東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 その日、再び河内へと向かう人は、まるで波のようだったという。

 弓と矢筒を背負った人が何列にも連なり、食料や武器を満載した馬はひっきりなしであった。

 彼らの行軍は、何日にも渡って続けられるだろう。

 

 しかし、その行軍も今回が初めてではない。

 彼らは一度、同じ河内国渋川郡へも向かっており、今回はその再戦であった。

 

 彼らの敵の名は、物部守屋。

 有力豪族である物部氏を束ねる男であり、大陸から伝来する仏教を排斥しようと目論む、根っからの排仏派だ。

 

 それに立ち向かうのは蘇我馬子率いる蘇我氏と、それに追従する豪族たち。

 廃仏派の物部を滅ぼすために、非常に多くの人間が賛同し、集まった。

 数の上では、蘇我氏が完全有利であると思われた戦いであったのだが。

 

「……また、あの矢の雨を征くのか」

「しっ、やめておけ。聞かれたら事だぞ」

「しかしな……」

 

 だが、皇族と豪族、それに付き従う数多の兵達を持ってしても、一度目の討伐はあえなく失敗に終わった。

 人も馬も、剣も盾も足りていた。

 

 しかし、蘇我氏は物部が用意した莫大な量の弓矢、ただその一点で敗北した。

 

 物部が築いた簡素な藁や青草を束ねた防護壁は火矢ですら受け止め、起伏の多い地形では進軍もままならず、頑強な青草で作られた草結びは多くの兵の足を止め、時には折った。

 そこからの、高地から一斉に放たれる矢である。

 行きは慎重であれば難なく躱せた草結びも、追い打ちをかけるように執拗に放たれる矢に急かされれば多大な効果を発揮した。

 蘇我氏は予想以上の損害に歯噛みし、撤退を余儀なくされたのである。

 

 

 

「守屋が守戦に長けるということは最初から解っていたこと。それに加え、地の利を活かされ、矢の数ではこちらが圧倒的に劣っていた。負けて当然だとは、最初に申し上げたつもりだったのですがね」

 

 二度目の行軍を行う長蛇の列の前方で、一人の子供が呆れた風に嗤った。

 背は低く、顔立ちも幼い。およそ戦に連れ出すには早過ぎる子供であった。

 

「ま、それも計算の内。一度目の大敗で、伯父上もようやく私に一軍を任せてくださった。戦は今回で終わり、仏教の世が訪れることでしょう」

 

 しかし、子供の瞳に潜む知性は、一度覗きこめば足が竦んでしまうほどの覇気を感じさせる。

 先程からの物言いからも、成人に劣る所は何一つ無い。いや、今のこの大和において、この小さな賢者を超える知を持つ人間など、実際のところ存在しないのであろう。

 

 彼女の名は、豊聡耳神子(とよさとみみのみこ)

 千数百年後の日本において、“聖徳太子”と呼ばれる皇族であった。

 政治の関係上、自らの身分を男と偽り、現在も男装してはいるものの、立派な女児である。

 

「しかし、神子様。兵は物部の稲城が堅牢であると、不安を感じているようですが……」

 

 豊聡耳神子……聖徳太子の隣に馬をつけるのは、彼女と同じくらいの歳の少女、蘇我(そがの)屠自古(とじこ)

 彼女もまた蘇我氏に連なる者であり、太子の影の腹心でもある。

 

「怯える必要などありませんよ、屠自古」

「ですが……」

 

 太子はどうとでもなると言いたげに笑むが、屠自古の表情は暗い。

 

布都(ふと)は……」

「屠自古」

 

 失言は、すぐさま太子によって咎められた。

 屠自古は慌てて口を手で抑え、辺りを伺う。

 

 幸い、今の会話は誰にも聞かれていなかったようだ。

 元々内密の話をしていた所であったため、彼女ら周囲の二人からは護衛もほとんどいない。

 “将来の夫婦”というだけのことはあり、気をきかせた兵たちとの間合いは十分すぎるほど離れていた。

 

