「これは……?」
真っ先に異変を感じ取ったのは、宴の後始末を終えてほろ酔い気分で帰宅した神主その人であった。
鳥居を潜り抜けた先で、ほんの僅かに肌を突いた違和感。
一枚の泡をくぐり抜けたような些細な変化だったが、長年神職に携わってきた彼が見逃すはずもない。
違和感を頼りにその源泉を注意深く辿ってみれば、答えはすぐに発覚した。
「なんと……これは、神がいるというのか」
長く不在だった空っぽの神社に、神の気配が宿っている。
それはどちらかといえば目出度いことだったが、宴を終えたばかりの神主には少々疲労感の強い面倒ごとでもあった。
「……無視はできんよなぁ」
村の一員として報告しないわけにもいかない。
ルーミアの死闘、珍しく盛り上がりすぎた宴、そして神が宿った神社。
一日の内にあまりにも多くのことが重なりすぎではないかと思いつつも、神主は己の責務を全うすることにした。
名無しの神社に神が宿る。
その急報は深夜帯のうちに、大宿直村全体に広まった。
とはいえ、妖怪が出たならまだしも、神社に神が宿った程度のことでは焦る必要もない。
村人たちが本格的に乗り出したのは翌朝になってのことであった。
「……間違いない。うん、神主の言う通りだ。この神社……神が来臨してるわね」
神職の中でも最も神や降霊に長けたミマが詳しい調査を終えた。
巫女たる彼女が間違うはずもない。確かに神社には、神が宿っている。
ミマのお墨付きを聞いた村人たちが、“おお”と静かにどよめいた。
この神社は長年何も存在しなかったため、誰も有り難がることのなかった施設だ。
神主が拝殿の中で寝泊まりしても疎まれず、誰も参拝することのなかった場所である。それが昨日突然、勧請したわけでもなしに神が宿った。
不思議な来臨に、誰もが困惑を隠せないでいる。
「なぜ突然……」
「なぁ、ミマ様、悪い神様じゃあないでしょうな。もしも祟り神だったりしたら……」
「んーや、その心配はいらないわね。すごく穏やかだし、微弱。そこらの妖精なんかよりもずっと無害だよ」
「……そうですね。ミマ様の言う通りです。私も、ちょっとだけ力を感じます。清浄で……無色透明……」
「うん、玉緒の言う通り。こういう感知は私より向いてそうね」
「そ、そんな。私なんて、ミマ様より……」
「さておき、無害な神様であることは間違いないよ。みんな、安心して」
ミマが玉緒の頭をわしゃわしゃと撫でながらそう言うと、村人たちは皆ほっと一息つけた様子だった。
大宿直村の住人は人外に対して警戒心が強い。それは神も同様だ。神とはいえ、その全てが無害なわけではない。中には人の暮らしを脅かすような者も珍しくはないのである。
「しかし、神が宿る……か。のう、ミマよ。それに神主。お前ら、下手に勧請などしておらんだろうな」
「まっさか。私は昨日宴の片付けした後、屋敷にいたよ。玉緒と明羅に聞いてみなよ、村長」
「うむ。私も勧請などはしておりません。そもそも、私が気付いたのも昨夜帰ってすぐのこと。多少酔ってはいたが……だとしても勢いで神降ろしなんぞするものではないでしょう」
「すまなかった。当然のことだな……ふぅむ」
昨夜はほぼ全員が宴に参加していた。
そのうち、抜け出して神を降ろせる者も多くはない。何より動機が無いし目的も謎だ。誰かが酔ってやったにしても無理がある。
となると自然と神が宿ったか。それはそれで不自然でもあるのだが、一同はそう結論づけるしかなかった。
「ま、特に害も無いならいいじゃないか。ちょうどこの村には神社がここしかなかったんだし、目出度いこったろ」
村一番のお調子者は、そんな気構えだ。
しかし実際、彼のいう通りでもある。害の無い神が来たのであれば、特に騒ぐ必要もない事件であろう。
