東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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幻と現実の迷走

 

 

「じゃあしっかり座って。それと、ふむ。机に腕を乗せておいた方が良さそうだ」

 

 ライオネル・ブラックモア。

 それは私にとって、強さの象徴とも呼べる存在だった。

 

 大々的に名乗りを上げた存在ではない。

 歴史に大きく刻まれた名前でもない。

 それでも不思議なことにその痕跡は永く続き、遡っていけば果ては見えない。

 人類史を越え、おそらく神代にまで遡る必要があるのだろう。神族と魔族が争っていた古き時代の魔法使いなのだ。

 

 謎に満ちた伝説であった。

 その名は神族の間では語られているが、悪魔の中ではそれほどでもない。

 私は魔法により力を得るべく奔走していたので、ライオネル・ブラックモアとの接触は一つの最終目標ではあったのだが……。

 

 不思議な縁もあるものだ。

 こうして、思いがけないきっかけによって、その伝説が目の前にいるのだから。

 

「赤肌、準備はいいかい?」

「ああ。楽しみだな」

 

 凡庸な黒色の骸骨のように見える。

 だが、奴の内に内在する魔法理論はこの私にさえ見通すことができない。

 クイズ大会で出題された数々の難問を見ればわかる。そう容易く理解できるはずもないのだ……。

 

 だから、こうして直に触れてみることもまた、重要なアプローチだ。

 ライオネル・ブラックモアが生み出した魔法。相手の身動きや自由を封じる術。

 呪いは実際に掛けられてみてはじめてその性質を理解できることも多い。

 なに、死ぬわけではない。それはライオネル・ブラックモアも保証しているのだ。

 

 気軽にかかってみることにしよう。

 

「さあ、いつでも来たまえ」

「嬉しそうにしている相手にかける魔法でもないんだけどな……“迷走”」

 

 ライオネルの右手に小さな青い光が灯る。

 それは取り立てて見るべきところもない、小さな魔光のように見えた。

 

「まあ、別にこの魔法を受けたところで特に何も起こりはしないんだけども……体感としては、この言葉を掛けておくべきかな」

「む?」

「“いってらっしゃい”」

 

 そう言われ、私の額はライオネル・ブラックモアの右手に軽く押された。

 

 

 

「……!?」

 

 同時に、思いの外強い力で後ろへと押し出される。

 軽く当てるだけの接触だったはず。だというのに、私の身体は後ろへズルズルと押し流されていくようだった。

 左右の景色は流れ、ライオネルは既に奥側で小さな粒のようになっている。

 

「おお、おおお? こ、これは……幻、か……!」

 

 押し流されている。今も尚。だが、冷静に考えてみれば我々の座っていた席はこれほど広くはなかった。

 だが周囲には非常に精巧な実感として人や物に溢れており、身体は勢いづき、風を受けている。幻には違いないはずなのに、感覚の全てが現状を誤認していた。

 

「ぐっ……」

 

 やがて、今度は下へと落ちていく。

 浮遊感。落下し続ける感覚。だというのに身体はいうことを聞かず、控えめに藻掻くのみ。

 

 

 これは、本当に幻覚なのか?

 

 異界に落とし込まれたのではなく?

 

 

 疑念は尽きないが、勝るのは危機感ばかりだ。とてもではないが術の分析をしていられるほど平静さを保てない。

 だが……いや、堪えよう。これは魔法だ。幻なのだ。

 

「……幻だ」

 

 努めて冷静に周囲を確認すれば、どうやら今落下し続けている私の周囲にある背景じみた壁は、どれも風景を引き伸ばしたような曖昧な造りになっているようだ。

 私が押し出される直前に見ていた視界の、外側を切り取って引き伸ばしただけに過ぎない。どうにかして、私はそのことに気づけた。

 

 幻だ。

 驚くべきことだが、これは現実ではない。

 現実でないならば焦る必要も……。

 

「ッ……!?」

 

 そうして気を抜いた瞬間、落下が終わった。

 落ちて、地面と激突したのだ。それがわかる。

 

