人は居ない。誰も。
元々、そんな場所だった。夜ともなれば当然、辺りは無人となる。
虫の音色は騒々しく、それは頑強な蔵の閂を解錠する音を誤魔化してくれた。
誰もいなければ……それが一番、穏やかで良いことです。
「……」
火種を荏胡麻油の染みた縄に触れさせ、灯りを灯す。本当は夜の蔵でこのような危ないことはしてはならないのだけど……私の逸るばかりの心は、抑えられなかった。
「書物……書物……」
石塚様がいつも仰っていた。私はそれを覚えている。
そう……魔導書。読むことで、法力が如き力を身に宿せるという、いわくつきの書物。
それがここにあるはず……だけど……。
「……これ、でしょうか」
探してみたが、唯一それらしきものといえば、この小さな木箱だろうか。
大きさも書物に近い。中に封じられているかと問われれば、そのような大きさだ。
何より……この木箱からは何やら、不穏な気配を感じる。
……きっと間違いない。
「んっ」
蔵の中にあった荒割り用の銅楔を使い、木箱の継ぎ目をこじ開けるように差し込んでゆく。
やがて楔はゆっくりと木箱の蓋を剥がし、その中身を露わにした。
「……」
それは、本だった。
荏胡麻の灯りのせいか……いいえ、それで照らされていることを考えても鮮やかに発色するそれは……薄橙色の、とても美しい書物だった。
「これは、見事な……」
これほど鮮やかな色で、美しい装丁の書物を、私は他に知らない。
あったとしてもきっと、高貴な方々だけが手にできるような代物であることは間違いない。
表紙には……なんと書かれているのか、異国の文字であるために読むことは敵わないけれど……それが間違いなくただの書物ではなく、私の探し求めているものであることは間違いなかった。
……ここに、不老の術が。私が老いに打ち克つ術が、記されている。
「ならば、読まなければ……」
そう、読まなければならない。
たとえ中身が異国の文字であろうとも、解読し、解明して……。
私はそのように意気込んで、その程度の心構えだけで、本を開いてしまった。
「……!」
その時、私は自分の身体が石のように硬直したことを悟った。
動かない。動けない。身体も、脚も、腕も。頭も……眼球でさえも。
たった一頁表紙をめくっただけで、私の身体は自由を奪われてしまった。
「……棍、棒の……書……!?」
“棍棒の書”。
生存と戦闘を司る、肉体の強化と活性に重きをおいた魔導書。
これを読む者は魔力への気付きを獲得し、自身の肉体を保護・強化する術を悟り、自身や他者の魔力を用いた魔術の発展と応用を学習する。
魔力……魔力を学ぶ。魔力に気付く……あ、ああ……いえ、でも、わかる。理解できる……魔力とは、そう、この感覚……。
そして自らの内に眠る力を……捉える。そう、この力……瞑想の時に何度か触れていたであろう“それ”……。
操る……どうやって? いえ、私単体の力だけではいけない……?
周囲から……けれど最初は自分の力を操れるようにならなければ始まらない。
まずはそこから。しかし自分の力とは……結局の所、自分の霊魂を通過するもの。つまり、周囲からかき集めた力でしかなく……。
う、く、苦しい……。本から、目が離せない……ああでも、でも……それはできない……。
呪いの品……? いえ、けれどわかっていたことです。そして私は、この書物を求めていたのです。何を迷うことがありましょうか……!
開いてから……まだ、半刻も経たず。
灯りは消えた。けれど、淡く輝く書物に灯りなど不要。
……であればまだ、問題は無し。
これしき、修行と比べればなんということはありません。
耐えればいい。ただ耐え……受け入れるだけ。それだけでいい。
それだけの修行の、なんと甘美なること。
私はただ目と頭が訴える痛みと苦悶を、甘受するだけでいいのだ。
失うものは何もない。ただ、全てを引き換えにしてでも掴み取りたいものがそこにある。
これぞまさに、私の求めていたもの……!
「ふ、ふふ……」
強化とは魔力の骨にして鎧。肉体と外の境界をより確かなものとし、その内にある己を壊すことなく保持する力。
その極致は侵されざる完全な個の確立にして、自身そのものの絶対優位。
触れしもの全てを崩し、踏みしもの全てを砕く。歩みは憚られず、拳は全てを刳り抜く。
「……少々、野蛮ではありますが……」
それこそが“棍棒の書物”の真髄。
そしてその最奥に至るまでには……。
「これは……!」
! ……己の肉体を活性させ、若かりしものに甦らせる術……!
そして老いを遠ざけ、不変の肉体を獲得する術!
……今は、そう。それは今すぐに手に入るものではない……この魔導書はそう言っている。
ですが、間違いなくこれは、それらに繋がるもの。それは間違いない!
老いに打ち克つ術が、ここにはある!
ならば……いいでしょう。
耐えましょう。私は、耐えてみせましょう。
この、目を通して私の中に刻み込まれてゆく知識を受け入れ……至ってみせようではありませんか。
「私は……そのためならば……」
魔道を、歩む……!