「――そうでしたか。そういうことであれば、その謝罪はお受けしましょう」
靈威の意識が闇から浮上しかけたとき、最初に感じたのは声だった。
耳に馴染む紅の声。そして母屋の香り。
「おや……靈威、目が覚めましたか?」
「……紅さん」
靈威は気づけば寝床にいた。
かつて戦闘で敗北した時と同じ。気を失い、気がつけば神社に戻されている。
「私は……」
今回も駄目だったのか。
ついにサリエルの元にまでたどり着き、一矢報いたというのに。
靈威が打ちひしがれていると、その様子を見て遅まきに悟った紅が手のひらを鳴らした。
「そうです、靈威。これを見なさい」
「……?」
紅は傍らにおいてあったものを手にとって見せた。
それが何なのか、靈威には一瞬だけわからなかったものの……境内の真ん中に堂々と居座っていた看板であることを認識すると、口から“あ”と言葉が漏れた。
「看板が、抜けたということは」
「靈威。よくやりましたね。貴女は見事死の天使サリエルを倒し、博麗神社の敷地を守り抜いたのです」
「……はい」
「魔界に潜む
これは全て仕組まれた闘いであった。それは靈威も知っているし受け入れてもいる。
しかし紅の言葉の中には、最初に闘った陰陽玉を模した門番の存在が抜けていることに気がついた。
あの門番は一体? あれは仕組まれていなかったものなのだろうか? 靈威はそのことについて疑問に思ったが、病み上がりで気だるいこともあって思うだけに留まった。
「しかし……忘れてはいけないわ。たとえ貴女が強くとも。それぞれを一対一で相手取れば勝利することができるのだとしても。敵が一斉に向かってきた時、貴女はどうしようもなく無力になる。仮に、貴女が最初に倒した魔眼とエリスだったかしら。その二つが同時に襲いかかってくれば、きっと貴女は速やかに負けるでしょう」
「……はい」
「そして相手の温情がなければ命は容易く奪われる。こうして貴女が敵地から律儀に戻されているのは、向こうの慈悲深い精神の上で成り立っているだけの、危うい奇跡なの。……それは、きっとこの幻想郷という箱庭の中でも変わりはしない」
障子を開け、紅が縁側に出た。
外は既に朝で、どこからか小鳥のさえずりが聞こえてくる。
靈威は自分が空腹であることにようやく気が付いた。
「幻想郷は、特にそこで生きる人間は、危うい調和によって生かされている。それは……貴女単独の力によって意のままに塗り替えられる類のものではない」
「……私は、生かされている」
「そうです。認めたくはないでしょうがね。……この世界は案外、そういうものなのよ。常に自分よりも上の存在はいて、その気まぐれで成り立っている……強者の理屈の中で弱者が折り合いをつけて生きているだけなのよ」
弱者に選択肢はない。それは靈威にもよくわかる。なにしろ己の出生からしてそうであったのだから、実感は強い。
「殺し殺されを始めてしまえば、負けるのは必ず弱者の方よ」
「……人間は、弱いのですね」
「もちろん。そして弱者にできるのは、相手に殺意を抱かせない程度に抵抗し、己の生きる領分を必死に守ることだけ。昔からそうだったのよ。より良い道を我が者顔で歩けるのはいつだって体の巨大な者か、肉食の者だった」
日の当たる縁側の上で、紅がニヤリと笑う。
「工夫して立ち回りなさい。種の生存は天敵の殲滅とは限らないわ。人間という種族を生き残らせるために、よくよく考えて行動しなさい。貴女には大きく優秀な脳がある。魔でも神でもない身でありながら、最善の答えを描き得る知恵がある。これからはもっと、そこをしっかり活用することね」
「あ、う」
紅が靈威の額を指で弾くと、満足そうに微笑んだ。
靈威は実際に見たことはなかったが、母親のような笑みだった。
「……紅さん」
「うん」
「……もう、行かれてしまうのですか」
「……」
紅は既に支度を整えていた。
服も、最低限の荷物も、全て明朝前に纏め終えてしまったのだ。
