大和には、仏教が浸透しつつあった。
いや、実際に現在でも寺はあるし、それが減ったという話も聞いていない。
だがそれでも、信仰する者は減ったのだろう。
仏教の影響力の強い大和の人間でさえも、多くが常世神を信仰しているらしかった。
どうやら顔見知りの役人も、この怪事件には頭を悩ませているらしい。
あまりにも事が大きすぎる故、どうにも対処ができずにいるようだ。
既に、民衆の多くがこの偽りの宗教に傾倒している。
中には、冠位を持つ者でさえも、常世の神を崇拝しているのだとか……。
……由々しきことである。
「ありがたや、ありがたや……」
路傍にはごく当然のように常世の神の祠が立てられ、人は矮小な幼虫を大事そうに保護してきては、仰々しく祀り上げる。
そして彼らは祠に財を喜捨し、さも真っ当な事をしたかのような顔を見せるのだ。
……ローマには、パンと見世物という言葉があった。
食と酒に溺れた時、人は考えることをやめ、それにすがりつくものであるという、とある詩人の警句であった。
財を投げ打てば、それ以上の財を得る。それはつまり、無償の配布のようなもの。
無償で
「次は酒が届くといいなぁ」
「だなぁ。前に飲んだやつは、良かったなぁ……」
……文字通りばら撒かれる財により、ゆくゆくはこの大和も貧困に喘ぐ事となるだろう。
だがひょっとすると、その前に……舌の肥えた彼らによる暴動が起こるやもしれぬ。
酒は、人を狂わせる。
昔はまだ良かった。酒精も弱く、高価であったが故、人は溺れるほどに酒を飲めなかったからだ。
多くの人は酒の闇に呑まれることなく、どうにか平穏な暮らしを続けている。
だが、こうして常世の神によって酒が大量にばら撒かれてはどうだ。
酒には、女や戦場にも似た魔性がある。それに取り憑かれる者も、大勢出て来るはずだ。飲めば飲むほどに、人は次にも同じ量を求め……それが当然であると考え始めるだろう。
……飢餓よりも先に、厄介な暴動が起こりそうだな。
あるいは、酒に溺れ過ぎた者が妖怪へと変ずるかもわからぬ。
より早く、この退廃的な宗教を排斥せねば……。
霧の立つ、まだ薄暗い朝。
大和近郊の畦道に、十数人の影が蠢いていた。
集団は誰もが顔を頭巾で隠し、過剰な程の布で全身を覆い隠している。見た目からは、男か女かの区別もつかないだろう。
そして彼らは両手に橘の枝を握り、唸るような低い声と共に踊っているようであった。
「――ォオ――ォオ――」
枝葉を振るい、不気味な声で歌い、這うようにゆっくりと進む妖しげな集団。
やがて彼らは畦道の丁字路までたどり着くと、そこで輪になり、枝葉を叩き合わせ、より激しく唸り声を上げだした。
「ォオ! ォオ!」
奇妙な儀式の熱が最高潮に達すると、無風の天候であるにも関わらず、辺りに砂埃が立ち始めた。
霧が晴らされ、放棄された田畑の土が舞い上がり、不穏な気配が立ち込める。
そして、狂気じみた唱和は唐突に鳴り止んだ。
儀式を先導していたであろう男の一人が一歩だけ前に出て、静かに呟いたらしい。
「……成功だ。この地は今より、常世の神の祠として認められた」
土煙が晴れると、その中央にはなんと、見慣れぬ祠が出来上がっていた。
端材から組み上げたかのような、粗末な木製である。しかしそれは確かに祠と呼べる程度の形を保っており、先程までは影も形もなかったはずの物体であった。
「成功だ! ここもまた、常世の神の土地となったぞ!」
「ォオ! めでたいことだ! ォオ!」
「まさに超常! 神の御業と呼ぶに相応しき建立じゃ! 常世の神よ! ォオ! ォオ!」
……そう。
つまり彼らは、この大和の地にどういった呪術を用いているのか、儀式によって祠を生み出す、熱狂的な信奉者なのであろう。
声からして年の差に開きはあろうが、聞き取れる興奮の度合いは常人のそれではない。
盲目的で、狂信的。およそ、尋常ではない者のそれであった。
だが。
「だからこそ貴様らは、何かを知っているのだろう?」
