東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 夜明け前になると、山林の中から一人の女が村に向かって走ってくる姿が見えてきた。

 いや、正確には一人ではない。背中にもう一人、男を背負っている。

 

 行きの時点では鬼神の如き勢いで野山を駆けていた女の妖怪も、朝を迎えて妖力を減じたのか、さほど勢いはない。

 しかし彼女の背中にしがみつく男もまた、昨夜よりもずっと顔色は悪く、外面的な違いでいえば、どちらかといえば彼の方が違いは顕著であった。

 暴れ馬の如く駆け続ける女の背に常に取り付いていられたのは、恐怖によって全身が強張っていたこともあるだろう。彼は一晩中、眠気を感じる暇など無かったに違いない。

 

 

 

 女が居間へと戻り、男を背にしたままうつ伏せに倒れる。

 捜索を行わない彼女の待機状態がこれであった。こうなれば、女はまさに死体の如く動き出すことはない。

 それでも男はまだ、女の遺骸から離れることはできなかった。

 降りれば命はないと、ミマから散々脅されたからである。

 

 彼にとっては不幸なことに、ミマと明羅の二人組が再びここへ戻ってきたのはそれから三十分ほど後のことであった。

 

「……」

 

 ミマは倒れ伏す女の遺骸の耳元で、小さな声で何かを呟いた。

 男はそれを聞き取るだけの元気も残っていない。呪文なのか、それとも言葉なのか。細かく気にするような者はその場にいなかった。

 しかし、決定打は間違いなく短いその言葉であったのだろう。ミマは一息ついて、眩い朝日を見上げた。

 

「これで大丈夫だよ。その女はもうあんたを探して起き上がることもないだろうさ」

「……」

 

 男は何も答えなかった。だが聞いてはいたのだろう。しがみついていた腕をおそるおそる離し、ぐったりと女の横に寝転がった。

 一晩中眠ることなく、強い力でしがみついていたのだ。それも、恐ろしい思いをしながらである。既に性根尽き果てていたのだろう。

 

「……ごめんよ……すまなかった……すまなかった……」

 

 男は朽ちかけた茣蓙の上に涙を零し、許しを請う。

 

「化けて出ないでくれぇ……たのむ……すまなかったよぉ……」

「……さ。帰るよ、明羅」

「ええ。すぐにでも」

「ぁあ、ありがとう……ほんっとうに、ありがとうございます、陰陽師様ぁ……」

「巫女だよ。私はただの歩き巫女だ」

 

 大きく鼻を鳴らし、ミマは颯爽と歩き去っていった。

 相手が死に、化けて出て、成仏して。それでようやく遺骸に詫びた男の姿が見苦しかったのもあるだろう。

 

「嫌な仕事だったね」

「心中お察しします」

「明羅。帰って何か甘いものでも食べようよ。そんな気分だわ」

「お伴させてください」

「うん」

 

 こうして、ひとつの妖怪退治はひっそりと幕を閉じた。

 今の時代には決して珍しくもない、凡庸な怪談のひとつである。

 それが口伝によって広まるのか、文献によって後世に遺るのかは、まだ誰にもわからない。

 

 

 

「おや? 朝早くから出かけていたんだね。おかえりなさい」

 

 ミマたちが大宿直村に戻ってすぐ、村の入り口で出会ったのは件の怪しい老人、静木であった。

 今でも胡散臭いとは思っている。しかし、さほど害はないだろう。少なくとももう一人の方の胡散臭い奴よりはずっとマシだろう。ミマは昨日のこともあってか、そんなことを考えた。

 

「や、静木。おはようさん。ちょっと村の外れのところで仕事があってね。あんたは何をしてるんだい」

「私は見ての通りだよ」

「いや、ちょっとわからないね」

「うん? そうか。いやね、ちょっと結界を見ていたんだ」

「……」

 

 思わずミマは天を見上げてしまった。

 胡散臭いとは思ってはいたが、思っていた以上に胡散臭いものだな、と。

 

「気付いてたんだ、村の結界」

「無害だし、効果も薄いから興味はなかったけどね」

「……ミマ様、よろしいので」

「あーあー、いいよ。……まあ、魔力のことを知ってるのなら、結界に感づいてても不思議じゃあないか」

 

