東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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 昼間のように白く染まる球体異界。

 世界は白の中に赤みを帯び始め、崩壊の前兆を示している。

 

 時間は多く残されていない。

 だが、希望は確かに残されている。

 

「良かった……」

 

 安々と掴み取れるものではない。その希望を手にするには相応の覚悟と代償を伴うだろう。

 人によってはそれを希望とは呼ばず、苦肉の策とも、苦渋の決断とも呼ぶかもしれない。

 

「これなら、私の務めを果たせます」

 

 しかし玉緒は微笑んだ。

 既に身体の一部は虚空に消えたかのように損失し、息も荒い。全身と魂に負った傷は、半妖にとって致命傷と呼んでも差し支えないものだろう。

 

「玄爺様……私ならもう大丈夫です。不甲斐ない私をここまで運んでいただき、ありがとうございます」

「……玉緒殿」

「あとは私だけで大丈夫。……時間がありません。貴方はどうかお外へ」

「……」

 

 玄爺に穏やかな笑みを浮かべ、玉緒は陰陽玉を胸の前に浮かべた。

 既に陰陽玉は玉緒の意志を汲み取って彼女に浮遊の力を授け、待機状態に移行している。

 

 陰陽玉は術者が望めば直感で操作することも難しくはない。

 それが複雑に思える力であろうとも、力を注げばいいのだと、玉緒はこの場面になってようやく理解し始めた。

 

「ありがとう、玄爺殿。助かった。あとは……我らの仕事だ」

「神主殿」

「厚かましい事とは思うが……これからも村を、見守っていてはくれないか」

「……もちろん。もちろんでございます」

 

 玄爺は深く頭を下げると、一度だけ魅魔に目をやった。

 

「……」

 

 魅魔は語らない。術によって力を吸収され、その脱力感と不快感を堪えるので精一杯だった。

 そこにかつての渡り巫女だった時の快活な面影は、無い。

 

「……いずれ。またいつか、いずれ」

 

 そう一言だけ残し、玄爺は去ってゆく。

 

 異界に残されたのは四人。

 災厄と成り果てた魅魔。狼狽える明羅。覚悟を決めた玉緒。そして、神主。

 

「神主様。あなたも……」

「躊躇うことはない。私も“使え”」

 

 使え。その言葉の意味を、玉緒はわかっている。

 毅然とした声で言い放った神主もまた、理解しているのだろう。

 

 お互いに、今何をするかがわかっているのだ。

 扱ったこともない魔道具。使ったこともない封印。その行使に失敗は許されず、失敗は全ての破局と災厄を意味する。

 中途半端なことはできない以上、持てる力全てを注ぎ込むのはある意味当然のことだったのかもしれない。

 それが万人が万人、躊躇なく選べる選択肢ではないとしても。

 

「……お前たちなら、魅魔様を救えるのか」

 

 明羅は剣を震わせながら、小さく呟いた。

 星魔力が渦巻く最中にあって、その声はなぜか二人の耳に届く。

 

「神主、玉緒。お前たちならば、この魅魔様の乱心を……破滅を齎す術による心中を、止められるのか?」

「……明羅? 何を言ってる?」

 

 怨霊に冒された妖怪は変質する。

 その変質は魂にさえ及ぶ変容であり、かつての生命を上書きされるに等しいものだ。

 

 それでも尚、今この時にあってもまだ、明羅の中には“忠義”が残っている。

 あるいは“魔素の地平面”によって怨霊を削られたからこそ、今こうして表出したのかもしれない。

 

「ええ、やってみせます。必ず、魅魔様を救います。必ず……!」

「何を……何を救う、だと? 私を救うだと? 何を……」

 

 陰陽玉が輝きを放ち、玉緒の頭上に浮かび上がる。

 心の中に意志を定め、数ある中でも厳重にプロテクトされた機能を開放する。

 

 

 

 願望の成就。

 それは神の素材たるアマノの神格を宿した竜骨によって発現される神器としての力。

 神族が持つ万能の力。霊魂の望む意志を叶えるために、陰陽玉は紅白二つのパーツを開帳した。

 

「なん、だ……それは……」

 

 中心部に秘められたものは――空洞。

 しかしそこにあるものは虚無ではない。内部に眠るものは、ともすれば“魔素の地平面”さえ凌駕しかねない濃密な霊力。

 

「くっ……」

 

