東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 雪が降っている。

 

 通りの向こう側さえ白くぼやける程の、冬にしても珍しい大雪であった。

 このような日には商人も農民も家に閉じ籠もり、身を寄せ合って暖を取るしか無い。

 

 田畑を窺ってどうにかなるわけでもなし、岸に赴いて魚が泳いでいるわけでもなし。

 人が歩かなければ、それを狙う兇賊も身を潜める。

 つまりこの日は、私が外へ出るのにまたとない吉日であったのだ。

 

 

 

「良い日だ」

 

 太陽が天高く登る時刻。

 しかし分厚い灰色の雲は空を覆い隠し、かと思えば豪雪は暗雲すらも白く染め上げていた。

 見渡す海も、今や雪原と見紛うほどである。

 

「だが、良い日だ」

 

 このような日であれば、誰も私には気付かない。

 多少身体が輝いていようと、大きな丸木舟を運んでいようと、そう簡単に見つかることはないだろう。

 私の髪や衣類が白であることもまた、その助けとなるはずだ。

 

「消えるには、最高の日だ」

 

 今日、私は人の世から姿を消す。

 輝いたこの身を見せずに、秦河勝を流刑とするためである。

 

 速やかに死んでも良かったのだ。しかし、私の死体を残したのではいずれそれを覆うための墓が出来てしまうだろう。

 神と崇められ、事実神となってしまった私の墓は、おそらく質素な墓石では済むまい。

 だとすれば、私の死体を残すわけには絶対にいかなかった。

 

 故に、私は遠く離れた地にて……あるいは孤島にて、密やかに死ぬ事を決めたのである。

 

「……運んでくれよ。私を、どこか遠くまで。きっと、誰の目にもつかぬ場所まで」

 

 丸木舟を海辺に浮かべ、小さく語りかける。

 大きな水しぶきをあげて着水した大木は、しかし沈むこと無くしっかりと浮いた。

 

 見れば、くり抜いた中には様々なものが詰まっている。

 使い古した着物。冠。小刀。釣り竿。茶碗。薙刀……そして、作りすぎた幾つかの面。

 私の忘れ物がやがて信仰の種になっては困るので、思いつく限りの私物を詰め込んだつもりだ。

 おかげで当初予定していた舟よりもずっと大きな、無駄に立派なものになってしまった……。

 

「ふ。ノアの方舟にしては、随分と貧相だな」

 

 そして、この舟に乗る者は生き残ることはない。

 詰め込んだ物こそ多かったが、所詮はうつぼ舟だ。

 目的地はどこでもよく、そして私は、その先に孤独な死があれば良い。

 

 ……想えば。

 想えば様々な出来事を、この国で体験したものだ。

 百年も居なかった場所だというのに、愛着でいえば一番に来てしまう。

 生まれ故郷を差し置いてそう思えるのだから、私はやはり、大和が好きだったのだろう。

 

 ……ふむ。だが、もう良いことだろうな。

 

 もはや懐古は十分だ。

 雪が止む前に、この陸地を離れなくてはならぬ。

 私の、最期の仕事なのだ。

 さっさと済ませることにしよう。

 

 私は丸木舟に乗り込み、柄だけになった薙刀を用いて、岸を押した。

 すると舟はゆっくりと海を進み、揺れながらも陸地から離れてゆく。

 

 “運が良ければ”、もう二度と土を踏むことはあるまい。

 せっかく神になったのだ。贅沢は言わぬが、私を孤独に殺すだけの最良の奇跡が起きてほしいものだが……。

 

「かわかつー!」

 

 だが……岸の方から、私の名を呼ぶ幼子の声が聞こえてしまった。

 海に乗り出したは良いが、声は距離にしてあばら家ほどもない。それを聞き間違えだと自らに言い聞かせて、自棄っぱちに突き進むことはできなかった。

 

「……チルノ」

「河勝」

 

 振り向くとそこには、どこか不安げな顔のチルノが立っていた。

 いつぞやに淡海で出会った、腕白な雪ん子。

 ……不思議と、縁のある妖精である。

 

