ある日、私は近くの山へと赴くことになった。
具体的には山の裾。村人たちは決して近づこうとしない、妖怪だらけの山の近くである。
そこは昔から手出し無用とされている危険な場所であり、実りの時期でさえ踏み込むことを禁じられているのだが。
「どうも流れの者が大勢やってきたみたいで……ほら、二日前にも一人、女の人が来たでしょう。きっとその時と同じで……だからあれほど、天狗が空を舞っているのです」
命之助の言うところによれば、どうもそういうことらしい。
確かに数日前にもよそ者の人間が村を訪れ、この地に匿ってくれないかと頭を下げていた。
彼女が言うには、戦があったのだという。
元々いた村は略奪によって竈の灰まで根こそぎ奪われ、跡形も残っていないとも。
妖怪の山に踏み入ったのは、きっと戦による敗残兵か、住処を失った者達なのだろう。きっと山の妖怪たちは突然の人間たちの侵入に驚き、慌てているに違いない。
村にとっては厄介者でしかない。だが、私から見れば村の者も外の者も同じ人間だ。私が今代の巫女であるならば、彼らも守らなくてはならないだろう。
「止まれ」
出発前に村の者らが案じていた通り、私は山登りをはじめてすぐのところで止められた。
目の前には白い狼の耳を生やした女が立ちふさがり、こちらへ錫杖を構えている。
命之助はなんと言っていたか。確かこれは、白狼天狗といったか……。
「……人里の……ああ。聞いた覚えがある。お前は博麗神社の妖怪巫女だな?」
「ええ」
当然巫女だ。巫女装束も着ている。巫女のつもりで立っている。
「これより先は妖怪の領域。人は踏み入ってはならない」
「私は妖怪なので通らせてもらう」
「……ん? 確かに……いや、待てよ。それはおかしい。まて、通るな。私は通してはならぬと命じられている」
ただ呼び止められただけかと思いきやどうも通れないらしい。
白狼天狗の女は思っていたよりも必死に私を止めようとしてきた。
「妖怪巫女よ。妖怪の山へ何しにきた?」
「人助けよ。意味はわかっているでしょう」
「……ほう」
「この先で人間が囚われているのではないかと、村の者たちが言っていたの。人間がいるなら巫女として助けなければならない。その反応からして、いるのね? だったら通らせてもらう」
「なるほど、そちらの事情は理解した。しかし、そうであれば断らせてもらおう。外より踏み入った人間がいるのは事実だ。人数も多い。だが連中は、既に山の妖怪たちに刃を向けている。少なからぬ血も流れた。助ける義理も生かす理由もない」
白狼天狗は毅然とした態度でそう答えた。
……なるほど。
「人間たちは山の妖怪を傷つけたのね」
「ああ」
「そう。なら、相応しい報いを受ける必要はあるでしょう。食うなり骨を漁るなり、好きにするといい。災難だったわね」
私のそんな答えが意外だったのか、白狼天狗は僅かに瞠目していた。
「……そのように言うとは、驚いたな」
「当然のことでしょう。やられたならばやりかえすなど。山の暮らしを脅かす存在が攻め入ったのであれば、仕方のないことです」
「……面白い巫女だ。皆はお前のことを“人間に与する変人”と呼ぶが、やはり妖怪は妖怪らしい」
「人でも妖怪でも変わりはないわ」
「ふふ……どうだか。少し安心したよ」
多少態度が軟化したのか、白狼天狗は錫杖を下ろしてくれた。
彼女は番人としての役目を担っているだろうに、少々無防備ではないか。その無防備さに与っている私はとやかく言えないだろうけど……。
「見るといい、あの空を」
彼女が空を見上げ、括り上げた白髪が揺れる。
視線の先には、幾つもの黒い影が青空を旋回していた。
「鴉天狗たちが大勢飛んでいる。山に踏み込む人間たちを警戒しているのだ。私も、普段は回らぬ場所の巡回まで命じられている。……人間たちのやらかしたのは、既に大事だよ」
「……ただ、血が流れただけではない?」
「ああ。誰とは言えんが、妖怪の一人が殺されている。飢えた人間どもはまるで獣だな。いや、見境がなく、悪意が強い時点で獣以下か……悪いことは言わん。外から来た人間どもには関わらないほうが良い」
「……そう」
なるほど。奪われた人間たちは、妖怪を殺したのか。
……自分達よりも遥かに強い者を相手に、死にもの狂いで闘ったのだろう。
「腹をすかせていたのでしょうね」
「だろうな。とにかく、これ以上は……」
「ならば、助け出さなくてはならない」
「……私の話を聞いていたのか?」
空気の変化を感じ取ってか、白狼天狗が錫杖を構える。
鉄輪が冷ややかな音を鳴らし、緊張が走る。
私も足を肩幅まで広げ、拳を構えていた。
「聞いてはいた。状況は理解した。同情もする。けど、貴女は“人間たち”と言ったわね」
「……妖怪の山を敵に回すなど、正気ではないぞ。やめておけ」
「殺した者には同じ重さの報いは下るべきでしょう。しかし、手出ししていない者であればそうはいかない。非力な子供がいるならば、尚更にね」
白狼天狗。
彼女らは空を駆けるよりも地を駆けることに特化した妖怪だ。
近接攻撃に秀で、術に疎い。
「命までは……獲らないでおこうッ!」
一瞬、白狼天狗の姿が消え、目の前に現れた。
錫杖が私の腹へと突き出され、鉄輪が鋭く響く。
「!」
「遅い」
彼女の突きに手を添え、横にずらすのは容易かった。
近距離戦に秀でた妖怪。つまりは魔族。……私にとって、最も相性の良い相手だ。
「な、これは――!」
「命までは獲らないわ」
私の気を込めた手刀は白狼天狗の眉間を打ち、静かに炸裂する気は目と脳の辺りで弾け、意識を奪う。
外傷も作らず後遺症も残さない。色々話してくれたお詫びの、私なりの慈悲の一撃だ。大樹を背にして寝かせるのは白い衣服に申し訳ないが、まあ我慢してくれ。こちらも緊急事態ではあるのだ。
「……今の村には人手が足りないのよ。罪人ならともかく、せっかく訪れてきた何の咎もない人間を逃してたまるものですか」
これは私にとっても無関係ではないことだ。
なにせ博麗神社の陰陽玉を次代に継がせるには、とにかく才気ある人が必要なのだ。その才気を望むには、今の人里はあまりにも閑散としすぎている。
仕事はいくらでもあるのだ。男手だって全然足りない。
妖怪の山の住民には悪いと思うが、せっかくの移住者たちなのだ。
その命、その骨、私が拾わせてもらうぞ。