 痛みはなかった。

 だが……黒一色の床の上に、指一つも動けない己が潰れ、散らばっているのが理解できる。

 

 もはや声も出ない。先程まで受けていた風も、浮遊感もない。

 自分の僅かに残った感覚があちこちに飛散し、別々の場所で沈黙しているのだ。

 それはまさに、落下死した死体であるかのよう。

 

 眼は見えないが感覚はわかる。全身の位置関係が、曖昧だが把握できる。

 ……これは、全身の感覚を誤認させているのだろうが……恐ろしいものだ。生きながらにしてバラバラに飛散する感覚とは、このようなものなのか。

 

 ……指の感覚が消える。次いで、一つずつ、少しずつ、散らばった己の部位が消滅してゆく。

 辛うじて残されていた自意識が収縮してゆく様は、本当に死を体験しているかのようだ。命の灯火が弱り、消えてゆくかのような感覚……。

 

「幻……」

 

 果たして本当に幻なのか。私は本当に死んでいるのではないか。

 

 そんな葛藤の中でさえ、徐々に感覚は失われてゆく。

 

 やがて私の感覚の全てが完全に途絶え、思考もおぼつかなくなり……。

 

 

 

「やあ」

「……」

 

 目が覚めた。

 

 私はテーブルの上に肘をつき、やや前傾姿勢の状態で気を失っていたようだ。

 ……いや、突っ伏してもいない。もしや、気を失ってすらいないのか?

 

「ちなみに今の魔法はおよそ二分間発動していた。私が軽く額に触れてから、今までだね。気分はどうだろう」

「……想定していた以上に、すこぶる悪い」

「だろうとは思った」

 

 二分。……二分か。

 私の体感では、もう少し長いように感じたが。

 なるほどな。これが“涙の書”の魔法……。

 

「“迷走”は相手の意識を撹乱し、現状を大きく歪めて認識させる魔法だ。人によっては空に放り出されたり、ぐるぐると捻じれ続けたり、霧散したりするらしい。赤肌はどうだった?」

「……突き飛ばされ、落ちて、染みになった」

「おぉ……けど痛くはなかったでしょう」

「ああ、痛みは無かったな……」

 

 そう、痛みはない。終始無痛であり、そういった点を見れば穏当な魔法だと言えるだろう。

 だが……。

 

「しかしこの魔法は、見せられる幻覚が精神に強く作用してしまうようだ。気の弱い妖魔ならば本能的に死んでしまうかもしれぬし、人間でさえ気の弱い者は死んでしまうかもしれん」

「そうだろうか」

「ああ、私が保証しよう。これは少し、いや。かなりまずい」

 

 薬草や錬金薬で幻覚を見せることは多い。

 強い酩酊感を与え、あるいは不安定にさせる。幻覚にも多様な種類があるのを私は知っている。

 

 だがこの魔法はそのどれとも異なるようだ。

 味わう感覚は非常に現実的であり、この私でさえ欺かれるほどだった。

 

 ……最後の擬似的な死の感覚などは、特に恐ろしい。危うく私自身も力を大きく失うところであった。

 精神を存在の支柱とする我々にとって、死の体験とは決して笑い事ではないのだ。

 

「痛くはなくてもまずいかな」

「まずいな」

「ということは広めるわけにはいかないか」

「いかないな」

「そうか……」

 

 ライオネル・ブラックモアはわかりやすく落ち込み、うなだれた。

 

 ……このような危険な魔法を外に持ち出すなど、考えるだけで恐ろしい。

 これをきっかけに魔法を広められたとしても、悪魔の外界死亡率が跳ね上がってしまうだろうよ。

 

「涙の書はまた封印しておくか……」

「ああ、是非ともそうしてくれ」

 

 力には惹かれる。追い求める心は未だに萎えきっていない。

 

 それでも、触れてはならぬ力の見分けはつくのだ。

 

 すまんな、ライオネル・ブラックモア。

 私から提案しておいてなんだが、やめておくことにするよ。

 

 

 


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