬間移動をしても良いんだけど。今自分がいる場所がどこか、わかった方がいいものね」

 

 瞬間移動……の意味はよくわからなかったけれど、とにかく神綺様は私を気遣ってくれているらしい。

 悪い人ではない。あまり話もせずに決めつけるのも、都会で暮らす女としてどうかと思ってしまったけれど……今の私は、ただ誰かに縋っていたかったのだ。

 

 

 

 外は、空は、夕焼けのような藍色と茜色に染まっていた。

 いいや、違う。あれは夕日の輝きではない。あの空はきっと、“ああいう色”なのだろう。

 

「……」

 

 そして、見回せば……整った街並み。

 どこまでも続く建物に、広い道。

 

 青い街灯は等間隔に灯り、道行く人々や……恐ろしげな生き物たちの往来を導いている。

 

 都会だ。そして、異世界だ。

 私は圧倒的な文明を目の当たりにして、感動の気持ちを声にすることも、顔に出すこともできなかった。

 

「ここは魔都パンデモニウム。主に悪魔たちが暮らす……一応、魔界で一番の都会と言えるわね」

 

 私の隣に立つ神綺様は、往来をどこか興味なさげに眺めながら呟いた。

 

「悪魔……デーモン?」

「デーモン。そうね、そんな言い方もされているわ。他にも、魔人やただの魔族だって、たまに歩いてるんだけどね」

「悪魔……魔人……どう違うんですか?」

「ふふ。きっと、すぐに違いがわかるわよ。魔界にいれば、すぐにでもね」

 

 思わせぶりな笑みを浮かべ、神綺様は再び歩き始めた。

 

「さ。しばらく手を繋いで歩きましょう? ここは中央だから安全だけど、少し外に出ると物騒だから」

「あ……はい」

 

 神綺様に手を取られ、私は再び冒険を始めた。

 

 

 

 魔都には、恐ろしい生き物が沢山歩いていた。

 それは、それまで数多の幻を見続けた私でも信じられないような光景だった。

 怖い絵本でしか見られないような怪物や妖魔が、まるで人のような慎ましさで路肩を歩いたり、這ったりしているのだ。

 一見すると地獄絵図だけれど、道の綺麗さや行儀の良さは人よりも良いように見えてしまうから、不思議なような、不気味なような……。

 

 神綺様が言うには、ここにいるのはほとんどが悪魔と呼ばれる存在で、人間はいないらしい。

 そう聞かされると途端に寂しさがこみ上げて来て、涙が出そうになる。

 けれど、神綺様が優しく声をかけ続けてくれたので、ギリギリで泣かずには済んだ。

 

 ……それでも、怖いものは怖い。不安なものは、不安。

 

 私がそう弱音を吐くと、神綺様は困ったように笑い、“それじゃあ、見て回るより先に会いに行きましょうか”と言って……。

 

 そして、次の瞬間には景色が変わっていた。

 

 

 

「え……」

 

 さっきまでは、魔都にいた。

 そのはずだ。涙で、ちょっとだけ視界は潤んでいたとは思うけれど、それでも魔都の広い道を歩いていたはずなのだ。

 

 それが今は、全く違う場所にいる。

 

 誰の声も、足音も聞こえない無人の街。

 とても静かで、ただ水路を流れる水の音だけが聞こえるだけの、さみしげな世界。

 

「こ、ここ……どこ……」

 

 見回せば、どこも目が眩んでしまうほどの彫刻ばかりだった。

 足元の煉瓦も、建物も、街灯も、ベンチも……全てが緻密な彫り物で出来た、芸術の都に、いつのまにやら、私は迷い込んでいた。

 

「ここは魔界中央都市セムテリア。魔界の真ん中にある、誰も居ない街よ」

 

 人が作ったとは思えないほどの芸術が、野ざらしに……無人の最中にある異質な世界。

 私はそんな光景が、どうしてかとても恐ろしくなってしまって、思わず神綺様の服の裾に抱きついてしまった。

 

「……大丈夫よ、私がいるし……それに、ライオネルも待っているから」

「……」

 

 ライオネルが誰かはわからない。

 けど、私は今この時だけはどうしても神綺様から離れたくなくて、彼女の服にしがみついたまま小さく頷くのだった。

 

 

 

 綺麗な廃屋。少しの欠けも無い、完成された美の世界。

 

 だけどそこに生き物の姿はない。

 

 人はいない。悪魔だっていない。

 

 ではどうして、こんな街があるのだろう。

 

 神様の街? それとも、誰かが住んでいて……棄ててしまったの? こんなに、美しい街を?