「……“彼女”は。物部の術を用いれば、守りはより堅強になると……そう言っていました」

「神仙の術、ですね。“あの子”も実際に見せてくれましたし……ええ、それは間違いないでしょう」

 

 物部守屋には、自陣を守る強力な“術”があった。

 それは草を束ねただけの防壁を、いつまでも青く瑞々しく、火を寄せ付けない強靭なものとする、大地に則した術である。

 一度目の戦いでその術を実際に見た者はいなかったが、太子は物部が扱うというその術について詳しく知っていた。

 彼女らは、物部の内通者を抱え込んでいたのである。

 内通者より得られた情報は確かなものであり、それによって太子が立案する今回の作戦は、より高精度なものになったのは間違いない。

 

「ですが……それが事実であれば、神子様。一体どのように、守屋を討つというのです? 馬子様は、時が経てば稲城は枯れると、今回の二度目に打って出ましたが……それが通じないとなれば……」

「ふ……何、秘策はありますとも。それは今も、私達の後ろで目を光らせてくれている」

 

 太子は不敵に笑い、自分たちの後方を追従する馬群に目をやった。

 

 武器、食料、油。

 様々なものを載せた馬達に混じって、一人の線の細い人物が白馬に跨っていた。

 

 歳は太子達よりも上、十代後半程度であろうか。

 その衣服に露出はほとんど無いものの、僅かに覗ける肌の色は明らかに白く、病的とさえ言えるだろう。

 長く伸びた白髪は、陽を受ければ時折銀のように輝いている。

 

 総じて、白。

 乗る馬も、肌も、衣服も、髪ですら白い。

 そんな異質な者が、兵たちに混じり、太子のすぐ後方につけている。その姿はまさに異常と表現する他にない。

 

「……あの者、ですか」

 

 後方に潜む白き者を見て、屠自古は眉を顰めた。

 やはり彼女から見ても、白馬に乗ったソレは不気味であったらしい。

 

 だが、屠自古が怪訝そうな顔になるのも決して無理はなかった。

 

 白いだけならば病的で済む。

 ある意味、それは神聖とも言えるのかもしれない。

 

 だが背後にいるその人物は、顔に奇妙な面を付けていたのだ。

 

 

 ――それは猿の顔を象った、粗い木彫の面。

 

 

 全身白い謎の者が、猿の面で顔を隠している。不気味に思うのは、極々真っ当な感性だと言えるだろう。

 

「ええ。彼ならば、必ずや私に勝利を届けてくれるでしょう」

 

 それでも、太子はあの白い猿面の人物に全幅の信頼を置いている。

 彼女の余裕も、どうやらそこから来ているらしい。屠自古にはそのことが、少々……いや、かなり不服であった。

 

「……はぁ。まぁ……神子様がそう仰るなら、私も、信じますけども……」

「ふふっ……大丈夫よ屠自古。私は貴女の働きにも期待しているわ?」

「なっ……! あ、ぁ……ありがとう、ございます……で、ですがその口調は、今は隠されてくださいっ……!」

「あら、うっかり」

「もう……」

 

 

 

 

 やがて一行は、その歩みを止めた。

 河内まではまだまだ距離がある。日が落ちてもおらず、まだまだ行軍が可能なその最中での、唐突な停止であった。

 

「神子様? 何を……」

「ええ、少し祈願をと思いまして」

 

 軍の流れを止めたのは、聖徳太子その人である。

 年端もいかない子供が軍を止め、馬を降りたのであった。

 

「祈願、ですか?」

「ええ。こうして仏に祈っておけば、彼らの士気も少しは上向くでしょう。そして仏の力添えによって勝ったともなれば、仏教の浸透はより早くなる」

「な、なるほど……勝つことが前提の祈願なのですか……」

「当然よ。勝つために祈るのではなく、勝つからこそ祈っているのです」

 

 しばらくすれば、兵たちの間で豊聡耳神子が仏に祈願しているらしいという話が広まってゆく。

 すると兵たちもその姿に感心したためか、次々に倣うようにして、太子と同じ方角の山へと命を捧げ始めた。

 

