『――なに』
放射状に広がる暴風の爪痕の中央では、幾分か輝きを失った
突いていた片膝を上げ、今にも直立しそうな、しかしその中途半端な体勢のまま。
無傷でやり過ごしたこちらを見て、呆然としているのだろう。今の私には、あの神の呆気にとられた気持ちがよく理解できた。
『嘘、だな。有りえぬことだ』
青白い痩躯は僅かに暗く、紫色の燐光を湛えていた翅にはどす黒い脈のようなものが浮かんでいる。
おそらくは先程の暴風により、相当な量の神力を失ったのであろう。
『我は皇紫。頂きに立つ王。風を統べる神……貴様ら如き
「!」
再び、皇紫が宙に浮かぶ。
飛翔は奇妙な重低音を伴い、同時に周囲一体の焼け野原から瓦礫達をも浮かばせてゆく。
「河勝さん、今の防御……それに、また!」
「いや、青娥。いかん。ここから動いてはいかん」
「……まさか、その小さな置物で? 先程の風を?」
「ああ。これがある限りは……だから、今は」
皇紫は未だ、この風滅器の存在に気付いていない。いや、認めようとしていない。
ならばこのまま凌いでいれば……徒に力を消耗し続けるはずだ。
『――果てまで、消し跳べ!』
安全地帯。それがわかっていても尚、恐怖に膝を折りかけてしまう程の、濃厚な死の爆風。
太陽のように白く輝く皇紫から発せられる風と紫炎は、再び焼け野原に地獄を上塗りした。
……が、無風。我々二人は轟音と輝きの中に晒されながらも、完全な無風と平熱の中に護られていた。
やはりこれは、風滅器の力によるものなのだろう。……静木に対して言ってやりたいことがまた増えてしまったが……今はそう散漫な考えを浮かべている場合ではないか。
「ふむ……」
二回目……ともなれば、敵を観察する余裕ができる。
どうやら皇紫はあの風を放つ際に、身体を赤子のように丸める必要があるようだ。
身体を包むように構え、頭も俯いている。唯一動いているのは、二枚の翅のみ。風の発生源はそれだろう。
「……河勝さん。よく見てください。中央に向かって、蝶が」
「ああ、この風の中を逆らって飛んでいる……いや、吸い込まれているのか」
そしてよく観察すれば、放射状に吹き荒れる暴風の中には動くものが存在した。
地獄蝶である。しかも、それは風の発生源たる皇紫に向かって、幾条もの列となって、凄まじい速度で集まっているようだ。
「あれを……燃料にしているのだろう」
「そのように見えますね。……触れてはならない上に、常世神の力に変換することもできる、と。……厄介ですね」
中央に向かって羽撃く蝶の群れは、皇紫に触れる間際に散り散りに焼け、かき消されているように見える。
要は、奴にとっての燃料なのだろう。
……だが、それを無駄遣いしてくれるのであれば好都合だ。
『は、は、……』
やがて、再びの嵐が過ぎ去った。
凄まじい攻撃である。安全圏に立っていただけでも死を覚悟したほどだ。
それでも、風滅器は奴の攻撃を防ぎきってみせた。
『有り、得ない……我は、神、だぞ……』
肩で息をする皇紫は、そんな無傷な私達を見て愕然としている。
輝いていた全身は樹皮のように黒ずみ、翼にはくっきりと脈が走り、紫色は薄ぼけてさえいた。
間違いない。奴は力を振るう度、自分の体力をも大きく消耗している。
『力を、もっと……認められるか……我は手に入れたのだ、ようやく……!』
だが、それでも皇紫は頑なだった。
再び浮かび、光を放つ。
地獄蝶を吸い、燃やし……そして放出が終われば、再び膝をつくのである。
『何故……!』
先程よりも更に、身体の輝きを落とした姿で。
『私は、神と成ったはずだ……風の、紫炎の……最も崇高な……尊き……それが、何故……!』
いや……精神が不安定、なのか?