 

 どうして? ――そう考えると、やっぱり私は恐ろしくて、神綺様に強く抱きついてしまう。

 

 

 

「おや。早かったね」

 

 やがて、ほとんど神綺様にくっつくようにして歩いていた私が、曲がり角の向こうで見たものは……豪奢な椅子に腰掛ける、背の高い仮面の男だった。

 

「やあ、魔界へよおこそ」

 

 その仮面は真っさらで、目の部分に二箇所だけ、横の切れ目が入っているだけの単純なもの。

 当然表情は見えなかったし、全身を包む灰色のローブや、指先までグルグルに巻かれた包帯もあって、男の姿は……魔都を歩いていた悪魔たちと、さほど変わらないように見える。

 

 けれど、見るからに化物という雰囲気ではなかったし、何より私に対して気さくな言葉を使ったらしかったので、私はなんとか気圧されることなく、返事のかわりに頷くことができた。

 

 どうやら仮面の男は、テーブルで本を読んでいたらしい。

 閉じられた表紙には“魔界旅行記”と書かれているのが見えた。

 

 ……そう、読めたのだ。

 それが、私がよく知る文字でなかったのにも関わらず。

 

「私の名前はライオネル・ブラックモア。魔界の偉大なる魔法使い、ライオネル・ブラックモアだ。お嬢さん、貴女の名前は?」

「……わ、私はアリス。アリス・マーガトロイド……」

「アリス・マーガトロイド。いい名前だね」

 

 神綺様は無言でチェアを引いて、私に微笑みかけた。

 どうやら、あの仮面の……ライオネルさんの向かい側に座れということらしい。

 ライオネルさんの低い声はちょっと怖かったけれど、声色は優しげだ。私は先程よりも緊張すること無く、高めの椅子に飛び乗るようにして座った。

 

「さて、アリス。私は貴女の手助けができる。だから、私に貴女のこれまでのことを教えてくれないだろうか」

「……私を、帰してくれる……んですか?」

「貴女が望むのであれば」

「……わかりました」

 

 帰してくれる。

 その言葉に釣られるように、私は神綺様にも話したのと同じ事を、ライオネルさんにも説明した。

 私が幻が見えるという話には、ライオネルさんも笑うことはなかった。

 

「ふむ、1905年の……ルーマニアか、なるほど。それにブクレシュティ……ブカレスト……?」

「はい。ブクレシュティです」

「ああ、ブクレシュティね。知っているとも、うむ」

 

 ルーマニアを知っているのかしら。

 だったら、ルーマニアまで送ってもらえる……?

 

「ところで、アリス。その日は何月の何日だったか覚えているかな?」

「何月……えと、11月4日です」

「そうか、11月4日だね。アリス、その日付をよく覚えておくんだよ」

「……?」

 

 11月4日。よく覚えていろという意味はわからなかったけれど、私はとりあえず頷いておくことにした。

 

「そしてアリス。神綺から聞いているとは思うけれど、貴女が抱えているその本を大事にしなさい」

「……これ?」

 

 私はじっと抱え込んでいた分厚い本を見た。

 

 綺麗な水色から灰色に変わってしまった“生命の書”。

 不思議と、この書物の名前も、今なら読むことができる。

 

 けれど、裏側の文字は読めなかった。

 

「……」

「それは、私の名前が書いてあるのだ。“ライオネル・ブラックモア”と。慧智の書にしかないような、非常に古い文字でね」

「え? ライオネル、って……」

「そう。“生命の書”、その魔導書は私が書いたものだ」

「……」

 

 本の著者名として記されていた名前は、ライオネル・ブラックモアと読むのだという。

 ライオネル。ライオネルさんは、この人だ。

 

 この人が書いた魔導書が、ウントインゲさんの書斎にあった?

 私はそれを読んで……?

