ルーミアは倒れた。
神主は結界が攻撃に転じて崩壊する間際に、辛うじてルーミアの撃破を知覚できた。
逃亡の様子からして、力は残っていなかった。
倒れたのは演技ではないだろう。仮に演技だとすれば、今はルーミアにとって千載一遇の好機に違いない。
とはいえ、その可能性は低いだろう。であれば、神主のやるべきことは決まっていた。
「さて、と……玉緒、すまないが……私を、奴の。ルーミアのもとにまで運んではくれないか」
「え……あっ」
玉緒が戸惑う間にも、神主は堪らず膝をついた。
最後に発動した“終焉結界・博”の反動がやってきたのである。
「神主様!?」
「ああ、心配はいらない……が、最後のはちと霊力を食うものでな。相手が相手だったから、限界まで使い果たしてやったのだが……ふふ。私も歳だな」
「そ、そんな。神主様はまだお若いです!」
「ほお、それは嬉しいね……」
小さな玉緒に肩を支えられながら、神主は辛うじて立ち上がった。
そのまま牛のような歩みでルーミアが逃げていったと思しき方角へと進んでゆく。
「……あの妖怪は……ルーミアは、倒せたのでしょうか」
「さあてな。この目で見るまでは私にもわからない。……妖怪は、確実に仕留め切らなければ……ふとした拍子に蘇ることも多いものだ。だから確かめねばならん。危険であっても……」
死んでいればなんのことはない。
だが生きていれば?
のこのこやってくる無防備な餌のようなものだ。
運が悪ければ確実に殺される。玉緒は身が竦むような思いを隠せずにいる。
だが同時に、満身創痍であるはずの神主の恐れず立ち向かう姿に、今までに感じたことのない感情を覚えつつもあるのだった。
「はあ、はあ、はあ……」
驚くべきことに、ルーミアは生きていた。
彼女が仰向けに横たわる大地は弾けた血で真っ赤に染まり、全身にくまなく深い裂傷が刻まれている。凄惨な殺人現場のような光景だ。
それでもルーミア自身は浅く早い呼吸を繰り返し、辛うじて生命を維持している。
「はあ……はあ……効いたよ。さっきの……」
土を踏む音に、ルーミアの頭が僅かに動く。
体を起こす余力はない。霧散した肉体は結界により強引に再構築され、その上でズタズタに破壊されたのだ。
彼女は再生力にも優れていたが、逃げるにせよ赤子の手を撚るにせよ、最低でも数時間は治療に専念しなければならなかった。
そして再生に期待はできそうもない。
「私の全力だ……効いてもらわねば、困る……」
「……こんな状態でも、まだ生きているなんて……」
すぐそこにいる神主の玉緒のペアが、ルーミアとの決着を望む限りには。
「ふ……人間は小癪だなぁ……」
「お前たちからは、よく言われる。そしてその言葉を最後に死んでゆくのだ」
「……」
光を失いつつあるルーミアの目と、神主の目が合った。
神主の目は使命に燃え、静かで鋭い光を放っている。
社会を重んじる天狗でも、闘いに興じる鬼でも、これほど無機質な殺気はそうそう出せるものではない。
殺す。間違いなく確実に。虫のように、躊躇なく。
「……神主さん。彼女も、殺すのですか」
「妖怪は殺す。当然だ」
隣の玉緒は、死にかけた無防備なルーミアを前に怖気づいている様子だ。
ルーミアからすると、そちらは逆にあまりにも甘すぎるように見える。
まるで大陸でいうところの陰と陽。よくもまあこんなちぐはぐな二人組に負けてしまったものだと、ルーミアは笑わずにはいられなかった。
「なにがおかしい」
「くく、く……いいや。別になんでもないわよ。ただ……殺すと言ってる割に、そのあなた自身にはもう、力が残っていないように見えるからね」
「……」
それは神主にとって図星であった。
既に神主に霊力はほとんど残っておらず、使おうとしても満足いく結果は及ばさないだろう。
呪具も全て使い果たしており、仮にあったとしてもそれを操る力も残っていない。
“終焉結界”の名は伊達ではないのだ。
「だから、そっちの女……タマオに、トドメを刺させようって思ってるわけ? ふふ……自分の殺意はぶつけるくせに、汚すのは他人の手なのね……ひどい人……」
「黙れ」
「じゃあ、やってよ。タマオちゃん。もう少し生きていたかったけれど……私が妖怪である限りは仕方ないんでしょ? 殺してよ。あなたの手で……」
「玉緒。こいつは心を揺さぶろうとしている。躊躇するんじゃない」
ルーミアはわざと憐れみを誘うような悲しげな表情を作ってみせた。
目元を潤ませ、涙まで流す。年相応の少女であるかのような演技は、見る者が見ればあまりにも大げさで、陳腐なものだった。
「私、が……この人を……」
