私の生まれは大秦。ローマだ。
そこでは主君に仕えることもあったが、些細なことで身分を失った私は流浪の身となり、それ以降は不安定な生活が続くようになる。
大陸を経て、半島を経て……そこでも多くの出会いや別れがあったが、最後に辿り着いた場所がここ、大和であったのは、私の人生において最も幸いであったと言っても過言ではないだろう。
半島の渡来人に入り混じり、秦として帰化した私を拾ってくださったのは、太子様だ。
あの方が私に立場を与え、役目を与えてくださったからこそ、今の私が存在すると言っても良い。
あのお方がいなければ、私はさほど力のない秦の一個人としてか……または、それまでのように単純な武力のみを利用され、やがて早々に迫害されていたことだろう。
私は太子様の下で力を振るうことを許された。
出自不明の顔を面で覆い隠す権利までも与えられた。
私が大和に有益だと認められたのは、全て太子様の力添えがあってのこと。
……今の私がいるのは、“秦河勝”がいるのは、一から十まで、全てが太子様のおかげなのだ。
だが、今、私はこれまで積み上げてきた“秦河勝”を全て捨て去らなければならない。
太子様より頂いた役割も。
私が打ち立てた功績も。
繋がりも。人望も。私が大和で得た全てのものを。
私は、それら全てを自ら捨てるのだ。
全ては、太子様の理想のために。
日が昇りはじめ、薄っすらと靄の煙る朝。
私は、かつて共に働いた同僚の屋敷を訪ねていた。
「……河勝殿」
事前の連絡はない。私が一方的に押しかけ、彼個人を直接呼び出したのである。
庭の生垣で、雲雀の鳴き声。用いたそれは数十年も昔に示し合わせた古い合図だったが、それを彼はまだ覚えていてくれたらしい。
「その、身体の輝きは……やはり、市井の声は真実であったのか……」
「……早くに、すまんな」
「ああ。本当に……何年ぶりになることか」
私の身体は、仄かな輝きを纏っている。
夜闇の中では非常に目立つ、神気の輝きだ。
「河勝殿。何故、ここに? ……いや、常世神を討ち取ったのであろう。まずはそれを讃えなければならんか……」
「いいや、讃える必要はない」
「何を。人は口々に貴方を神の中の神と云う。……大げさに聞こえるかもしれんが、私もそう思っているのだぞ。あれほど大和を掻き乱していた邪教を排したのだからな」
長年見知った間柄であっても、それほどまでに高く評価されてしまうのか。
……厄介なものだな。いや、神殺しを達成したともなれば、それが当然なのだろうか……。
……だがどうあれ、私はそれを望んでいない。
「讃えずとも良い。私がここに来たのは……むしろ、その逆なのだ」
「……というと」
私は猿の面を外し、素顔を見せる。
ほぼ誰にも見せたことのない、秦河勝そのままの表情だ。
「私を罪人扱いとして、流刑に処してもらいたい」
「……突然、何を」
「必要なのだ。私を神ではなく、人として定義するための……法による醜聞がな」
私の名は、神として大和に広まりつつあった。
神の中の神、秦河勝。
だがその名が広まることは望む所ではない。私は神ではなく人でなければならない。そうでなければ、大和にいらぬ神が祭り上げられてしまうことになる。
私は彼に語った。
現在の状況について。神としての格を落とすために必要なことを。
そして、私は太子様の遺志を守ることを。
「……河勝殿。そこまで」
「今の私にできるのは、もはやその程度だ」
「既に、太子様は。豊聡耳様は亡くなっているのだぞ。身をなげうってまで、貴方が忠を尽くすこともなかろう……?」
「それでもだ」
だとしても。太子様が既にいないとしても。
「……私は、最期まで。この生の終わりまで、あの方のためにあったのだと。その生き方を、貫きたいのだ」
「河勝殿……」
「頼む。面倒なこととは思うが……」
「……友人の名を貶めるのは、辛いものだぞ。河勝殿」
「なに、気にすることはない。累積した不祥事や計算違いを一挙に押し付ける、良い機会だぞ?」
「馬鹿なことを……」
彼は苦笑し、俯いた。
「……わかった。河勝殿の頼みであれば、聞かぬわけにもいかんだろうからな」
「すまない、助かるよ」
「ああ。気にするな……」
彼の表情は晴れない。
昔は溌剌とした気力に満ち溢れた男であったが、今や彼も老体だ。そのせいもあるだろう。だが……やはり彼は私の言葉を受け、不機嫌そうにしているようだった。
「……他に、手はないのだな?」
「ああ。無い」
「そうか……」
これから、秦河勝は政界から消えることとなる。
汚職。粉飾……財政分野の様々な汚点を被り、罪人となるのだ。
罪。それは人であるが故に犯すもの。
そして罰。それもまた、人であるが故に与えられるもの。
秦河勝を取り巻く罪と罰の醜聞は、私を神ではなく人として縛り付けるには充分な効果を発揮するだろう。
もちろん、それなりの時間はかかるだろうが……。
……なに、罪の一つや二つなど、どうってことはない。
神として太子様の遺志に背いて生き続けるくらいならば、命短き罪人として、太子様のために死んだほうがずっと有意義だ。