東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 村長からの話を聞いた後、神主は集会場を抜け出し、神社へ足を向けていた。

 夏はまだ終わらない。蝉時雨の響く中、いつもより重い足取りで石段を登ってゆく。

 

 頭の中に残っているのは、村長より言い渡された忠告とも取れる言葉だ。

 

 

 ――大宿直村では、妖怪が暮らしておる

 

 

 思慮深い村長だ。年はとっているが、頭脳は明晰。痴呆の気は一切ない。

 だからそれは、本気の言葉に間違いなかった。

 

「……何故そのようなことを。今更になって……」

 

 神主は不意に襲ってくる吐き気を堪えるのに必死だった。

 頭で理解しようとする。とりあえずは表面上で納得しておこうとする。しかしどちらも上手くはいかない。

 妖怪との共存など、彼が人生でやってきたことを考えればとても考えられることではなかった。

 

 

 

 神主はかつて、都の陰陽師として高位の立場にある人物であった。

 家柄もよく、若くして才気に溢れ、霊力で言えば数多の陰陽師の中でも最も秀でていた。

 陰陽博士。それが今神主として隠居している彼の、本来の立場である。あと数年もそのまま続けていれば、頂点に君臨することも難しくなかったかもしれない。

 

 だが人の妬みや欲は彼の邁進を許さず、陰陽師達は神主から居場所も地位も全て奪い去っていった。

 妖怪の巣窟を打ち滅ぼす命を遂行する最中、同行していた陰陽師の男が神主を謀略に陥れたのである。

 

 今や神主は部下を殺した罪を着せられ、追われる身となっている。

 都に出て在野の退魔師として活動しても、顔は知れ渡っている。そう長くないうちに刺客がやってくるだろう。相手はそれほどまでに地位に執着する男であったから。

 

 しかし今の神主は、既に地位や権力を欲してはいなかった。

 人と競い、組織に溶け込み、因習に合わせ、いいように扱われ、裏切られ。温厚な彼も、いや、温厚であるからこそ彼は、都会での煩雑な生活に、最期はとうとう嫌気が差したのである。

 

 元より妖怪相手であれば自分一人でどうとでもなる。

 止事無き立場を望まなくとも、退治屋として食うに困らないだけの実力は有しているのだ。

 貧相な暮らしにはなるだろうが、神主はそれを受け入れるだけの覚悟と諦念があった。

 

 人との関わりを煩わしく思う必要はない。

 ただ敵である妖怪を排し、人のために生き、そして行動なりのささやかな感謝を貰えればそれだけで構わない。

 

 妖怪は人間の敵である。

 妖怪は人に災いを振りまき、襲いかかり、死に至らしめる極悪の存在だ。

 だからこそ彼は容赦なく妖怪を屠ってきたし、命乞いにも耳を貸してこなかったし、それらの人格は無視し続けてきた。

 

 だが、それではいけないと村長は言う。

 大宿直村は人間だけの村ではないと。

 この村の存続には、退治屋だけではなく、知恵ある妖怪たちの力も必要不可欠なのであると。

 

 今更になって、受け入れろというのか。

 

 私はただ細やかな暮らしだけを欲していたというのに。

 

 それさえも許されないというのか。

 

 

 

「ふう……」

 

 心は荒み切っている。

 聞きたくもない真実を聞かされ、精神は一気に摩耗していた。

 

 もう彼も三十の半ばになる。身体も心も、決して若くはない。

 老いはすまいと活力や霊力を途絶えさせぬように振る舞ってはいるが、ふとした拍子にひどく落ち込むことは、年相応にあった。

 彼はさほど外見に老いが出ないタイプの人間だった。それでも三十を過ぎた人間というのは、どうしても無理が出てくるもの。

 己の生が絶頂期を超えて下り坂を進み始め、今なお勢いづいているという実感からは、そうそう逃れようもない。

 まだ肌に艶のある村の子供や、凛々しく女衆からの人気も高い明羅、そして才気に溢れる若き歩き巫女であるミマなどを見ていると、最近では羨ましく思える時がある。

 

 しかし、彼らの全てが。

 全員が全員、本当に人間なのだろうか。

 

「……妖怪が暮らしている、か」

 

 村長の言い分を考えてみればわかること。

 この大宿直村には、人間だけでなく妖怪が混じっている。

 つまり、人間のフリをして暮らしている者が潜んでいるということだ。

 

 村長が言うには非常に穏健だということだが、神主にとって妖怪の性質など知ったことではない。

 妖怪。ただそれだけで、彼にとっては許しがたいものであったのだ。

 

「――あらあら、随分とお疲れのご様子で」

「!」

 

 誰も居ないはずの境内から響いた声に、俯いていた顔を跳ね上げる。

 

「そんなに驚かなくても。私はただの参拝客ですわ」

 

 石畳の先には、一人の女が立っていた。

 