 

「っ」

 

 途端に、魔導書を開いてしまった時の恐怖が蘇る。

 閉じようと思っても閉じない本。身動きできない身体。頭に入り込む文字。

 

 ……思い出しただけでも身震いする。

 力があるのは、理解できる。けれど、こんなに恐ろしいものだとは、あの時の私は思ってもいなかったのだ。

 

 ……そんな本を……目の前にいるこの人が作ったの?

 

「今では、その魔導書は効力を失っているだろう。開いても文字が書かれているだけで、効果は発揮しないはずだよ」

「……?」

「開いてみると良い。そこには、ただ難解なだけの魔界文字が羅列しているはずだから」

 

 恐る恐る少しずつ開いてみると、確かに何も起こらない。

 書斎にあった時のような、周囲の幻や魔力を吸い込むような感じはしないし、存在感もない。

 ページを大きく開いても、確かにそこには、難しい言葉がぎっしりと並んでいるばかりだった。

 

「本来の使い方とは異なるけれども、それはそれで貴女の勉強の役には立つと思う。それはアリスだけのものだから、好きに使いなさい」

「……え、あの……これ、私のじゃなくて……」

 

 グリモワールをもらうのは嬉しい。

 これど、これは私のものではない。これは、私が勝手に開いて……持ちだしてしまった、ウントインゲさんのグリモワールなのだ。

 書いた人に言われても、私のものにはならないと思う。

 

「いいや、それはもう紛れも無くアリス・マーガトロイド。貴女のための魔導書だよ。1905年の11月4日に誰の所有物であったかは、その時になるまで気にしなくても良いさ。何なら、上から表紙でも掛けてしまうと良い」

「あ……」

 

 ライオネルさんが軽く指を鳴らすと、魔導書の上にパサリと黒っぽい紙が舞い降りた。

 ……いや、皮。だろうか。

 しっとりした質感の、丈夫そうな皮。それは、この本につけるためのカバーらしい。

 

 ライオネルさんが、つけろと言っているのだろう。

 私は突然現れたブックカバーを、いそいそとグリモワールに着せてあげた。

 

「さて。アリス、貴女は自分のことを魔法使いだと言っていたね」

「……はい」

 

 本当はお手伝い……いや、弟子だ。

 まだまだ、ウントインゲさんに一人前と認めてもらったわけではない。

 けれど私は自分が魔法使い以外の何かであるとは言いたくはなくて、“はい”と答えてしまった。

 

「魔法使いとは、魔を学ぶ生き物だ。魔法を操り、魔力を研究し、神秘の奥底へと沈んでゆく……それは、人間であれ魔物であれ神々であれ変わらない。魔を求め究めんとする者は、誰もが等しく魔法使いなのだ。それはわかるね?」

「は……はい……」

「しかし、魔法とは難解なものだ。人間であれば、魔法のほんの触りの部分で満足できるかもしれないが……その最奥を目指すともなれば、途方も無い時間を要するだろう。となれば、魔法とはとても、人の身で追えるものではない」

「……」

 

 なんだか……難しい? 話に、なってきた気がする……。

 

「アリス。ライオネルはね、魔法を勉強しようとしたら、人間の寿命じゃ足りないよねって言ってるのよ」

「あ……そうなんですか」

「……うん、そうだよ」

 

 確かに、そう……だと思う。

 魔法は難しいし、奥が深い。ウントインゲさんは凄い魔法使いだけれど、きっとそれまでには、何年も何十年も、何百年も積み重ね続けたのだと思う。

 そのためには、それに合った命の長さが必要だ。

 

 つまり、長生きしなければならないのだ。

 他ならぬ、魔法によって。パチュリーも使っていたような、“捨食の法”や“捨虫の法”を自分にかけて。

 

「さて、アリス。貴女は今、自分を魔法使いだと言っていたが……それはつまり、悠久の時を歩むということでもある」

「……はい」

「それは何百年にもなるし、何千年と続くことだって当然あり得るだろう」

 

 何千年。そうなると、もうとても私には想像できない次元の話だ。

 

「アリスが魔法使いならば、今から1905年を待つのはそう難しいことではないだろう。しかし……実を言うと、私はアリスを、まぁ実際は少々違うのだが……アリスを今すぐ、1905年のルーマニアに送り届けることが可能だ」

「……!」

「これからすぐに元通り。私には、そうするだけの考えと力がある」

 