 必死に祈願する兵たちの姿を横目に見て、太子は満足したように微笑んだ。

 

 ――なるべく、神にすがる愚かな兵たちを嘲らぬよう、自らの表情に細心の注意を払いながら……。

 

 

 

 

「――太子様」

 

 しかしふとした瞬間、太子のすぐ目の前にはあの猿面の白い者が庇うように立っていた。

 

「どうした!?」

 

 突然のことである。太子には何が起こったのかわからない。

 どうやら周りの兵も狼狽えているようで、急に騒がしくなりはじめていた。

 

「うおお、あ、あれは……!?」

「まさか、あれが!?」

「み、神子様、これは一体……!」

 

 恐慌する兵。嘶くことも忘れて佇む馬。

 屠自古も太子の服の裾に縋り付き、目には涙を浮かべていた。

 

「あれは……」

 

 太子は猿面の人物の脇から顔を出し、様子を伺い見る。

 すると、そこには……太陽よりもずっと強烈な、白く眩い輝きに満ちているようだった。

 

 妖か。一瞬そう覚悟したが、どうもそういった類の輝きではない。

 むしろそういった不浄な輩よりはずっと清浄で、それは言うなれば……神に近いものであった。

 

『我が名は毘沙門天。厩戸王(うまやどのおう)、お主の願いは確かに聞き届けた』

 

 山から発せられる清浄な輝きから、肌を突くような声が発せられた。

 声は自らを毘沙門天と名乗っている。

 

 毘沙門天。その名を知らない者は、蘇我の軍勢には一人もいない。

 戦と財宝の仏神である毘沙門天は、守屋討伐に向かう兵たちにとって最も尊い神仏なのだから。

 

「毘沙門天……? だと……」

『我が力により、仏を崇めるお主らを勝利へと導こう』

「おお……おおおおっ!?」

「加護だ! 俺達には……仏の加護がついておるぞぉッ!」

 

 山の頂で輝く毘沙門天は、兵たちに語りかけ、鼓舞した。

 その時の兵たちの喜びようは凄まじいもので、雄叫びを上げるものは当然として、中には勝利を確信して涙する者までいた。

 

 だがその中で唯一、太子の顔だけは明るくない。

 彼女は計算違いの場面で現れた毘沙門天を見て、何かを深く考えているようだった。

 

『……クカカ、案ずるな。仏の導きのまま、存分に戦うが良い。厩戸王(うまやどのおう)、お主が望む仏教の未来、必ずや勝ち取るのだぞ』

「……はっ」

 

 野太く笑う毘沙門天の声に、恭しく頭を下げる豊聡耳神子。

 もはや兵たちの喜びの声は勝鬨となり、彼女は凄まじいまでの熱気に包まれた。

 

 遠方の山が放つ神気の輝きはその喝采の中で消えてゆき、見えなくなった。

 それでもまだしばらくは兵たちの歓喜の叫びが収まることはないだろう

 

「……神子様?」

「……いいや、屠自古。なんでもないよ。……力を与えてくれるならば、好都合です。神々が何を考えているのかは知りませんが……吉と出るならばそれで構いません」

 

 少々予想外の展開を迎えたが、戦の成り行き事態は変わらないだろう。

 太子は頭のなかで素早く計算を終えると、いつも通りの澄ました表情へと戻り、そして不敵な笑みを浮かべた。

 

「勝てる戦は勝ちます。それに変わりはない……でしょう? 河勝(かわかつ)

「……まさに、その通りです」

 

 太子の前に踊り出た男は太子に名を呼ばれ、短く答えた。

 声は中性的だが、それは確かに男の声である。

 

「勝ちを取ってみせましょう。必ずや、太子様のために」

 

 河勝は猿の木面をずらし、何も隔てぬ目によって遠方の山を見据えた。

 

 

 豊聡耳の神子の腹心、秦河勝(はたのかわかつ)

 

 

 その顔は白く。

 

 その鼻は高く。

 

 そして、その瞳の色は、空のように蒼かった。

 

 

 


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