 そう、魔力ではない。願望の成就に必要なものは魔力ではなく、霊力であった。

 もちろん術者が操る魔力であれば、単に自身の霊魂を介するだけで擬似的な霊力として運用することもできる。

 しかし今の満身創痍の玉緒には霊力がほとんど残されておらず、周囲から力を得ようにも、それらは全て“魔素の地平面”に収奪される有様だった。

 

「はは、ははは……何をするのか知らないが、どうやら」

「あり、ますよ……霊力なら……私の中に……!」

「何……!?」

 

 玉緒の力が更にもうひとつの機能を開放する。

 

 “霊魂の霊力への変換”。

 

 己の魂を材料に、より純粋な霊力に変換させる機能だ。

 

「馬鹿な、馬鹿な! そのような真似をすればあんたはッ!」

「私は役目を果たします。……魅魔様、きっと貴女もそうしたように」

 

 光に包まれる玉緒は穏やかに微笑みかけ、魅魔は戦慄する。

 

 

 ――己の魂さえ素材にする、そんなことが

 

 ――そんなことが、あるんだよ

 

 

 魅魔の脳裏に浮かぶ北極星の如き清廉な輝きが、不敵にほくそ笑んだ気がした。

 

 

 

「玉緒。狙いは魅魔様と、あの強大な魔術だ。それぞれまとめて異界に封じ込めてやろう。……さあ、景気よく全てもっていけ。骨もいらんぞ? 遠慮することはない」

 

 同時に神主の身体からもまた光が灯り、その肉体を溶かしてゆく。

 博麗の巫女と神主二人の霊魂が今、強大なひとつの霊力と化し、一つの大封印を成し遂げようしていた。

 

「共に参りましょう。神主様」

「ああ、玉緒。やってみせよう」

 

 二人が手を取り合い、光と共に消えてゆく。

 陰陽玉の中心部に、本来であれば長大な時間を要して充填されるはずの霊力が、急激な速度で満たされてゆく。

 

 陰陽玉の力が満たされた時、何が起こるか。

 それはかつて陰陽玉の仕様書を一瞥した魅魔もまた知識として持っていたし、現時点で強い危機感としてもあった。

 

 あれだけは阻止しなくてはならない。

 

「お前の霊力だけは、なんとしても容れさせないッ!」

 

 今の魅魔には両者を屠るだけの力が残されていない。だが全力を振り絞れば、神主の霊力だけならばあるいは。

 魅魔は逆転を狙い、どうにか濃縮させた魔弾を撃ち出した。

 

 そして、弾は弾かれた。

 

「……魅魔様」

 

 正面に躍り出た、味方であったはずの明羅の剣によって。

 

「馬鹿な……馬鹿な! 明羅、何をする!? そうだ殺せ! お前があの霊力を引きちぎれば良い! 陰陽玉に術を使わせなければ……!」

「私は……魅魔様の味方」

 

 怨霊による変質は不可逆。だが、その力は万能ではない。

 確かに悪しきように変質させるのが怨霊による力のひとつではあるのかもしれない。

 それでも、魂の深くに刻まれた純粋な忠誠だけは、どうしても塗りつぶすことができなかった。

 

魅魔(ミマ)様をお守りするためならば……時に貴女へ剣を向けることも、厭いはしません……!」

 

 怯え、畏れ。彼女の表情はおよそ万全のそれとは言い難い。忠誠を捨てることなく刃向かったのだ。その矛盾は自身にも処理しきれるものではない。

 しかしこの土壇場で、彼女は正しい選択をしてみせた。

 

 魅魔を守るためには、それしかないのだと。

 

「は……」

 

 博麗の神主と博麗の巫女が、霊力に解けた。

 

 人間と半妖の魂は純粋な霊力へと変換され、それは陰陽玉の内部にひとつの新たな術として再構築される。

 願いを現実のものとして再現させた即興の魔法。

 

 人間による強い意志が成し遂げた、陰陽玉の真の力。

 

 

 

『“神玉(しんぎょく)”』

「……ッ!?」

 

 赤と青の、異色の太極図が現れる。

 それは紅白の陰陽玉の中より生まれたのか、それとも既にあったのかもわからない。

 ともかく巨大な陰陽模様は、唐突に魅魔の前に立ちはだかったのである。

 

「嘘だ……そんな……!」

 