「はて、ここから淡海は、それなりの距離があるはずだが」

「雪降ってるから、へーき。だからあたい、河勝を探しに来たの」

 

 ……そうか。なるほど、雪が降っているから、力が強まったわけだな。

 とすると、こうして見つかってしまったのは、雪の日を選んだ私の落ち度、というわけか。

 

「……河勝、なんだか……もう、人じゃないみたい」

 

 そして私を見るチルノの目は、戸惑いに揺れている。

 どうやら私の身体から出る僅かな神気は、頭の緩い妖精相手でも誤魔化せないようだ。いや、妖精だからこそ、なのか……。

 

「まあ、そうだな。私はもう、人ではなくなったのかも、しれん」

「……ねえ河勝。舟乗って、どこいくの?」

「さてな。どこへゆくのやら」

「死ぬの?」

 

 ……気楽なだけの雪ん子かと思っていたが、随分と鋭く核心を突くものだな。

 

「ああ、死ぬ。死にに行く」

 

 どうしてかチルノに隠し通せない気がした私は、正直に旅程を打ち明けた。

 

「私が死ぬとして、チルノは私を止めるのか?」

 

 チルノはどこか拗ねたような顔をして、その場にしゃがみ込んだ。

 

「……止める。まだ河勝と、遊んでないもん。釣りだって、最近全然来てくれないし……だから、やだ」

「そう、か」

 

 ……ああ、そうだな。

 チルノ、私はお前と遊ぶ約束、随分とすっぽかしてしまったからな。

 

「でも……あたいがここで止めたって、河勝は行っちゃうんでしょ?」

「……そうだ」

「そうしたら河勝、あたいのこと、やっつけるんでしょ? そうしてでも、行っちゃうんでしょ?」

 

 嗚呼。チルノ。お前はそこまで、私を見透かしてしまうのか。

 

「だったら、良い……あたいが一回休みになってる間にさよならするくらいなら、ここで河勝が行くの、じっと見てる……」

 

 チルノは俯いたまま、泣いていた。

 スカートの裾を握りしめ、口元はきつく結んでいたが、涙はどうすることもできずに溢れていた。

 

 ……お前は、私の死を悼んでくれるのだな。

 幾度か釣りをし、共に野山を駆けた程度の仲でしかない、この私の死を。

 お前はそれでも、涙を流してくれるのだな。

 

「……チルノ。ごめんな」

「やだ……」

「ありがとうな」

「魚、また今度、あたいが凍らせるから……」

「私はお前と会えて、嬉しかったよ」

「かわかつぅ……」

 

 私は懐から二枚の扇子を取り出し、緩やかに構え、扇いだ。

 扇子は緩慢な動きから程よい風を生み出し、うつぼ舟を推し進める力となる。

 

 うつぼ舟の上に立った私は、少しずつ離れるごとに白く霞みゆくチルノに向けて、舞う。

 今生の別れ。死への旅。

 意図せず見送りに来てくれた小さき友に、私は舞いを捧げるのだ。

 

 二枚の白い扇子が雪の中をはらりと泳ぎ、あるいは優雅に飛ぶ。

 嬉しげに。楽しげに。時に怒り、時に哀しみ。

 

「かわかつ……」

 

 口に出せば日が暮れてしまうような万感の思いを、たったひとつの舞に乗せて。

 

 

 

 踊り。回り。舞う。

 

 風を生む私を避けるように、雪の粒は過ぎ去ってゆく。

 

 それでも偶然、私の手首に雪が落ちた。

 

 それはほんの僅かな熱に溶け、形を崩して消えてしまった。

 

「……」

 

 手首の濡れを見た時、ふと気がつけば、もはや岸も見えなくなっていた。

 

 そして見えない向こう岸に気を取られている間に、腕についた雪濡れの、どれが先程の粒であったのかは、わからなくなっていた。

 

「良い」

 

 この降り続く、儚き雪の中に、私もいる。

 

「とても。とても良い……居場所だった」

 

 たとえ私の多くが遺らずとも、海に消え行く雪の一粒になれれば。

 

 消え行く雪の舞うさまに、誰かが涙してくれるならば。

 

 この人生に、悔いは無し。

 

 

 


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