私達に攻撃が通じないと認識する度に、精神的な敗北の度に、力を失っているところからして……先程から繰り返されている“神”などといった傲慢さから考えるに、己の精神に負荷が掛かっているのやもしれぬ。
……妖怪も神も、精神や感情こそが基本だ。
そしておそらく、あの皇紫はその感情などが……著しく脆いのだろう。
「蝶の壁が薄くなったぞ! 結界に乗り込め! 悪神を討つのだ!」
私がその様子を見つめていると、不意に大きな声が聞こえてきた。
皇紫からではない。
なんと私達の背後、蝶の壁の外側からである。
そして驚くべきことに……声の主は神々しく輝く具足に身を包んだ、神の軍勢であった。
「あれは……あら。まさか、神が直々に姿を現すなんて」
「まさか。なんと……!」
妖怪を討ったことは数え切れぬ程ある。
神を見たことも、無くもない。
だが、ここまで多くの……何十もの神を一度に見たのは、さすがの私でも初めてのことであった。
「あの虫こそ、全ての元凶だ! 確実に仕留めよ!」
「ぉおおおッ!」
「突撃! 急所を狙えッ!」
雷光を纏った神の兵たちが、槍や金棒を手に駆けてゆく。
狙うは中央に弱々しく膝を突いた蝶の神、皇紫だ。
あれは、装備から見て……天部にまつわる兵ではあるまいか。
まさか天部が直々に、皇紫を狙っていたとは……。
「……河勝さん。もう少し。もう少しだけ強く、私を匿ってくださいまし」
……青娥が兵を見て、あからさまに私の陰に隠れようとしていることからも、おそらく間違いない。あれは神の兵だ。
……さすがの常世神でも、仏教の軍勢に取り囲まれてはただでは済むまい。
『はあ、はあ……』
「我、一番槍! 死ぬがよい、矮小なる神よ!」
『……!』
大柄な神の一人が、槍を掲げて天高く飛び上がる。
作りの良い穂先は、あの蝶を容易く貫くであろうと思われた。
誰もがそう思っていただろう。
劣勢に立たされていた私や青娥さえ、そう予感していたのだ。
『ふざ、けるな。
だがそれでも。
皇紫だけは、決して自らの敗北を認めようとはしなかった。
『我が常世に、貴様らなど必要ないッ!』
「な――」
翅が舞い、黒い風が吹いた。
風は荒れ地から夜空の高くにまで吹き抜け、それらは神族を撫ぜるように過ぎ去ってゆく。
「なんだと!? これは!」
「体が、消える!?」
無害そうに見える、あるいは弱々しいばかりの風であった。
だが、その風に触れた神族たちは、揃って身体を、存在を薄くし……。
「違う、転移だ! 奴の力によって、強制的に――」
風に巻かれきった時には、既に神族達は消え去っていた。
影も、形もなく。
まるで、一瞬にして黒い風に紛れ、風化してしまったかのように。
『ふは、ははは。なん、だ。風は……あるではないか。我はやはり、神だ。疑うことなど、何もない……』
皇紫が不確かな足取りで、一歩一歩と歩き始める。
私と青娥は先程の光景と……着実に迫りくるその姿に、言葉も、身動きもできずにいた。
『我が羽撃きは、世の果てにまで渦を成す。貧者は富を得、老人は若返り、生者は息絶え、死者は蘇る。神族を元の異界まで弾き跳ばすことなど、造作もないことだ』
禍々しい脈が走っていた翅に、鮮やかな紫が僅かに戻る。
奴の声色も、神族を退けたためかどこか軽やかだ。
『そうだ。我は常世神。我は皇紫。我に不可能はない。不可能はないのだ。だから、だから――』
皇紫の体が浮き、翅が緩やかに動き、地面の瓦礫を巻き上げる。
そして吹き上がった煤や灰は、それぞれが幾つかの塊に凝集し――
『だから! 貴様ら如き
「ォオオオッ!」
「ォオ! ォオオッ!」
煤から蘇った
その数、およそ六十。
それぞれが手に黒い剣を持った、紛うことなき地獄の兵であった。
『覡よ、殺せ! 我の前に立ちはだかる愚か者の魂を、我に献上するのだ!』
風が効かぬと見るや、死者を蘇らせてけしかける、か。
……死者を復活させる力は、まさに常世神の名に相応しいと言える。……あのような姿に変わり果てるとは、誰も思わなかっただろうがね。
「河勝さん。あの覡は、風滅器とやらでは」
「ああ。奴らまでは防げないだろう。だが……今は羽撃きを行う様子も無い。皇紫が風攻撃を諦めたのは好都合だ」
「なるほど。では、そういうことですか」
青娥は私から離れ、その手に仙術の妖しげな炎を灯す。
私は足を開き、薙刀と扇を構える。
……神族さえも一瞬で無力化、強制的に外へと送還する法外な“風”。
それが人間に効くかどうかは定かでないが……奴は今、自らその選択肢を縛っている。
「短期決戦。奴の力が弱り、小細工を仕掛ける今が好機だ。青娥よ、やれるな?」
「ええ。最初は刃が通らなかったようですが……うふふ。次は確実に、やってみせますよ。そちらも、煤人形に手こずらないでくださいね?」
さあ、仕切り直しだ。
奴は何度も力を消耗して弱まっている。
気が変わり、本体が何かしらの攻撃に移るまでが勝負となるだろう。
「常世神“皇紫”! 太子様の遺志により――貴様を、斬る!」