 触らぬ神に祟りなし。ミマにとって、この村での生き方はそれが一番であると考えている。

 人間は種族としての軛から抜け出さない限り、どうあっても人間以上の存在にはなれない。そして人間はどうしようもなく弱い種族だ。強さには限度がある。

 それに大宿直村の取り巻く妖魔はあまりにも多く、その全てに場当たり的な、つまるところ退治屋的対処をすることなど不可能に近い。

 可能な限り当たり障りのない距離感を保つ。ここにおいては、それも立派な妖怪への対処のひとつなのだ。

 

 だから今まではこの明らかに胡散臭い静木に対しても触れないようにしてきたのだが。

 

「で、静木はこの結界を見て何かわかったのかい」

「ああ。これは……おっと。これ以上はやめておこう」

「知ってる風じゃないのよ。なんで言わないのさ」

「いや……距離感」

「距離感?」

「ふふ……いや、私はあくまで隠居だからね。あまりこういう、魔法的なことには関わらないようにしてるから……」

「今更隠すわけでもないのに何わけのわからないこと言ってんのよ……」

 

 知らないふりをするならばまだわかるが、あからさまに知っているのに話せないと言う。グレーというよりはむしろ既に黒に踏み込んでいるそれである。

 

「あんたが言いたくないのは別にいいんだけどさ……そこまで隠し事されちゃうと、尚更気になっちゃうでしょ。さ、言いなさいよ静木。怒らないから。結界のどういうところ見てたの」

「ぐおお……グイグイくる……いいのか。これはいいのか……語っても大丈夫なのか……」

「ミマ様、何やら苦しんでいるようですが」

「死にはしないでしょ」

 

 しばらく妖怪の如き低いうめき声をあげていた静木だったが、やがて何かをいけると判断したのか、今更居住まいを正してミマに向き合った。

 

「……この結界はまだ作りかけだろう。それも長らく作り続けているものだ。しかしほとんど効果らしい効果はない……察知できる者もそう多くはないだろうね」

「へえ」

 

 思っていた以上によく見ている。ミマは素直に感心した。

 特に作りかけであることなど、神主や玉緒でも、自分でさえ言われるまで気付けなかったのだが。

 

「そして作り上げたのは人間じゃない。村人はこういうのを作っても得はしないだろう。それに言語は陰陽術に限りなく近いが、真似ているだけ。私はどうもそれが気になってね。ちぐはぐな感じが興味をそそるのだ」

「……」

 

 それも正解だった。この“村を覆う薄く弱い未完成の結界”を張り巡らせた張本人は人間ではない。陰陽に近いというのも当たっている。

 

「あー……静木。この結界についてだけどね。あんまり気にしなくてもいいよ。私が調べて、害が無いのはわかってるから」

「うむ、私もそれはわかっている」

「じゃあ何をそんなジロジロ見てるわけさ」

「いや、単純に興味があるんだよ。他人が使う魔法や、術とかにね。陰陽のほうはそうでもないけど、この結界は面白い」

「……変な奴」

 

 結界に沿ってスルスルと這うように移動する静木の姿は不審者のそれだ。

 しかし、こうまではっきりと不審者な動きをされると、逆に麻痺して安心できるものがある。隣の明羅は未だに警戒を怠っていないが……。

 

「そこまで詳しいんならさぁ、静木。今度、何か作っておくれよ。魔法だって知ってるんでしょ? 魔道具ってやつ」

「ええ……いや、さすがに……そこまでは……」

「嫌なの?」

「うーん……嫌じゃないけども……」

「じゃあできないの?」

「できる。私に不可能はない」

 

 ミマには静木の目的などはさっぱりわからないが、ある意味で扱い易い相手であることがわかった。

 

「はい、聞いたよ。聞いたからね。な? 明羅」

「ええ聞きました。できると」

「あ」

「ほいじゃ、まぁ次ってのがいつになるかは知らないけど、決定ね! 静木、あんたの村での仕事が一つ増えたよ!」

「謀られたか」

「あんたが勝手にコケただけでしょ。ま、次の祭りの時までに何か考えておきなさいよ。そうすればもうちょっと、あんたも村に馴染めるだろうからさ」

 

 そう言って、ミマは魅力的に微笑んだ。

 そのまま明羅を伴って、大股で村へと歩き去っていく。

 

 静木はしばらくその後姿を見送ったまま、困ったように頭をポリポリと掻いているのだった。

 

 

 


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