それでも玉緒の心に衝撃を与えるには十分だった。
純朴で無垢な彼女の心は、まだ神主のように過酷な世界の中で磨かれきっていない。
少女であるかのように振る舞うルーミアの姿は、確実に彼女の心を躊躇わせていた。
「玉緒、惑わされるんじゃない! そいつの本性は邪悪そのものだ!」
「ひどい、ひどいよ……私、ただ生きていたいだけなのに……!」
やるか。やめるか。大きな選択肢が玉緒の中でせめぎ合っている。
「殺さないで……!」
だが、迷いは短かった。
「やります」
「……」
玉緒も退治屋の端くれ。大宿直村の一員。覚悟や心得は最初のうちから強く叩き込まれている。
姿形が少女であるからといって、危険な妖怪を放置できるほど甘い世界ではない。一瞬だけ逡巡はあったが、選択を誤るほどのことではない。
「……そう。だったら、さっさとやりなさいよ……」
ルーミアもほとんど期待はしていなかった。
万が一ならあり得るかも。その程度の希望である。むしろ無駄な演技のために疲れてしまった。
「あなたの持っているその変な赤い球体……それを使えば、私を殺せるんでしょ。やりなよ……」
「……いえ、ですが殺しはしません」
「はっ……何を言ってるわけ……?」
やります。しかし殺しはしない。ルーミアも隣の神主も、玉緒が何を言っているのかわからなかった。
「……ちょっと。私の髪に、何を……」
「御札です。強力な……ミマ様から教えていただいた、こういう時のための……」
「何を……何をするつもり? おまえ……!」
無抵抗なルーミアの髪に、一枚の護符が結ばれる。
一房の髪にきつく固定されたその札は、玉緒が何日も何日もかけて力を込め続けた、まさに奥の手と呼べる札であった。
「本来、瘴気や地縛霊に侵された土地を鎮めたり、強すぎる呪物を無力化するためのものですが……妖怪に対しても、使えないわけではありません」
「玉緒。それは……札によって、そのルーミアの力を封じようというのか?」
「はい。殺しはしません。ですがほとんど無害になるまで、彼女の力を奪い去ります」
「やめろ……」
結ばれた札に、玉緒の霊力が込められる。
「やめろ! 私の力を封じるだと……! 無害にするだと!? 人間ごときが、私の力を否定し、神気取りで救おうとでもいうのか!?」
「私は……そうします。嫌ですか?」
ルーミアは目を赤く染め、刺々しい牙を剥いた。
「人間が! 愚かな小娘風情が、この私に情けをかけたつもりかッ!?」
「あなたがそれほど嫌がるならば……ねえ、神主様。これほど素晴らしい退治もないでしょう?」
「……ふ。まあ、いいのではないか」
「お前……!」
札が輝く。封印の力が発揮される。
「あ、あああ――……私の、力が……」
満身創痍のルーミアの身体が崩れ、弱体化し、再構築されてゆく。
背は縮み、力は衰え、ルーミアを大妖怪たらしめるものの尽くが抑圧されてゆく。
「わたしの……」
次第に思考力が落ち、記憶も欠落し、やがて全身に負った傷に意識を保てなくなり……ルーミアは眠りに落ちた。
封印の際に多少、傷が修復されたようだ。放置しても死ぬことはないだろう。
それでも今のルーミアが回復したとして、彼女にはもう退治屋の誰かを殺められるほどの力は残されていない。
彼女は死ぬことこそなかったが、かつて有していた大妖怪としての力や矜持を全て失ったのである。
「……仕留めればよかったものを、わざわざ封印するなど」
「……ごめんなさい。強がってしまいましたが……神主様、ごめんなさい。私、どうしても……彼女に手をかけることができなくて」
「いや、構わんさ。これほど見事に封印を施せたのならば、もはやこいつが大きな悪事を働くことなどできん」
ルーミアはそれまでの悪意が嘘のように、穏やかな寝顔を見せている。
精神的な部分にも封印の力は及んでいるのだろう。これほど強力な札であれば自ら剥がすことは不可能だ。
「それに、なんだ……ルーミアの最後に見せた、あの反応。……きっと本気で嫌がっていたのだろうな。これはまあ、個人的な溜飲でしかないのだが……玉緒、よくやってくれたぞ」
「……ふふ、はい。ありがとうございます」
その時、二人は初めて自然な笑顔を向けあった。
神主も玉緒も、互いの素朴な笑みを見たのは初めてのことだった。
「……あの、神主様。お手を」
「む……もう、妖怪は封じた後だが」
「そのままでは、歩くことも難しいでしょう。ですから……お手伝い、させてください」
「……そうか。わかった、頼むよ。玉緒」
「はい」
こうして、闇の大妖怪ルーミアは無事に退治された。
髪飾りの札に施された封印は、半永久的にルーミアの力を縛り続けるだろう。