「てことは、お祝いをしなけりゃならんな!」
「また宴か! そりゃ良い! 昨日の酒がまた出るのかねぇ」
「おお、神事ってやつだな? こいつは良いや!」
むしろこれに乗じて酒飲みを楽しむチャンスでもある。
妖怪の領域に囲まれて圧迫感を覚えるばかりの日常だが、だからこそたまにあるこのような良いニュースは歓迎される。
ミマは調子のいい男連中にため息をついた。
「あのねぇ……宴っつっても、ご馳走はもう昨日ほとんど使い込んだでしょ。酒だって買ってきた分はもう残ってないよ」
「そんなぁ」
「酒もかぁ」
「んな昨日の今日で何度も飲み食いして騒げるもんかい。やりたきゃまずは自分らで恵みを拾ってきな!」
「ひぇー」
「ミマ様おっかねぇー!」
狩人達はそんな調子で、得物を片手に去っていった。
彼らはこれから猪なり兎なりを狩りに行くのだろう。昨夜の酒の席でも肉料理がどうだの熱く話し合っていたので、しばらくはいつも以上のやる気でもって仕事に打ち込むのかもしれない。
「ふむ。だが、ミマよ。儂はあまり神に詳しくないが、神事をせぬわけにもいかんのだろう?」
「……そりゃ、まあね。何もしないわけにはいかないと思う。……参ったなぁ。この神社、ずっと空っぽのまんまだと思ってたのに……」
村長が指摘する通り、宴を。つまり神事を行わないわけにもいかない。
神が来たのなら、それを迎え入れる必要があるだろう。
まして、神社をこれまで通り杜撰に扱うわけにもいかなくなった。
現状、ただでさえ本殿が神主の手によって散らかり放題なのだ。
色々と改めるべきことは多い。
「ならば、良い機会ではないか。準備もいるから今すぐにとはいかんだろうが、神事を執り行ってしまえ。村総出でな」
「嘘でしょ村長……」
「なんじゃ、不満か?」
「不満じゃないよ? ないけどさ……えー、でも神社なぁ……都と神宮に足運んで報告するのもなぁ……どこから勧請してきたんだってチクチク聞かれそうで怖いよ」
「神宮の許しが無ければ神罰でも下るのか?」
片眉を上げて村長が訊くと、ミマは少し考え込んだ。
「……別にそんなことはないと思うけど。え、そんなんでいいの? 村の神社の扱い」
「難しく考える必要などあるまい。所詮連中は大宿直村まで来ることもあるまいて。それに、お前が外に行くたびに息苦しい思いをしているのもわかっておる」
「……うん。ありがとう、村長」
「ここはここなりの作法で、神をもてなせば良かろう」
神を蔑ろにしない範囲で、型に拘らず柔軟にやっていく。それが結論となった。
面倒な機関が関わらなければ、この時代そういった取り決めも決して珍しいことではない。
「……と、言うことだ。神主よ」
「は、はい。はい? いえ、どういうことでしょう、村長」
「お前が神主だ」
「……えっ!?」
烏帽子がぽろりと傾き、石段に落ちた。
「当然じゃろう。今までずっと神主を名乗っておったのだ。神事にも村一番詳しかろう?」
「いやっ、いやいやいやっ、わ、私は陰陽博士……ではなく! 神主になれと!?」
「あははっ! 神主が神主じゃないって言ってる!」
「ふふっ……ご、ごめんなさい……」
「笑うな二人とも! 村長も! あっ、村長も笑いを堪えて……!」
「ははは……いやーでも、実際のところ妥当じゃない? あんた以外に誰がやれるのさ、神主。それに今までずっと拝殿で寝泊まりしてきたんだ。神様が来た途端にとんずらってのは、罰当たりでしょ」
「ぐぬっ……」
色々言い返そうとしたものの、意見はどれも真っ当だ。
神主は降伏するように、がくりと頭を上げた。
「……あいわかった。神主な……仕方あるまい。名実ともに、神主になるよ……」
こうして、長閑な笑い声に包まれながらも、大宿直村の正式な神主が誕生したのであった。