靈威は魔界での修行で成長した。肉体的にも精神的にも強くなった。
一時的に訪れていた幻想郷の混迷も落ち着いて、靈威の心のあり方も今の会話でヒントが得られたことだろう。
それは、紅がこの地に拘る理由の消失を意味していた。
「靈威、貴女は賢い」
紅は靈威の頭を撫でた。
「賢く、強く、実直です。貴女が巫女であることを疎む者はいない。……それはもはや、子という軛に囚われていて良いものではないのです。子の独り立ちを喜ばない母はいません。……貴女は本当に善く成長してくれた」
「行って、しまうんですね」
「でも忘れないで。この村には貴女と志を同じくする同胞たちがいる。貴女は孤独な種族ではない。もっと周りを見なさい。もっと頼りなさい。そうすることできっと、私が抜けた後の傷などは瞬く間に癒やされるでしょうから」
「淋しい、です」
靈威の目から涙がこぼれ落ちた。
「……靈威」
「一緒には、いられないのですね……?」
「……以前話した通り。私は貴女が成長するのを見届けた。これは素晴らしい門出だと思っているけど……違うのかしら? 貴女はまだ、立派な巫女にはなっていないの? 私に甘えていなければ、いつまでも生きてはいけないと?」
紅に涙を拭い取られると、靈威は首を横に振った。
「巫女です」
「ええ」
「私は博麗神社の三代目巫女、博麗靈威です……!」
もはや靈威の目に迷いは残されていなかった。
「……そう、貴女は靈威。博麗の素敵な巫女。……自信を持って。私が直々に鍛えた貴女なら、この幻想郷でも人間たちと共に生きていける」
「はいっ!」
「これでようやく、心置きなく世界の旅に出られるわ」
紅の旅は出だしから躓いていた。
ゲートを潜ったその先で突然巫女に選ばれ、孤児を拾い、育てることにまでなってしまった。
ひどく長い回り道であった。だがこうしてやりきってしまえば、残されたのはなんとも言えない充足感だ。
少なくともこの疲労感と感情を、紅は悪いものだとは思っていない。
「じゃあね、靈威」
こうして紅は博麗神社を、幻想郷を発つ事となった。
「はい! ……さようなら、紅さん……!」
「ええ。まあ、あと十年か二十年くらいしたら一度顔を出すかもしれないけどね」
「え?」
靈威にとってそれは初耳であった。
「……も、戻ってくるん、ですか?」
「旅する予定の場所は広いし、海向こうだから時間も相当にかかるだろうけど……まあ、そのくらいの時間があれば見たいものはざっと見て回れるでしょうからね。年に一度とかはさすがに面倒だけど、折を見て村の様子を見に帰って来ようかなとは思っているわよ。人間の寿命は短いものだし、まるまるすっぽかすわけにもいかないでしょう」
「……はあ」
「ええ、ちょっと何よ。当たり前だけど、私が戻ってきた時に巫女としてあまりに不甲斐ない姿を見せているようだったら引っ叩きますからね?」
靈威は堪えきれないように小さな笑みと、涙を零した。
「……それは恐ろしいです。紅さんがいなくとも無事にやっていけるということを、次にお会いする際には証明しなくてはなりませんね」
「ええ、是非そうして頂戴。紫の課す修行も怠らないこと」
紅が歩き出し、後ろ手に手を振った。
「また今度、手合わせしましょう」
「……はい!」
深々と頭を下げ、紅髪の魔族を見送った。
紅の姿はやがて石階段の向こうに消え、見えなくなる。
靈威は見送ろうかとも思ったが、全身の耐え難い全身の痛みによって立ち上がることもできない。
あるいは紅は、靈威がそんな状態であるからこそ今を別れとしたのかもしれないが。
部屋には靈威だけが取り残された。
しかし不思議と、絶望するほどではない。
「……これからは私が、博麗神社を。人里を守っていかなければ」
やるべきことは沢山ある。
しかし、今のところまずやるべき事といえば。
「ごはん、食べないと」
靈威はひとまず、枕元に置かれていた握り飯を食べることにした。