大宿直村は常に妖怪と隣り合わせの村だ。
辺境にあり人口が極めて少なく、辺境の山間にある隠れ里のようなものであるために人通りもほぼ皆無。都からの支援は望めず、人里の他には逃げ込む先も無い。
そんな過酷な環境であるにも関わらず村が存続できているのは、村人の過半数が退治屋であることと、妖怪に関する知識や情報が徹底的に共有されているからだろう。
妖怪は魔族を源流とする怪物である。
力は人を容易に上回り、妖力を用いた力は時に神族をも凌駕するほどだ。
それでも妖怪に弱点が無いというわけではない。妖怪のほとんどにはその力に応じた相応の弱点や攻略法があり、手順よく行えば強力な大妖怪であろうとも退治する方法が存在する。
船幽霊然り、見越し入道然り。
妖怪の頂点と謳われるあの鬼でさえ、炒った豆であったり目刺しと柊などといった複数の弱点を持っているのだ。
知識さえあれば強大な妖怪をも退けることができる。
つまり退治屋が集うこの大宿直村で、そういった妖怪情報が進んで共有されるのも、ある意味当然のことなのだった。
「ほうほう、なるほど。これが妖怪手帳と」
「うむ。村の坊主が研究の一環として纏めているものでな。先代、先々代から受け継がれてきた旧い種族の特徴なども纏められているそうだ」
「ほー、それはすごい」
送り犬の討伐から数日後。
神主は新たに村の仲間となった謎多き仮面老人、静木とかいう見るからに胡散臭い者を相手に、それでも懇切丁寧に世話を焼いていた。
村の新参者は、当然のことながら右も左もわからない。井戸、排水、敷地、共有地、覚えておくべき知識など。把握しなければならない場所や物事は多岐に渡る。
神主自らの復習も兼ねて、それらを新参者に教えているのだった。
今彼が静木に見せているのは、村の宝とも呼ぶべき妖怪手帳。
そこには数多くの日本の妖怪が記されており、主な生息地、注意すべき点など様々な情報が記載されている。
静木は“まるでウィキみたい”と呟いたが、神主にその意味は通じない。しかし、感心した様子だけは伝わった。
「まだ各地の見聞を集めたに過ぎない散らかった資料故、いつか纏めねばならぬのだがな。しかし目を通しておくだけでも、随分と変わってくるだろう。私も初めて見たときには驚いたものだよ」
「私も驚いた。文献としてこれほど豊かな情報があったとはね」
「そう、書き遺された。これは素晴らしいことなのだ。文字書けぬ者も、この村でさえ珍しくないのでな」
識字率が異様に高い21世紀の日本にいては実感も難しいだろうが、識字率の低い国というのはどの時代であっても存在する。
まして情報化社会どころか戦国時代ですらないこの日本において、文字を書き記すことのできる人間がどれだけいるだろうか。
ひとつのテーマに関して情報が集まっている専門的な書物とは、それだけでも非常に価値がある逸品なのだ。
まさしく村の宝。これは決して大げさな表現ではない。
「ふむ……流石だ。この村は妖怪退治に関して言えば、外の……いや、都よりもずっと先を進んでいるらしい」
「わかるか、静木殿。そうなのだ。辺鄙な村ではあるのだがな。妖怪退治に関して言えばまさに、二歩も三歩も先を進んでいる村なのだ」
本を納める倉庫の中には、他にも使われていない仏具や妖怪退治のための予備の器具が転がっている。しかし今は使われず倉庫の肥やしになっているそれらの道具も、長年使われてきた年季を有している。
「妖怪は人間の大敵であるからな。日頃からよく備え、よく研究していかねばならん」
「ほう、研究」
「む、静木殿は研究に興味がお有りか?」
「ええまあもちろん」
静木は饒舌に喋りだしそうになったが、はたと何かに気付いたか、どこともわからぬエイの口のような部分を抑え、黙り込んだ。
「……が、しかし今は私は隠居の身ですから。皆様方のように精力的に働くことは、もはやできません」
「ふむ……いや、それも仕方ないことであろうなぁ。ご自愛くだされよ、静木殿」
「ハッハッハッ。ええまあ。この枯れ果てた体が朽ちるまでは、この村でゆっくりと、皆様を見守らせていただきますよ」
静木。己をそう自称するかの不審者は、瘴気の森の近くを通る、今はほとんど使われていない荒れ道のそばに家を建てて暮らし始めた。
瘴気の森は村人も避ける場所であるし、当然ながらこの近辺は彼らの生活圏から遠い。そのような外れた場所に、静木の暮らす小屋がある。
