「……相変わらず哨戒が薄い。最近じゃ天狗風も全くだって話なのに……」
街の警邏も、普通の退治屋にできることと、そうでないものがある。
極端に足場の悪い場所であるとか、地形的に飛ばなければ踏み込めない場所などがそれに当たる。
そのため、ミマなど空中浮遊し飛行ができる術者は貴重で、見回りとして時間を割く機会も多かった。
今日の彼女も、空を飛びながら危険区域を見回っている。
縄張り意識の強い天狗が不気味なほど静かである以外は、概ね平穏であると言っても良いだろうか。
しかし不自然な平穏ほど後から苛烈なものがやってくることが多い。
ミマとしては、少々気がかりな状況である。
「おやミマ様、このような場所におられるとは」
「ん? んっ、あら、玄爺じゃないの」
「お久しぶりにございます」
「久しぶり。神社はともかく、玄武の沢で会うなんて奇遇ねぇ」
玄武の沢の様子を眺めていると、ミマの近くに大きな海亀がやってきた。
しかしこの海亀、地を這ってきたわけではない。彼もまた、ミマと同じように宙を泳ぐかの如く飛んでいるのだ。
智慧ある仙亀。非常に温厚で無害であるため、ミマとは旧知の仲である。
「ねえ玄爺。最近天狗どもが大人しいんだけど、何があったか知らない?」
「ええ、存じております。が、ミマ様が憂慮されているようなことは何もございませんよ」
「あ、そうだったの」
「全ては鬼の影響かと。都の四天王が各地から手下となる妖怪を率いたことで、勢力図が乱れているのです。妖怪同士で睨み合い、今は拮抗している状態。普段のように大きく動けないのでしょう」
鬼。それは日本における最強の妖怪だ。
天狗も賢く妖力も高いが、鬼に抗えるほどではない。鬼に従っているのは渋々であろう。強力な風も速度も全てが力技でねじ伏せられるのだから、彼らにとってはたまったものではない。
ミマとしても対処はできないこともないが、可能な限り避けたい相手である。
その点、大宿直村は鬼の脅威からはまだまだ遠かった。
「じゃ、ここも比較的安全ってことか……」
「ええ。まあ、木っ端妖怪は多いですが。儂も何度食われそうになったことか……」
「玄爺、あんたもそこまで弱くはないでしょうよ」
「ふぉっふぉっふぉ、そうおっしゃって下さるのは、今やミマ様だけですのぅ」
人ではないが、玄爺も仙人の端くれである。彼はただの海亀よりもずっと長く生きていた。
それこそ、年齢で言えばミマどころか明羅以上の年月を生きているに違いない。
そして長生きは、必然的に最低限の強さを持っているものだ。
人でなくとも、例外はない。
「玄爺、滝壺のところまで乗せてって」
「ぐむぅ……ミマ様、ご自分で飛べるではありませんか……」
「まぁまぁ。人に乗せてもらうと、それはそれで楽しいんだよぅ」
ミマは玄爺の上で膝立ちになり、甲羅を叩いて急かした。
玄爺と出会った頃から既に空を飛行できたミマだが、これはこれでまた乗り物に近い楽しみがあるのだろう。
「やれやれ……暴れてはいけませんぞ、ミマ様」
「わかってるー」
人一人を乗せても、玄爺は大した苦労もなく浮き上がった。
そのままふわふわと沢沿いに飛んでゆく。
途中でミマは“もう少しゆっくり”とか“ちょっとあそこの山菜取らせて”だのと注文をつけるのだが、そのたびに玄爺は“はいはい”と応じるのであった。
「ミマ様。近頃は、いかがですか」
「うーん? なにがー?」
「村で、何かあったのではないですか」
「ないよ。なーんにも」
柱状節理が並ぶ玄武の沢は、水棲の妖怪が潜んでいることがある。
しかしミマはこの辺りでも危険とみなされている凄腕の退治屋だ。少し魔力を放って威嚇してれやれば、見境のない弱小妖怪も我先にと逃げ出してしまう。
二人の空中散歩は、至って平穏であった。
「……そろそろ滝壺に着きますぞ」
「んー。ありがとう、玄爺」
滝はいくつかある。ミマはその中でも、奥まった上流にあるこの滝が好きだった。
