押し寄せる爆風の津波は、静木の扇によって一部分ではあるものの、穿つことが叶った。
全身全霊、死力を尽くして振るった一陣の風だ。それでも爆風の一部分だけにしか拮抗できないのだから、奴の力の底知れなさが伺える。
だが、それでも突破口は開いた。
あとはこじ開けるのみ。
「さて、蝶には何が効くかしら――」
青娥はその華奢な身体に見合わぬほどの速力で、皇紫へと接近してゆく。
爆風をいなされたことが意外だったのか、それとも迫りくる青娥の速度に圧倒されたのか……理由はともあれ、皇紫はその一瞬だけ、反応できなかった。
「――ひとまず、八つほど試してみましょうか?」
青蛾の妖術はその隙を得て、十全に発動した。
四色の光球、二色の煙鞭、二本の長針。
各々の効果までは私にもわからない。しかしそれらは、およそ常人には見きれぬ程の速度で放たれた。
当たれば、人には耐えきれぬ害を及ぼすであろうことは想像に難くない。
「避けないのね」
その全てが皇紫の巨躯に命中した。
光球からは細長く眩い爆炎が噴き、煙は虎を形取って手足に食らいつき、針は妖しげな闇を帯びて腹部に衝突した。
『……風。風ごときで、我の羽撃きを凌いだのか』
「!」
が、無為。
皇紫はその身に受けた多くの攻撃を意に介した風もなく、その場に佇んでいる。
……青娥の攻撃は、かなりの火力があったはず。
少なくとも私が今まで生きてきた中では、かなり上位に登るほどには見事な術であった。
だというのに、まるで効いた様子がないとは……。
『世の風を統べるは、この皇紫のみ。身の程を知れ、些末な
「まさか、無反応だなんて……!」
その上、攻撃を行った青娥には目もくれていない。
『なれば。高貴なる神の羽撃きを、今一度見せねばなるまい』
巨大な紫の翅を動かすことも無く、皇紫が静かに浮き上がる。
だが奴の全身から発せられる神気は刹那毎にも高まり、太陽の如き輝きを讃えてゆく。
あれは……まずい!
『万物を理の彼方へと消し跳ばす、真の風を……』
簪を握り、直接攻撃を試みようとしていた青娥が踵を返して退避を選択した。
いや、私でさえもあの場にいれば同じようにしただろう。むしろ、ある程度の距離がある私でさえも、更に間合いを取りたい程度には恐ろしい。
悪寒が止まらない。そして、自分の死の気配がより高まってゆく。
――次にくる攻撃は、これまでの比ではない。
「あれとやりあうくらいなら、地獄蝶の群れに突っ込む方が安全ですね……!」
同じく退避を選んだ私の隣に、白い顔の青娥が並んだ。
残念ながら同意見である。あの怪物は、あの神は……まともに遣り合って、勝てる相手ではない……!
『常世の蝶の羽撃きが、現世を紫燐の業火で包む――』
紫色の双翅が神の光に満ち、高く高く掲げられる。
暴力的な神気が皇紫に収束し、弾けることなく膨張と凝縮をし続ける。
私と青娥は逃げている。全速力で距離を取っている。
“あれ”が解き放たれた時、もはやヒトの防御など、何の意味も成さないからだ。
だが、我々の身体能力が常軌を逸しているとはいえ、走った程度で緩和できるものとも思えない。
今もなお膨らみ続ける暴威は、軽くこの町複数個分を消し飛ばせる程であろう。
「仙界に、繋がらないっ……!? ここ一帯、全てが蝶の支配下だというのっ……!」
隣の青娥も、きっと単純な距離を取っただけで生き残れるとは思っていまい。
故にこの逃走は、本能的な畏れが成す精神的な逃避でしかないのだ。
「逃げは、止めだ!」
「ええ! ……もはや策も無いですが……!」
「無策に走るよりはマシというものだがなっ!」
「同感です……!」
私と青娥は同時にそう結論づけ、瓦礫の上で急停止した。
もはや敗走も叶わない。ならば望み薄であろうとも、別の方策を無理矢理にでも立てるのみだ。
「奴の能力か充満する神気によって、仙界への移動ができません! なので不本意ではありますが、防御用の結界を構築します……気休めですけどっ……!」
遠方には、宙に浮かび上がった輝ける蝶の神。
だが肌を突く神の威容と、視界を歪ませるほどの神力の凝集は、その距離が持つ一般的な意味や安心を、尽く薙ぎ倒すものであろう。
青娥は力の解放に備えて防御結界を構築しているが、本人の言う通りそれが保つとは思えない。
「ああ、ならば私は身を隠す穴を掘ろう! こちらも気休めだがな……!」
かといって今私がやっている全力の穴掘りも、どれほどの効果を成すかは甚だ疑問である。
だが、逃げる以外の策といえば、もはやこの他には思い浮かばぬ。
結界を張り、穴を掘り潜み……、もはやそれが命を助けるものだと、祈るしか……。
『刮目せよ! これぞ、地獄の風!』
神の宣言が木霊し、力の解放が遠方でひときわ強く輝く。
掲げられた二枚の翅が振り下ろされる。
それは莫大な風を生み、苛烈な紫炎を伴って全方位に放たれた。
それは、死であった。
ヒトの術では、僅かな窪みでは防ぎようもない、圧倒的な力による、純度の高い濃密な死の雪崩。
「……!」
迫りくる力の奔流を見た青蛾が、力なく両腕を垂らしたのが見えた。
その手に握っていた簪が、地に落ちゆくのが見えた。
だが簪が地に触れるよりも先に、我々は死ぬのだろう。
結界に身を隠そうとも、穴に身を潜めようとも関係はない。
あれを防ぐ道具など――。
――!
――いいや!?
「あるかッ!?」
私は、懐に忍ばせていた“それ”を青娥の足元に放り投げ、
「なにを――」
すぐさま私は青娥の身を掻き抱き、
「……!」
そして、神の暴威が到来した。
豪風と紫炎。全てを消し飛ばす風と禍々しき紫の業火。
それが……その暴威の雪崩が、まるで私と青娥“だけ”を避けるかのように、左右に割れて過ぎ去ってゆく。
視界は輝きに包まれているが、熱は無く風もない。
完全なる無風によって、私と青娥は守られていた。
「な、なぜ……これは……?」
未だ流れ続ける破滅の濁流を見て、私の腕の中で震える青娥が当然の疑問を口にした。
「ああ……」
答えは持っている。
だが、それを答えたところで青娥が理解できるとは思えなかった。
何よりも、この私自身でさえ、何一つとして理解できていないのだから。
私と青蛾の足元に置かれた、小さな木製の小物。
三本の脚と、その上部に梁を渡しただけのような、一見すると簡素極まる工芸品にしか見えないそれ。
しかしこれこそが、私と青娥を死滅の暴風から護り続けているのだ。
「これは……風滅器、というらしいな……」
「風滅、器」
かつて。
そう、かつて、静木より破格で買い取った怪しげな品の一つ、風滅器。
この小さな玩具の上にあるものは、風の影響を受けないと、奴はそう説明していたが……。
「これは、なあ静木よ。……なあ、お前は一体、何者なのだ……?」
どうやら奴の言う“風”とは……神が全力で起こした死の風でさえも、退けてしまうらしい。