家の造りはともかく、見た目はとても見すぼらしい。一応その傍らには幾つかの野草と薬草を育てる畑もあるのだが、それで日々の食事を賄うのは少々以上の無理があるように思われた。
森に近いここでは、送り犬のような妖怪が現れないとも限らない。何らかの脅威が小屋を襲えば、たちまち住人は惨殺されてしまうだろう。
静木は怪しい新参者である。
しかし、みすみす妖怪に殺されてしまうのはあまりにも目覚めの悪いことだった。
大宿直村の村人たちはそれぞれ善意でもって、静木の小屋前を日々警邏する。
……のだが、何日経っても静木が衰弱する様子もなければ、妖怪に脅かされる気配もない。
ならば試しにと小屋前の警邏をやめてみても、彼の周囲は至って安全なままであった。
運が良いのか。何なのか。
未だ襲われていない理屈はわからないが、静木自身も“パトロールしてるの? 別に平気だけど?”などとのたまい、恐らくは問題ない旨を語っている。
やがて静木の周辺警護は完全に解かれ、以降も平穏な日々が続いてゆくと、次第に村人たちは静木の存在を“まあ変わってるけど別にいいか”程度に認識するようになっていった。
“居るのは知っているが特に毒にも薬にもならない謎多き人”。
静木はまさに静かな樹木の如く、平穏に埋没した地位を確立してゆくのだった。
「静木ねえ。よくわからんが、そういう世捨て人なんだろうさ」
神社の階段に座るミマは、神主の話題にそう答えた。
「いや、しかしなあミマ様。あれは世捨て人にしては少々、特異なようにも思えるのだが」
「何が」
「あの御老体、確かに暮らしぶりはほとんど爺婆のようなものだが……それにしたってあまりにも枯れてはいまいだろうか」
「枯れねえ?」
「近くには畑もある。しかしあの如き滋味もない草花を食んだところで、腹の足しにはならぬだろう。あの御老体はどこで何を食っておるのだろうか……」
「あのねえ……人の食い物にまで詮索するんじゃないよ。村の気風くらい、あんたも既にわかってるだろう?」
「む、いやぁ、しかし……それではまるで、妖怪のようではないか……?」
ミマの眉がピクリと跳ねる。
「……あの新参者は隠居しに来たんだろう。仮面までつけてさ。それをあんた……あまりほじくり回すような真似をするべきじゃないっての、わかってるのかい」
「う、うむ。確かに隠居、だしな……すまぬ。ちと、神経質であったな」
「実害を出さない以上、動くべきじゃない。今だってずっと平穏に暮らしているだけの、温厚な爺さんなんだろう? ならそっとしておいてやりなよ」
「ああ……その通りだ。私が浅慮であったよ」
神主は深く反省したように俯き、大きなため息と共にへなへなと萎れた。
その見るからに哀れな姿を横目に見て、ミマはそれはそれでまた面倒なという表情を浮かべた。
「……神主。あんた、そんなに妖怪が嫌いかい」
「いや、嫌いというか」
「怖いのかい」
「ううむ? いや、怖いというわけでもないな」
「あたしにゃ常から、妖怪を意識しているように見えるんだが。それは何なのかね」
ミマが何気なく問うと、神主は自分のことであるにも関わらず、真面目くさった顔で考え込んだ。その滑稽な姿が、ミマには少し笑えた。
しかし答えはすぐに出たらしい。
「……妖怪は、俺にとって退治するべき相手だからな」
「んー……? どういうことよ、それは」
「ああ、そうだなぁ……人にはこう、伝えにくいのだがなぁ……嫌いとか、怖いとかではなく。そう……人前に現れるべきではない存在だと思っている。うむ、これだな。こうだ。こう思っているぞ、ミマ様」
自分の中の答えに納得したのだろう。神主は少しすっきりしたような爽やかな笑みを浮かべていた。
対して、ミマは……その顔に釣られるように、笑ってみせた。
内心を覆う、薄く寒い靄を隠すように。
「そうか、妖怪と人は分けるべき、か。うん、さすがは生粋の退治屋だ。偉いことを言うもんだね」
「あ、ミマ様その言い方ちょっと私を馬鹿にしておらんか?」
「してないしてない」
「してる! してるぞちょっと! 言っとくがなーミマ様! 私は本気だからな! ゆくゆくはこの村から妖怪を一掃してやろうと考えているのだ! 本気だぞ!」
ミマが笑い、そして神主も笑う。
己と夢を語らい、日毎に互いを知ってゆく。
それだけならば心地よい日々のワンシーンに過ぎなかったが、この日のこの話題だけは、ミマにとってあまり、心から笑えるものではなかった。