飛沫が強く飛び散らないほどの滝と、澄み切った緩やかな流れ。人も妖怪も滅多に立ち入らない、お気に入りの場所だ。
幸い、ここはまだ神主にも見つかっていない。ミマと玄爺だけが知る秘境である。
「ミマ様……」
「玄爺。禊なんだから、あっち向いてなさいよ」
「……しかし、去ってはならぬとおっしゃるので」
「すぐに終わるから、向こうで待ってて。後で野菜あげるからさ」
「……ううむ。野菜とあらば、首を縦に振らざるをえませんなぁ」
智慧があるとはいえ、人間の裸を見たところで玄爺は何も感じないのだが、人からすれば気になるものらしい。
だが、その恥じらいもミマにとってはまだまだ必要なものか。玄爺は苦笑すると、少し離れた岩の上で甲羅を干すことにした。
「ふー……」
巫女服を脱ぎ、小さな滝に打たれる。
水に当たるには寒い季節だが、滝行を怠ると霊力の冴えが鈍る気がするので、ミマは厳冬期以外には欠かさなかった。もちろんわざわざ滝に打たれずとも力を行使するのに不便はなかったが、巫女としての意識から続けているのだった。
「冷たい……」
絶えず項に叩きつけられる水音が、小さな呟きをかき消す。
「そりゃ、かっこいいもんねぇ、あいつ。……剽軽だし、生活力はないし、片付け下手くそだし、烏帽子はほつれたまんまだし……だけど……一緒にいると、楽しいもんね……」
声は、自分にすらも聞こえ難い。目頭の熱も、高まるそばから冷めてゆく。
「わかるよ……良い男だもの。長いこと一緒に、話したり、過ごしたりしたもん……わかるよ、玉緒……しょうがないよ……」
ミマは、村の警邏を欠かさない。
多くの人から声をかけられるし、挨拶もされる。ミマは村の中でも特に人気者である。
誰かの耳に入るような噂話など、彼女は真っ先に受信しているのだ。
神主と玉緒の仲が良好で。その関係が、急速に進みつつあることなど。
「……玉緒も、可愛いもんね。嫁ぐには丁度いい歳さ……素直だし、勤勉だし、奥ゆかしくて……ほんと、あたしなんかより、ずっと素敵な子……」
座り込み、水中に顔を浸す。
冷たい水の中は、打ち付ける曇った音と、白い泡と、その向こうにうっすらと伸びる自分の脚だけが見えた。
密かに気に入っていた美脚。過酷な渡り巫女の人生にしては綺麗に使ってきた、言いふらすでもない自慢の脚だ。
しかし二十を過ぎた女の脚など、絹のような少女のそれには遠く及ばない。
まして、火傷の黒い痣が遺る、こんな醜い脚などは……。
「いいさ……どうせ一生、誰に見せることもないもんね……」
水の中は息苦しい。凍えるほどに冷たい。
それでも、目頭はいつまでも熱く、感情も冷えきってはくれない。
長い間ずっと抱え込んできた感情だった。初恋でもある。
しかし、想い合う二人の間に、今まで伝えることもできなかった自分一人の想いが、一体何を成すというのだろうか。
悲しんでくれるだろうか。驚いてくれるだろうか。困ってくれるだろうか――。
思い浮かぶそのどれもが、ミマが見たくないものばかり。
神主も玉緒も、ミマにとって大切な人間だ。大切な人には、笑っていてほしい。幸せでいてほしい
ならば、自分の内に封じ込めるしかないだろう。余った一人分の感情などは……。
「……?」
不意に、項を叩く激流が弱まった。
寒さでおかしくなったのかと思ったが、水面から顔を出してみるに、どうもそうではないようだ。
不審に思って滝を見上げてみると、原因はすぐに判明した。
「うーん、やはり霊的に清らかな水が一番だ。流れ落ちる最中のものほど程よく砕けて扱いやすい……」
岩肌にしがみついた静木が、大きな樽で滝の中程を汲み取っていた。
「うん? おお、ミマじゃないか。どうしてそんな滝壺の中に……」
「変態ッ!」
「ギャァアアアア!?」
ミマが放った特大の霊力弾は静木を吹き飛ばし、樽を木っ端微塵に破壊した。
おかげで涙は引っ込んだが、それはそれである。