 帰れる。ライオネルさんは確かにそう言った。

 突然輝いた希望に私は身を乗り出して、今にも口からはおねだりが出ようとしていた。

 

「しかし、もしも貴女がそうしてほしいと……すぐにでも元の時代に帰してほしいと言うのであれば……私は、貴女を魔法使いと認めるわけにはいかないな」

「……え」

 

 喜びの心が、一気に冷める。

 

 ライオネルさんに、魔法使いと認められない。それは……あまり気にしない。失礼だとも思っていない。

 けれど、私が魔法使いでない。それは、なんとなく嫌だった。

 

 浮ついた気持ちが、一気に冷え固まって、沈んでゆく。

 

「家に帰りたい気持ちはよくわかる。だが、焦らずともやってくる時を前にして、貴女はそれをいち早く欲しいと思うのかい?」

「……わ、私は……ウントインゲさん……」

「早く帰りたい。謝りたい。それは最もだ、理解できる。子供に酷なことを言っているという自覚も、私にはあるつもりだ。しかし……貴女の中の魔法使いは、それで良いのか」

 

 私の中の、魔法使い?

 

「悠久の時を堪えきれず、居心地の良い未来だけを欲する……貴女にとっての魔法使いは、そのような価値しかなかったのか?」

「!」

「それが……未来の魔法使いなのだろうか?」

 

 私は、背筋が凍るような思いをした。

 一瞬だけ、目の前のライオネルさんに深く失望されたような気配を感じ取ったのである。

 

 ……すぐにウントインゲさんに会いたい。

 ライオネルさんなら、それができる。

 

 でも、それは魔法使いとして正しいことではないと……そう、ライオネルさんは言っているのだ。

 

「……まぁ、向こうで……元の時代に戻れば、師もいるのだろう。その人の下で学べば、順当に魔法使いになれるとは思う。師の顔を立てるという意味でも、それは正しいのかもしれないね。……ごめんよ、アリス。やはりちょっと、私は変な事を言ってしまったようだ」

 

 私が答えに困窮していると、ライオネルさんは申し訳無さそうに頭を下げて、ゆっくりと席から立ち上がった。

 

「ま、待って!」

 

 その時、私はほとんど反射的に声を出していた。

 ライオネルさんは中腰になったままの状態で止まり、やがて私の顔をじっと見つめたかと思うと、静かに席に座り直す。

 

 ……呼び止めてしまった。

 いえ、だから引き返せない、というわけではない。

 

 これは私が出した答えだ。

 だから言うのであって、決して……ライオネルさんに呆れられたくないからだとか、そういう意味で言うのではないのだ。

 

「……私……いいです。私、このまま……1905年まで……魔法使いとして、過ごします」

 

 ああ、言っちゃった。

 けれど、言葉は案外、するりと喉から出てきたように思う。

 

「それは……本音かな? このくらいの時間だと……これはこれで、長いと思うよ?」

「……ううん。いえ、長くて良いんです。……私は、魔法使いになりたくて……このグリモワールを開いたんですから」

 

 黒いカバーをかけた“生命の書”を開き、難解な文字列に目を落とす。

 そこに記されている言葉のほとんどの意味は、私にはわからない。けれど、この魔導書は間違いなく、私自身が求めたもので間違いないのだ。

 

 ……私は魔法使いになるために、開けてはならない鍵を開けた。

 このままルーマニアに、ウントインゲさんのお店に帰ったところで、それが変わるわけではない。

 

 仮に帰ったところで……それで、一体どうやってあのパチュリーを超えられるというのか。

 ……いいえ、きっとあのままの日々を送っていたなら、私はパチュリーを超えることはなかったと思う。

 

 これは、遠い過去に送られたこの今は……チャンスなのよ。

 

 私が魔法使いになって、パチュリーを見返してやる、大チャンス。

 

「……決意は固いようだね」

「はい」

 

 ライオネルさんの仮面の細い眼差しをまっすぐに見て、私は強く頷いた。

 

「そうか、そうか……良い心意気だ、アリス・マーガトロイド。良い魔法使いになれると、私も嬉しいよ」

 

 ライオネルさんはとても低い、けれど心底嬉しそうな声で笑い、私の肩を優しく叩いた。

 

 


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