フランドールによる、赤銅色の小箱の研究が始まった。
姉のレミリアは吸血鬼の怪力を持ってしても開くことのない小箱に数日間ほどは執着していたものの、腕力では無理だと悟ると“こんなものに執着している時間は無いわ”などという捨て台詞を残して飽きたフリをした。
内心では箱の中身が気になっているであろうことをフランドールは知っていたが、あえて言い当ててやる必要もない。それこそフランドールにとっては無駄なやりとりである。
「材質はわかった。サンプルが採れないから難儀したけど、オリハルコンだね」
削る、切り取るなどといった末端の破壊すら上手くいかなかったものの、その頑強さ故に逆に調査法を絞り込むことに成功した。
最初は魔法により保護されているものかと考えたフランドールだったが、箱の解法にこそ魔法が使われていたが、箱の頑強な作りは構造的なものでしかなかったのである。
オリハルコン。それは魔法金属であり、ヒヒイロカネとも呼ばれるものだ。
環境の変化に強く、非常にタフな金属として知られている。そのため変形を始めとした加工が大変に困難であり、熟練の魔法使いや錬金術士などが長い時間をかけて作業する。
いわゆる幻の金属だ。フランドールも実際に目にするのは初めてのことである。
「箱そのものはお父様の封印だけど、中身はなんだろう。これだけでも立派なアーティファクトなんだけどな」
箱の表面には幾つかの封印が施されていた。
魔力を導線に流し込むことによって作動するものだが、適当に流しても解除されることはない。流し込む方向を緻密に操作し、正道のみをくぐり抜ける必要がある。
丁寧なことに、表面の細やかなレリーフにはナハテラの得意分野でもあったエンチャントの基礎理論をモチーフとした“問題”が刻まれている。ナハテラの研究に明るくなければ到底解けない内容だ。
「……チッ。メモに書き写すだけじゃうまくいかない。フェイクだ。……ああ、これ立体? 対面側の記号と重なる部分だけが有効ってこと? 相変わらず意地悪いなお父様……面倒なことを……」
小箱の紋様を書き写し、またかき消し、再び書き写し。
刻まれた問題の複雑さにフランドールは何度も頭を掻いたが、こうして熱中できる時間は彼女の嫌いな過ごし方ではなかった。
「はい、人間の血よ。私ばかりに支度をさせないで欲しいんだけど」
「あー、うん」
飢餓感を忘れて作業に没頭するため、時折レミリアがやってきてはフランドールに血で満たされたカップを差し出す。
錫製のゴブレット。吸血鬼とはいえ、一回の吸血で人をミイラにできるほど飲むことはない。コップに入れて何口か。それだけで妖魔としての力を維持できるのは、彼女たちの強みである。
「どうなの、フランドール。お父様の遺品の開封作業は」
「今日中には開くよ。性格悪い仕掛けばっかりだったけど、お父様も間抜けね。論理立てて作るせいで正解が導けちゃうんだから」
「誰にも開けてほしくないならそうしたのでしょう。フランドールのような人に中を見てほしいから、そう作ったのよ」
「ふうん」
六面のレリーフが相互干渉する式は既に解き終えた。あとは導き出した正道に魔力を流すのみ。
その魔力もまた、並大抵の術者には扱えないほどの量である。そう考えるとやはり、これはフランドールなどに宛てた贈り物だったのかもしれない。
「ほら、開くよ」
「おっ」
魔力を導線に流しきった瞬間、僅かな発光とともに小箱は六つの面がバラバラになって崩れ落ちた。
中に入っていたのは一枚の栞。
オリハルコンの小箱と似た、赤銅色の薄い栞である。
「へえ、洒落たものが入ってるのね。……フラン? ちょっとフラン、どうしたの」
この時、目を見開いて固まったフランドールにはレミリアの声が届いていなかった。
フランドールの精神は今、圧縮された時間の最中にあり、不思議な空間を漂っていたのである。
『あら、お父様じゃん』
『やぁ』
真っ暗な空間。フランドールの目の前には、見慣れた一人の悪魔が座っていた。
病的に青白い肌。赤い瞳。臙脂学派の元学長でもある、ナハテラその人。
『何かしら。お父様の日記か何か?』
『あなたがこれを見ているということは、無事に私の“金庫”を開けたということだろう。勝手ですまないが、この空間や今見ているこの景色は、あなたの流し込んだ魔力によって造影されている』
『ああ、そういう記録。やっぱり一方通行か』
『これは記録された映像だ。正直言って、今の私からはあなたが何者かなどはわからない。私の身内か、古い友人か、それとも私を滅ぼした敵対勢力なのか、そもそも私はまだ死んでいないのか……。だが私の金庫を解いたのだから、あなたが最低限の教養を備えた魔法使いであることは間違いないのだろう』
『……家族宛て、というわけでもない』
ナハテラの言動から、このメッセージが小箱、“金庫”を開封した第三者に宛てたものであるらしい。