「……! 何者だ!」
朝の霧は、白い私の姿を程よく隠してくれる。
ちょっとした木陰に隠れて気配を経てば、悟られずにいるのはそう難しくない。
丁度、霧も晴らされ隠れることも難しくなった頃合いだ。
連中のやり口は把握したし、観察はこれで充分だろう。
「我が名を知らぬか、大和を蝕む叛徒よ」
「なにを……!」
「大信様! あの猿の面、そして奇妙な刃槍……あれはまさか!?」
気色ばむ集団の前に出て、薙刀を軽く片手で振り回す。
ふむ、この面と、大和に二つとして存在しない薙刀に見覚えがあるならば、話は早い。
「我が名は秦造河勝」
名乗り、薙刀の切っ先を向けてやれば、相手は面白いくらいに動揺した。
河勝。秦河勝。
……伊達に何年も妖怪退治を続けていたわけではない。
私の武名は今も大和に轟いているようだった。
あるいは、太子様もこれを見越して……いや、考えすぎか。
そして考えたところで、やることは変わらない。
「さあ、貴様ら。“常世の神”中枢に巣喰う者ならば、白は切れぬぞ。命が惜しくば、胴元の居場所を吐いてもらおうか」
この連中が大和の近郊で祠を不法に建立しているのは調べがついているし、今実際に目撃した。
紛れもなく、常世の神に深く関わる者共だ。
おそらくは常世の神にまつわる重要な施設についても、知っているに違いあるまい。
数は多いが、私の気配を悟れない時点で底は知れている。
少し脅してやれば、自ずと本拠地を零すだろう。
……私はそう、考えていたのだが。
「……秦造河勝。そうか、貴様が……“あの方”の仰っていた、害虫か」
「む?」
ゆらりと、姿を隠した男の一人が前に出る。
「害虫だ」
「害虫……害虫だ」
「自分から名乗った……本物だ、害虫……」
一人。二人。
狂信者達は体をふらつかせ、私の前に進み出る。
……様子がおかしい。
私を知っていて、しかも得物を構えているのだぞ。
何故そうも無防備に、こちらへ来れるのか……。
まさかそれほどまでに、常世の神を盲信しているというのか……。
だとしたら、やむを得まい。一人二人、首を刎ねる必要もあるだろう。
「害虫を潰せぇ!」
「ォオオオッ!」
私が攻撃目標を“腕”から“首”に変えたその時、狂ったような叫び声と共に、常世の神の信奉者共が一斉に走り寄ってきた。
橘の枝を両手に握っての、芸のない吶喊。
果たして、そのような粗末な踏み込みで、本当に私を殺せると思っているのだろうか。
「下らん。時間がないのだ、手短に済ませるぞ」
まずは足の早い男五人を巻き込むように、薙刀を一閃。
鋭い刃は僅かな手応えと共に信奉者達の胸部を掻っ捌き、致命傷を刻んだ。
肋骨、肺、心臓。全てを切り裂く一撃だ。
これで残るは十一人……。
「ォオオオッ!」
「何っ!?」
いや、切り裂いたはずの連中がまだ倒れていないだと!?
「害虫ゥウウウッ!」
「くっ!」
自らの負った傷や痛みを顧みず、男どもはがむしゃらに掴みかかってくる。
虚を突かれたものの、私はどうにかそれを徒手空拳でいなし、後退できた。
幸い、連中の力はさほどでもない。
「ォオオオッ!」
「だが、不死身かっ!?」
致命傷は与えた。それでも連中は激しく動き、襲い掛かってきた。
およそ真っ当な人間の挙動とは思えない、痛みも死も恐れぬ動きであった。
……厄介だ!
「ならば!」
「ォオオッ!」
枝を掲げて迫りくる、不死身の教信者。
私は連中を前にして、懐から一つの扇を取り出し、全力で振り抜いた。
「ふんっ!」
「ォオッ!?」
一振り。たった一度だけ横に薙いだ扇によって、台風にも勝る豪風が生まれる。
静木が別れ際に譲ってくれた、突風を発生させる扇型の魔道具である。
私にさえも制御しきれない烈風は廃れた畑の表面を大きく削り、迫りくる教信者達を枯れ葉のように浮き上がらせた。
「宙に浮けばこちらのものだ」
「ォオ――」
大勢を崩し、無防備になった教信者達。
私は薙刀の柄を強く握りしめると、彼らが落下しきる前に、踏み込んだ。