 奇妙な格好だった。どこの国の装束かはわからない。それは神主にとって形容し難い装いで、それ故に不気味な印象を強く植え付けられた。

 だが発色の良い赤や紫の生地を見る限り、高品質なものであることは間違いない。汚れのない白妙の生地など、都でもそう見られるものでもない。

 

 何より、彼女の長い髪の色。

 どろりとした蜂蜜に太陽の輝きを透かせたような、見事な金髪。

 その目が覚めるような鮮やかすぎる色合いは、まさしく妖怪特有のものであった。

 

「わざわざ私の前に現れるとはな」

 

 袖口から札を取り出し、構える。妖怪が目の前にいるのだ。

 落ち込んでいた心を無理やり叩き起こし、霊力を練って臨戦態勢を整える。

 しかしその姿を見ても、眼の前の女はくすくすと無警戒に笑うだけだった。

 

「ふふっ……妖怪が参拝するのがそれほど珍しいことでしょうか?」

「妖怪は神に祈らん」

「それはどうでしょう? 八百万の神ともなればご利益だって千差万別。妖には妖の神がいてもおかしくはないのでは?」

 

 札が投げ放たれる。

 薄っぺらな紙が通常出せるはずもない鋭さと速度でもって、真っ直ぐに女の額めがけて飛んでゆく。

 

「あるいは神が零落した姿が妖怪……なんてことも、あるかもしれませんわね」

 

 強い霊力が込められているはずの札は、女の指二本でいとも容易く止められていた。

 普通の妖怪であれば触れることもできないほどの強力な力が込められた札である。

 それを難なく摘み取った女の底知れなさに、神主はより警戒を強めた。

 

「そう邪険にしなくとも、敵意はありません。むしろ、私はこの村を愛し、守っているあなたを好ましく感じているのですよ」

「……妖怪が心にもないことを」

「あら。先程村の長より話を聞かされたのでは? 大宿直村の真実について」

 

 何故知っている。

 その驚きは顔にも出ていたのか、女はおかしそうに笑った。

 

「村長の言葉だけでは信じがたいでしょうから、こうして伺わせていただきました。厄介な者も出払っているようですし、良い機会だったのですよ」

「……ミマ様のことか?」

「ご想像にお任せします」

 

 掴みどころのない、胡散臭い女だった。

 言葉を交わせば交わすほどに、絡め取られるか、空回りする。少なくとも好転することはない。そう思わされる不気味さがあった。

 

「郷に倣い、そうですね……陰陽博士ではなく、神主さんと呼ばせていただきましょうか」

「なっ」

「神主さんは今まで村の真実を知らずに過ごしてきました。しかし私を見て分かる通り、この村には妖怪が隠れ潜んでいます。もちろん、私の他にも大勢」

「……脅しでもしようというのか」

「まさか。私はただ、神主さんに知っておいてほしいだけですわ。人間と妖怪の間に引かれた、最低限のルールを」

「る……?」

「ふふ、規則と言い換えても良いでしょう。人間は妖怪の領域を侵してはならない。妖怪は村に踏み込んで悪事を働いてはならない」

 

 女はどこからともなく傘を取り出し、それを杖がわりに体重をかけた。

 

「……妖怪がそのような口約束を守るものか」

「もちろん約束事など頭に浮かべることもできないような、低級の妖怪は別です。それらを退治する役目は後々までも残ることでしょう。大事なのは我々、知能をもった妖怪たちとの付き合いにこそあります」

 

 神主はじっと女の顔を見た。

 理性的。ではあるのだろう。少なくとも身なりや口調からして、自分以上に育ちが良さそうですらある。

 認めたくはないが、話が通じる相手だ。

 

「そして口約束を守るかどうかは……神主さん。貴方も例外ではないことを、どうぞお忘れなきよう」

「……私が、だと」

「人間の全てが口約束を守るのですか?」

「それは……」

「ふふ。さて、神主さんも今はお疲れでしょう? 考える時間を差し上げますわ。村の真実を受け止められる気になったなら、その時にまた続きを話しましょう」

 

 女がゆらりと身体を傾け、空中に走った不気味な亀裂の中へ入ってゆく。

 

「その際はまたここで。他に誰も居ない時にお願いしますわ」

「なっ……待て」

 

 制止も虚しく、女は空間の亀裂の中へするりと逃げていった。

 亀裂はジッパーのように閉じ、やがてすぐに見えなくなる。

 あとに残るのはいつも通りの静寂。そして、思索すべき大きな命題。

 

「……私は、どうすれば……」

 

 妖怪はいる。きっと村にもいる。

 先程の怪しい女に超常の力を見せつけられたこともある。村に妖怪がいるという話は間違いなく本当なのだろう。

 

 だが明白な真実を目にしても、心まで受け入れられるとは限らない。

 神主はしばらくの間、誰もいない境内で立ち尽くしているばかりであった。

 

 

 


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