 昏い陰陽玉の中には、薄く人影が潜んでいるかのように見えた。

 青には神主が。赤には玉緒が。両者は魅魔を見つめ、手を差し伸べている。

 

「やめろ……!」

 

 “魔素の地平面”に変調が現れたのはその瞬間からだ。

 魔力を引き込み続けていた“魔素の地平面”がその円環による回転運動を急激に鈍らせ、停止したのである。

 だがそれによって術が破綻することも暴走することもなく、不気味なまでに何も起こらない。

 まるで術の時が止まったかのようですらあった。

 

『猛る魔法を法界にて封ず』

 

 太極図の赤い模様に潜む巫女が手を伸ばし、何かを“掴む”。

 すると一瞬だけ世界が怪しい輝きに包まれた後、ただそれだけで、景色は一変した。

 

「……異界が、消えた……!?」

 

 “魔素の地平面”が異界ごと完全に消滅したのである。

 半妖としての力を削り続けていた術が抹消され、明羅の身体に僅かな力が戻る。

 そしてそれは魅魔もまた同じであろう。

 

 だが、魅魔は動こうとしない。抗おうともしていない。

 

 彼女は理解しているのだ。今ここにある力を総動員したところで、目の前に浮かぶ巨大な太極図(神玉)に抗う術はないのだと。

 

「私は……なんのために……」

 

 脳裏にちらついていた“極星”が消滅したことで、感情と意識が揺り返される。

 言葉にできない喪失感と違和感は、一瞬の内に飲み込めるものではない。

 

「魅魔様! 術は消えました! 今は逃げるべきです! あの太極図はまだ、こちらを狙って……!」

「明羅……」

 

 どうにかこの場から逃がそうとする明羅の背後で、太極図の青い模様に浮かぶ神主は手を掲げていた。

 

『悪しき妖魔を地獄にて封ず』

「手間、かけたね」

魅魔(ミマ)様ッ……」

 

 魅魔の手が明羅の身体を軽く突き飛ばす。

 

 しかし“神玉”の神主の手は握られた。その力に物理的な距離はさほど重要ではない。

 重要ではないが、封印そのものは魅魔を起点として発動されたもの。

 ほんの僅かでも突き飛ばし、魅魔の身体から離れたのであれば……おそらく明羅の行き先は、本人ほど“深い”ものではなくなっているのだろう。

 

「ああ……」

 

 現に、今の魅魔はたったひとりで宙に浮かび、奈落の底へと堕ちている。

 傍には誰もおらず、何もない。

 

 悪しき霊魂が行きつく異界、地獄。

 魅魔はそこへ封印されたのであった。

 

「……やられた……」

 

 地獄より現世へと返り咲くのは、ほぼ不可能。

 それを理解しているからこそ、魅魔は諦めたように強く目を閉じた。

 

「ああ、でも……最期に……あんたに封じてもらえたなら……そう悪くは、なかったのかなぁ……」

 

 魅魔は奈落の底へと堕ちてゆく。

 その果てに何があるのかは、彼女にはわからない。

 

 ただいつまでもいつまでも、思い出が空より高い場所へ遠ざかっていく感覚だけを、いつまでも全身に受けていた。

 

 

 

『封印完了』

 

 静かな夜の山間に、巨大な陰陽が浮かんでいる。

 赤と青の太極図。そこに浮かび上がる男と女は、無感情に術の成功を認識した。

 

 周囲には誰もいない。

 大勢を殺した魅魔も、明羅も、神主も、玉緒も、大勢いた退魔師も、誰も。

 遠くに立ち上っていたはずの緑色の火炎さえ、魅魔を失ったことで嘘のようにかき消えていた。

 

 先程まで行われていた死闘の全てが無かったことにされたかのように。

 

『あとは、封じた栓を守護するのみ』

『異界を隔て、管理するのみ』

 

 やがて封印をより万全なものとするための“願い”が行使され、神玉は本体を異界へと転移させてゆく。

 

 それは博麗の神主と巫女による義務の具現。

 大妖の災厄を同時に封じ込める最終奥義の後始末。

 

『これで善い』

『これで良い』

 

 感情の消え去った二人の博麗は、太極図の中で穏やかに瞑目し、やがて消えた。

 

 

 

 木々はなく、人もなく、虫も鳥も獣もいない。

 

 荒れ果てた山の荒れ地はその夜、不気味なほどに静かであったという。

 

 


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