『この金庫に封じられていたものは、ある魔法理論を記した“栞”だ。その解法にも時間と労力は必要になるだろうが、この小箱を解いたあなたであれば不可能ではないだろう。問題は、その封じられた“魔法”にあるのだ』
『へえ?』
『栞に記された魔法は、大いなる破壊をもたらす危険な魔法だった。扱い方によっては大きな災いとなるだろうし、それに倍する敵を作ることにもなるだろう。断言するが、この魔法を持つ者は様々な勢力によって付け狙われるはずだ。少なくとも私はそんな魔法を実践することには価値を見い出せなかったので、こうして栞を再封印させてもらうことにした。栞を贈呈してくれた魔界の方々には申し訳ないとは思うが……』
大いなる破壊の魔法。それも、パワーバランスを崩すほどの。
そう言われると、フランドールとしては俄然興味が湧いた。
『だが、私ではない誰かがいつか、この魔法に価値を見出すことがあるかもしれない。そのためにあえて破棄することはせず、こうして栞を封印するという形で保存することにした。これを見ているあなたもまた私と同じく栞を持て余すようであれば、再びこれを封印してもらいたい』
フランドールは亡き父の幻像に舌を出して見せた。
『さて、栞に封じられている魔法は……“握手”という。ライオネル・ブラックモア著、“血の書”に記された破壊の魔法。これを用いれば小箱の材料である頑強なオリハルコンでさえ粉微塵にできるだろう。それは言うまでもないが、この世界に存在する幾つもの“立入禁止”の仕組みや前提を瓦解させる魔法だ。もしもこの魔法の存在が知れ渡れば、数えるのも億劫になるほどの派閥の有力者があなたを消しに来るのは想像に難くない。きっとそういった場面に至れば、もはやこの魔法の威力をもってしても悲惨な結末は避けられないだろう』
『……へえ』
栞に記された魔法は“握手”。
通常は外部に託されることのない血の書の魔法であったが、偉大なる魔法使いの“このくらいならまぁギリセーフかな”という一存によって世に放たれた破壊魔法である。
物体に宿る最も緊張した“目”の部分を擬似的に手中に収め、握り潰すことによって対象を崩壊させる。
この魔法を扱う者を見れば、それは手を握り締めるだけでありとあらゆるものを破壊しているように見えるのかもしれない。
とはいえ、多勢に無勢という言葉もある。ナハテラの語ったように囲まれれば窮するであろうし、何より瞬時に魔法を構築するには“握手”は非常に複雑だ。
習得するだけでリスクばかりが増える魔法。そう考えれば、ナハテラがそっと封じたのも頷ける。
『重ねて言うが、私はおすすめはしない。あなたはこの魔法を扱うだけの最低限の技量は持っているかもしれないが、それを実益に変えることはできないだろう。非現実的だ』
『……どうかな、お父様』
確かに複雑かもしれない。咄嗟に扱えない魔法かもしれない。リスクは大きいかもしれない。
だが、魔法そのものを身につければ。
エンチャントによって自らに紐付けしてしまえば、術の取り回しは格段に改善されるだろう。
『ああ。そうだ。魔石などにエンチャント化させることも、私はおすすめはしない』
『!』
『金庫を開けた者であればきっと思いつくことだろうからあらかじめ釘を差しておく。おすすめはしない。何故ならば栞に記された“握手”の情報量は非常に膨大で、緻密だからだ。到底普通の魔石に封じ込められるものではない』
『……は? できるよ、私なら』
『希少な資料故に破棄はしない。だが、くれぐれも扱いには神経を払うように。それが私の望みだ』
『凡百の魔法使いに出来なくても、私になら扱える。私が証明してあげるよ。お父様』
『それでは、また会おう。……いや、会うことはないのか? ふむ。では……』
最後にそんな言葉を告げて、ナハテラは闇の中に溶けるように消えた。
「フランドール! 大丈夫!?」
そして目の前の闇が取り払われると、目の前には騒々しい姉の狼狽える姿があった。
「良かった、少しの間ぼんやりしてたから。何かあったの?」
「ああ……まぁね。この箱を開けた時に、メッセージが頭の中に流れるみたい。お父様が伝言を話してくれたわ」
「……遺言? か、何か……?」
「残念。私達宛てというわけでもないみたい。開けた人に対する注意喚起だけ」
フランドールは机の上にある一枚の栞を手に取り、口元を歪ませた。
「この栞の中には魔法が封印されているらしいよ」
「……また封印? それも魔法か……二重の封印に、しかも魔法……はあ」
どうやらレミリアとしてはもう少し別の中身であってほしかったようだ。
フランドールにとってはこの上ないプレゼントなのだが。
「お姉さま。この栞の開封も私がやって良いよね?」
「ええ、好きになさい。……どうせ私がやってもわからないだろうし」
「そう。じゃあ、そうするよ」
破壊魔法“握手”。
父でさえ断念した大いなるこの魔法を、必ず自らのものにしてみせる。
新たな目標を前にして飲む血は、久々に美味く感じた。